「ただいま」
「おかえり、翔」
重たい木製の扉を開けると、入ってすぐにベットの上でなんとか起き上がる母さんが見えた。
ベットの側にある小窓には日覆が降りたままになっている。
「母さん、寝とってええで。体調あんまり良うないんちゃう」
ベットに慌てて駆け寄ると、母さんがゆったりと微笑んだ。
「あら、具合悪そうに見える?
今日は涼しくて随分調子ええんやけどねぇ」
嘘だとすぐに分かる。
調子がいい日、母さんは自分で日覆を上げるのだ。
「ふぅん…。せやったらええけど」
ボクは気づかない振りをして、ベットの端に膝をついて日覆を上げて小窓を開け放った。
母さんの言う通り、今日は夏の最中にしては涼しい。
吹き込んでくる心地よい夜風に目を細めた。
街がある遠く東の方角から、西の端のこの裏町まで微かに祭りの音が聞こえる。
時折パッと空に灯が点りキラキラと余韻を残して散っていった。
きっと祭りのフィナーレを待ちきれないせっかちな子供が筒花火を打ち上げているのだろう。
「翔の目はお星さん閉じ込めたみたいに、キラキラして綺麗やなぁ」
母さんの優しい声に、ボクはハッと我に帰る。
「な、なんやの、急に」
恥ずかしくなって慌ててベットから飛び降りると、くすくすと母さんの微笑い声が追いかけてくる。
くすぐったい視線から逃れるように食卓に視線を移すと、器とパンが置いてあるのが目に入った。
「久屋のおばさん、来たん?」
「あぁ、そうそう。ご飯置いていってくれはったんよ」
器の中身を覗き込むと、真っ赤なトマトのスープが入っている。
おばさんが作る夏の定番料理だ。
「母さんは食べたん?」
「うん、おばさんが持ってきてくれはった時にね」
疑わしそうな目で見るボクに母さんが、ほんまやよ、と困ったように笑って見せる。
「それならええけど…。じゃあ、ボクも食べるわ」
「お腹減ったやろ。おあがり」
ボクは椅子をベットの側に引きずっていく。
食卓に戻ると、お盆にスープの器とパンを乗せて手に取った。
母さんが起きているときは、ベットの横、母さんの側で食事しながら他愛無い話をすることを許されている。
「今日は学校で何したん?」
「何て…。なんも、勉強するだけや」
「そう…。あぁそうや、翔の自転車な、久屋のおじさんが修理してくれはったよ」
「え!ほんま?」
「うん、納屋に入れてもらうよう言うといたから、後で確認しといで」
「わかった」
自転車の灯が点かなくなっていたのを、久屋のおじさんに修理を頼んでいたのだ。
こんなに早く修理できると思っていなかったから、嬉しくて食事を口に運ぶ手が進む。
「あ、母さん」
「んー?」
母さんののんびりとした声を聞いて、ボクは落ち着かない気持ちで視線を斜め下に落とした。
「今日の七夕祭り行きたいんやけど、行ってもええ?」
「…珍しなぁ。ええよ、行っといで」
「え、ええの?」
意外な返答に少し驚いて顔を上げると、嬉しそに微笑んだ母さんと目が合う。
「お祭りやもん、楽しんでおいで。
そのかわり、川には入ったらあかんよ」
「うん、絶対入らへん」
「夜道は気をつけるんやよ」
「おじさんに自転車の灯なおしてもらったから、大丈夫や」
パンの最後の一欠片を口に放り込んで、ボクは慌てて食器を片付ける。
「じゃあ、行ってくるわ」
「うん、行ってらっしゃい」
「帰りに母さんの牛乳貰ってくるわ。配達のおっちゃん、また配達忘れとる」
「母さんのことはええから、楽しんでおいで」
「…行ってきます」
「気をつけてね」
※※※※※
立て付けの悪い納屋の扉を苦労して開けると、壁に唯一の宝物が立てかけてある。
「うん、ええわ」
ペダルを回して灯を確かめたり、チェーンの油を触ってみたり、一通り愛車の調子を確かめて呟く。
いつだっておじさんの整備は完璧だ。
お礼言うとかなあかん、と考えながら納屋から自転車を引っ張り出して跨った。
今日はよく晴れている。
風が雲を吹き飛ばしてくれたらしい。
夜空を見上げると無数の星が集まって、煌めく河を作っていた。
fin
