キミが泣くならば(2/3)



「どこに行くんだ?」
「ちょっと、走ってくる」

声をかけてくるお父さんに背中で返事をして、シューズの紐をしっかりと結んだ。
ランニング用のショルダーバックを掴んで、カチリと胸の前でバックルを止める。

あんまり、遅くなるなよ。

少し心配そうな声が後ろから追いかけてくるから、うん、と笑って見せると少し安心させられたようだ。
お父さんは手を振ってリビングに戻っていった。

夕方、日が落ちる手前のこの時間に走るのは久しぶり。
秋過ぎのこの時間帯は物悲しくて、嫌なことばかり思い出すから。
部屋にいてもろくなことを考えない。

ゆったりと景色が流れていく。
少し冷たい風が、耳元を掠めていった。

学校まで行くかな。

学校までこのまま走って20分くらい。
夜までには家に帰れるだろう。
休憩するにしても学校のほうが安全だ。

目的地を決めてリズミカルに足を動かしながら、呼吸を一定に保った。





「…はァ、はァ…ふゥ…」

校門に入り、スピードを緩めて心拍を整える。
腰に手を当てて空を仰ぐと、紺と赤のコントラスとがとても綺麗。

走った後なのに脚が軽い。
心地良い疲労がゆったりと全身を覆う。

妙なデジャヴ感が襲ってきて、心臓がドクンと脈打つ。

開いていた口を閉め、脚に力を込めた。
一瞬の筋肉の収縮と、開放。
ぐっと膝から足首に圧がかかる。

「…っあ!くぅ…」

駄目だ。

一瞬の激痛でその場に座り込む。
足首にズクズクと熱を持った痛みが蘇った。
その痛みが、もう二度と戻らない時間や後悔を思い出させる。

もう私は近づいて、遠のいていくあの高い空を見ることはできない。


「…何してるん」

頭上から声が聞こえて視線を上げれば、長くて黒いシルエットが夕日を背負って立っていた。

「御堂筋くん」

ぐるぐると落ちていく感覚が途切れて、現実に引き戻される。

「なんか、最近こういうシチュエーション多いね」

笑って言うと、キミィがぼーっとしとるからや、最近は特になァ、と痛いことを言われた。

「部活?」
「おん。今から身体ほぐして帰る」
「そうなんだ」

Tシャツを口元までひっぱりあげて、落ちてくる汗を拭いながら背の高い彼を見ると、彼もすごい汗だ。

引き止めて風邪でもひかせたりしたらまずい。
私も柔軟して帰ろう。

ふっと一息ついて立ち上がると同時にカパと御堂筋くんの口が開いた。

「ボク今から部室戻るんやけど、キミも一緒に来る?」

急になんなの?

突然の誘いに目を丸くしてその顔をまじまじと見た。

「なんや、アホみたいな顔して。いくでェ」

当の御堂筋くんは固まっている私を横目で一瞥して、さっさと自転車を押して行ってしまう。
いや、いいです、なんて断ることもできずに、結局その後ろを微妙な顔をしながらついて歩くしかなかった。

自転車部の部室が見えてきて、真っ暗な窓はもう誰も残っていないことを物語っている。



ちょォ、ここで待っといて。

自転車をバーに引っ掛けて、後ろ手に部室のドアを閉めながら御堂筋くんが室内に入っていく。
パッと電気がついて、薄暗さの中に明かりが差し込んで、すぐにガラリと窓が開いた。

「これ、使いィ」

ぽいっと投げ渡されたタオルを慌てて掴むと、ピシャっと窓が閉まる。

優しいところあるんじゃん。

急にこんなことをされると戸惑ってしまう。



「入ってええよ」

自分の柔軟をしていると、程なくしてドアが開いて御堂筋くんの顔が覗いた。

「お邪魔します…」

中に入ると、ロッカーとベンチと机とといった簡素な造り。

あー、部室、こんな感じ。

見たことがあるような光景に懐かしさでいっぱいになる。

「親御さんに連絡しときィ」

帰り、送ったるから。

振り向くと下だけ制服で上はTシャツといった御堂筋くんの後ろ姿が見えた。

「や、いいよ、悪いし…」

さすがにそこまでは、と言いかけてその先を御堂筋くんの低い声が遮る。

「ええから」

有無を言わせない圧に押されて、素直に携帯を取り出した。

『学校まで走った。途中で友達と会ったから、一緒に帰ってくるね』

でもまぁ、確かに、とメッセージを送りながら思う。

あの日からお父さんはずっと私のことを割れ物でも扱うように接してくる。
これ以上心配をかけられない。

手に持っていた携帯が震える。

『お父さん:気をつけて』
『はい』

短いやりとりを終えて携帯をショルダーバックにしまうと、床にひいたマットからこちらを見ている御堂筋くんと目が合った。

「柔軟、手伝うて」
「あ、うん」

なるほど、そういうことか、一人合点がいく。
大方最後まで練習していて誰もいないから、柔軟相手がほしくて私を誘ったのだろう。

どうしたらいい?

そう聞くと、背中押して、と短く答えが返ってくる。

見ているだけではわからなかったが、その背中は近くで見ると広くて厚い。
そっと手を添えると、鍛えられている締まった身体ということがよく分かる。
ぐっと力を込めて前に押すと、しなやかに前屈していく。

「わぁ、いい身体してるねぇ」

思わず感嘆の声を出してしまう。
でも、そこには、耐えて耐えて、努力し抜いてきた結果がある。
そう思うと、単純に感動してしまう。

「ええニク、らしいわ」
「ニク?」
「筋肉のことやて。中学ん時の後輩が」

へー。筋肉が好きなの?その子、と素直に聞くと、うん、と答えが返ってきて、あら、今なんか御堂筋くんと普通に会話できてる、と不思議な感覚に陥る。
考えてみたら彼と嫌味の応酬なく会話したことなどなかった、と今までのことを思い返す。

これが素なのかな。

そんなことを考えながら、言われるがままに柔軟を手伝う中でふと違和感を感じる。

これ…。

ふと瞬間に微妙に強張る身体を感じて、背中がヒヤリとする。
まだ全力では走れないと言っていた彼の言葉の意味を、今ここで理解してしまったかもしれない。

大丈夫?

口にしかけて飲み込んだ。
今、目の前のこの背中は、懸命に何かを越えて行こうとしてしているのだろうから。



「キミ」

柔軟を終え、帰り支度を始めた御堂筋くんがふいに声を掛けてきた。

「ん?」
「なんか運動してたん」

そういう話になるよね。

今日あの瞬間を見られた時から、いつか聞かれるんじゃないかと思っていたことを聞かれて、諦めにも似た気持ちを抱く。

「歩きながら話そうか」

バタン。
後ろでロッカーを閉める音が聞こえて、私はドアを開ける。
空にはチラチラと星が輝き始めていた。