白雨(1/3)
「入って」
短くそう言うと、御堂筋くんは“久屋”と書かれた表札の家に入っていく。
家の脇をすり抜けて離れへ入っていく御堂筋くんに素直についていきながら疑問を感じるが、何となく口に出すのは憚られて何も言えなかった。
通された離れは玄関が土間になっていて、小上がりの先に部屋がある小さな空間だった。
御堂筋くんは土間に自転車を止めると、待っといて、と声をかけて部屋へ入っていった。
私は小上がりにそっと腰掛けて息を吸う。
御堂筋くんの空気が漂っている。
あんなにうるさかった雨音はもう遠くで、この家の中はひどく静かだ。
しんとした静けさの中、御堂筋くんが部屋を歩いている音だけが聞こえる。
部屋の中を見るのは気が引けて、自分のつま先を見つめていた。
「これ、洗っとるやつやから」
背中にかけられた声に振り向くと、バスタオルを握って立っている御堂筋くんがいた。
「あ、ありがとう」
礼を言ってタオルを受け取ると、御堂筋くんはふいっとまたそこから立ち去っていく。
視界を遮っていた御堂筋くんがいなくなって、見えてしまった。
棚の上にきちんと整列している沢山のトロフィーと、その横にあったもの。
「ボクの母さんや」
いつの間にか薬箱を持って佇んでいた御堂筋くんが、ボソリと呟くように言って屈んだ。
私はその、溢れんばかりに微笑む女性の写真と、その前に置かれた明らかに故人に供えるであろう見知った物たちから目を逸らした。
腕、見して、と御堂筋くんが私の手を取って、慣れた手つきで手当てしてくれるのを見ていられなくなって、私はバスタオルを頭からかぶる。
いつか家に来てくれた時に手際よく洗っていた食器を扱う手とか、学校の教室で何気なく畳んでいた洋服の綺麗さとか、取れかけていた制服のボタンを、付けようか?と聞いた時自分でつけるからいい、と言っていたこととか。
そういう何気ない場面が、ふと浮かんでは消えていった。
御堂筋ではない表札、この小さな離れ、お母さんは他界しているらしいこと。
察するには十分過ぎて心臓が痛くなった。
御堂筋くんの香りがするタオルをぎゅうっと顔に押し付ける。
当たり前のように、思春期真っ只中の御堂筋くんが文句を言い合いながらお手伝いをさせられたり、時にはくだらないことで笑いあったり、レースに負けて帰ってきたら何も言わず暖かく迎えてくれて、ちゃんとそこにはこっそり感謝しているような、そんな家族とのつまらないけれど愛おしい日常があると思っていた。
ないのだ。
そんな日常は。
どこにも。
「なァ」
「う、わ」
声を掛けられて顔を上げたら、心底煩わしいといった顏がすぐ目の前にあった。
「キミィかて分かるやろ。
こういう話した時のこういう空気が面倒なん」
そう言って頭にかかっていたバスタオルをグッと下に引っ張った。
視界がタオルで遮られる。
「…ごめん」
「謝られるのも、なんか微妙やわ」
ぐうの音も出ないなと思いながら、ぼんやりとタオルの隙間から見える、御堂筋くんの筋張った手と足の甲をただ見ていた。