花魁の特権として、1番湯に1人で浸かることがある。
しゅるりと衣擦れの音と共に、白い肌が朝日に晒された。
最後に残った耳元の紐を解くと、口元が顕になる。
湯場に置いてある鏡を見て、夜鷹とはよくいったものだと、1人そっと頬を撫でた。
あれからどのくらいの時間が経っただろう。
随分と遠くまで来てしまったような気がする。
酷い場所だった。
いつも血の匂いがして、常に死が間近にあった。
尸魂界の裏の世界。
汚れ仕事はなんでも受ける忍組織。
それが夜霧、私が育った組織だった。
物心ついたときには夜霧にいた。
流魂街の端にまだ赤子だった頃に捨てられていたところ、面白半分で拾われたらしい。
夜霧での私はまるで大人の玩具だった。
唯一幸運だったのは、頭に気に入られていたこと。
頭は私を一から組にとって都合の良い忍として育てようとしていた。
物心ついた頃から、戦闘は勿論、芸事、手習い、男を落とす手練手管、痛みへの耐性訓練、ありとあらゆる潜入に必要な訓練を受けた。
私も生き延びるために必死だった。
気がついた時には、役に徹することができる正に完璧な忍に成長していた。
その甲斐あって頭のお気に入りとなった私に、組の人間もそうそう手出しはできず、結果私は殺されずに10代後半を迎えることができた。
そして、私の単独での初仕事が与えられた。
隠密機動隊への潜入及び、四楓院夜一の暗殺。
その仕事を言い渡された時気がついたこと。
それは、この仕事のために私は生かされてきたのだということ。
きっと頭も、私如きがあの四楓院夜一を殺せる等と甘いことは考えていなかっただろう。
それでも、刺し違えての覚悟をもっていれば、深手の傷くらいは負わせられると踏んだというところか。
どの道私には帰る場所も、生きていく道も、もう残されてはいなかった。
『名はなんという?』
『はっ。夜鷹と申します』
初めて、夜一様に声を掛けて頂いた時のことは忘れようがない。
殺すべき対象の相手に畏怖を感じたことなど、それまで一度もなかった。
ただ機械のように命を潰していくだけだったが、夜一様と初めて対峙した時、逆に私が殺されるような感覚を覚えた。
組から与えられた偽名である忍名を口にしながら、偽りが今にも見破られそうな恐れを感じた。
圧倒的な力の差。
それを感じた時、皮肉なことに、死ぬために鍛えてきた忍の勘が"この者には敵わない、逃げろ"と強く警告してきた。
逃げられる筈もないのに。
今思えば数百人の隊員が頭を垂れて傅いていた中で、ただ1人私に声を掛けてきた段階で夜一様は何かしら気がついていたのではないかと思う。
だが、どういうわけか、夜一様は私をお側に置いてくださるようになった。
『夜鷹、お前は可愛いのぅ』
そう言って、くしゃくしゃと撫でられる頭の感覚が、忍ではない私としての自我を何とか成り立たせていた。
夜一様のお側にいて、私はようやく、私を見つけることができた気がした。
何の役も被らない、苗字名前という私自身を。
そんなある日だった。
組の頭が業を煮やして、遣いを送ってきた。
相手は私の兄弟子にあたる人物で、私の扱いをよく心得ている人物だった。
『夜鷹。 " " 。四楓院夜一を殺せ』
夜一様の暗殺を拒否する聞き分けのない私に、まるで子供をあやすように囁いたのは暗示の言葉。
私は、私自身知らぬ間に暗示をかけられていたらしい。
ある言葉を囁かれると、私は意思のない人形と成り果てるらしかった。
気がついたら夜一様の寝所にいた。
そこからの記憶は朧げだ。
『よ、夜鷹…名前!!!』
気がついたら苦しげに私を抑える夜一様を見下ろしていた。
なぜ本名を、とか、私は一体、とか色々な言葉が頭を巡って、朦朧とする頭を懸命に回転させる。
蘇ってくる暗示の言葉を消す為に、私は。
『…!やめろ!!!』
この上のない痛みで抑え込むしかなかった。
咄嗟に口に、私の象徴でもあった2本の小柄の斬魄刀を差し込み、勢い良く頬を裂いて私は気を失った。
『夜一様、どうか私をどこへも行けぬよう、閉じ込めてください』
無くした表情のまま精一杯の懇願をする私を、哀しそうな目で見る夜一様の顔が忘れられない。
こんな私でも、責めないとそう言ってくださった夜一様の優しさが、私にはただただ苦しかった。
死んではならぬ、という夜一様の言葉だけを頼りに、私はまた生き恥を晒すことになった。
そして、結局私は蛆虫の巣に自ら進んで入った。
『儂にはお前の力が必要じゃ』
『私の魂は夜一様、どこにいても貴方の物です。
どのような汚れ仕事でも引き受けます。必要があればお呼びください』
どこまでも優しい夜一様に、私は誓いを立てた。
その誓い以来、私は夜一様にお会いしていない。
私のような卑しい者が、どうして再び夜一様にこの醜い顔を晒せようか。
私の魂はもう、私の手を離れた。
それと同時に、苗字名前でいる間一切の感覚を失った。
当然、もう斬魄刀の声も聞こえはしない。
皮肉にも、その偽名が名が体を表す有様になった滑稽な私は、両頬の傷を隠すこともなく、"夜鷹"という名も捨てずに使っている。
これは罰だ。
私が私であることを赦さないことへの戒めだ。
ある日、蛆虫の巣へある男が現れた。
浦原喜助。
唯一、夜一様が認めた男。
夜霧の任務で最も警戒したのも、この男の存在だった。
結果的に任務は失敗に終わり、私は死んだものとして処理された今となってはもう二度と会うことはなないと思っていた男。
浦原喜助は夜一様からの書状を持って、あの緩りとした笑みを浮かべて言った。
『今日から貴方はボクの部下です』
その書状は、浦原部隊長に私の身柄の一切を預けるという内容の物だった。
私はあの男のものとなった。
私の存在は極一部の者のみが知っている。
諜報活動においてこれ程都合の良いことはないだろう。
そう、つまり私は、夜一様からも棄てられたのだ。
今回の任務が終わったら、私は再び蛆虫の巣へ戻るつもりでいる。
そしてもう二度と、あの場所から出るつもりはない。
「夜鷹花魁、お背中お流しします」
翆の幼い声が戸の向こうから通って、私は過去に飛ばしていた意識を引き戻す。
瞬時に花魁である夜鷹の笑みを口元に貼り付けて。
「ありがとう、翆」
入っておいで、と声を掛けると小さな白い手が戸を開けるのを見届けて背を向ける。
背後で着物を捲くる衣擦れの音が聞こえてきた。
「?どうしたの、翆」
「…姐さん…綺麗」
立ち止まった気配に背中越しに視線をやると、翆が立ち尽くしてうっとりとした視線を投げかけている。
「ふふ…おだてても何も出やしないよ」
夜鷹の口元がゆったりと微笑み、鈴を転がすような声がその喉から発せられた。
これでいい。
夜鷹でいる間は、私はこの刹那を生きるただの女でいられる。
終
