「夜鷹花魁、御前様がおいでになりました」
「はぁい。今行きんす」
文箱を開けると、ふんわりと梅の香が漂う。
丁寧に道具を片付けると、すんすんともう一度その香の薫りを楽しんで蓋を閉めた。
鏡台の前に座り扉を開け、眼尻の紅をなおす。
いつものように口元をふんわりと布で覆い、布についた赤い紐を耳後ろで縛ると、目元に自分の特徴である淡い笑みを浮かべる。
スイと立ち上がり襖近くに歩をすすめると禿が扉を開け、私はゆらゆらと揺れる提灯の灯りの中に足を踏み出した。
さぁ、今夜も仕事だ。
「まぁ。今日はお連れの方も一緒でありしんたか」
「こやつが、どうしてもと言うのでな」
「わっちは御前様と2人きりだとばかり思って、楽しみにしてたのに」
「まぁそう怒るな。おい浦原」
肥え太ったその白い手に自分の手を添えたまま、その男が呼んだ男に視線を移す。
「ハイ」
上品に微笑んで伏せたその瞳が、少しも笑っていないことを私は知っている。
「今日は儂の奢りだ、遠慮するな。夜鷹、他の者も呼べ」
「御前様がそう仰るンなら」
翠、と自分付きの禿を呼んで、今手の空いている高い遊女をとにかく沢山集めてくるよう耳打ちする。
「それが済んだら、もうあんたは今日は下がっていいよ」
微笑んで見せると、わかりました姐さま!と可愛らしく返事をして、翠が去っていく。
幼い後ろ姿を見送って、さて、と上機嫌で下卑た笑みを浮かべている客に向き直った。
「しかし、夜鷹よ。
儂はいつになったらお主の素顔を拝めるのかのう?」
「そうでありんすねぇ。
幾百夜通ってでも、わっちを手に入れたいという御仁がごまんとおりんすからなぁ…」
「通いが足りんというわけか」
「でも、御前様?
それはわっちの心次第でありんす。わっちの心が動けば今夜にも、」
その耳元で淫靡な囁きを聞かせれば、元々だらしのないその顔貌が更に醜く崩れた。
近づけた顔を離して、目元で艶やかに笑ってみせる。
冷ややかに結んだ口元は隠して。
カンー。
襦袢の袖からのぞく自分の白い腕が、煙管を持ち上げて灰吹に灰を落とした。
月明かりが冴え冴えと手元を照らす。
開け放した小窓の先に紫煙がゆらゆらと漂って流れて行くのを見送って、ふいに背中に寒気を感じた。
後ろ手に打ち掛けを探す。
「どうぞ」
耳元で深い声がして、ふわりと肩に着物の重みが降りてきた。
私はその裾を掴まえするりと肩に寄せて、口端を歪ませる。
「…こんな時間に、花魁の閨に忍ぶとは命知らずなことを」
「やだなぁ、しらばっくれちゃって」
気づいてたでしょうに、と低い笑い声が回り込んで、その先に桑色の髪が月明かりを受けて光る。
気づいていた。
だから、人払いをした。
客はとうの昔に酔い潰れて別室で寝ている。
ここには誰もいない。
「 "よだか" は夜目が効きんすからなぁ」
うっそりと目を細めると、そこでようやく目が合う。
「いつまで、夜鷹でいるつもりです?」
名前サン。
途端に私は目の演技を止めて、無になる。
この郭で唯一本当の名を呼ばれる時、それは。
「報告書を」
「用意できています」
コトリ、と文箱を開けると梅の薫りが鼻孔をくすぐるが、今の私の心は動かない。
一番上に重ねていた文を取り出し手渡すと、目の前の男、浦原喜助はパラリと中身を広げてサラサラと斜め読んだ。
「確かに」
ニコリと笑って文を畳んでいくその笑みにも、感情は読み取れない。
「しかし、毎度こんな歯の浮くような内容が書けますねぇ」
「"夜鷹"は、そういう女ですからね」
煙草盆に煙管を置いて、スッと姿勢を立て直した。
「流石」
「務めてみせますよ、最後まで」
最後と言わずボクの補佐やってくださいよぉ、と相変わらずの緩んだ顔を見て、恐い男だ、と思う。
まるで殺気が感じられないのに、必要であれば躊躇なく簡単に私を殺せるだろう。
隠密機動第三分隊・檻理隊。
それが私の本来の所属だ。
そして目の前にいる男。
彼こそが、檻理隊はじまって以来の優秀な部隊長と名高い、浦原喜助である。
あの夜一様がその腕を買っているというこの男が、私の今の上司だ。
檻理隊は隠密機動隊の中でも、反乱分子を監視、投獄するための、潜入、捜査を生業とする隊である。
ここ数年をかけて探っている案件には死神のみならず、貴族も含めた大物が関わっている。
遊郭には多くのそうした情報が集まってくるため、諜報活動には非常に適した場所だ。
定期的に探った情報を纏めて浦原部隊長に渡すのが私の仕事。
甘い恋文と見せかけて、部隊長が読めばその内容は諜報活動の記録であることが分かるよう隠語が散りばめられたものとなっている。
私の役割は演じること。
空っぽの私にはうってつけの役割だ。
懐に隠した刀をツゥと撫でて、満月に視線を移した。
私の魂はとうの昔に夜一様に渡してある。
私はもう私のものではない。
「この任務が終わったら、私を彼処へ返してくださる約束をお忘れなく」
「アナタも、夜一サンからアナタを預かっているのは、ボクであることをお忘れなきよう」
見透かされている。
本当にこの男は。
「憎い、って顔してますよ」
「御冗談を」
フフ、と分隊長が笑って、それじゃまた、と独特の残り香と共に常闇に溶けていった。
せめて、"夜鷹"の名を呼んでから去って欲しかった。
残酷なことをする。
ただの花魁で過ごす冷たい夜のほうが、寒ささえ感じないこの身でいるよりマシだというのに。
終
