背の高い檜の木々が両脇に立つ、土を平に均しただけの道の悪い坂道を下る。
時折木々の隙間から月明かりがチラチラと青白い光を落としては陰り、車輪から伝わる衝撃と共にボクの体はふわりふわりと浮かぶのだった。
替えて貰ったばかりの自転車の灯が、一本の光の筋となって前を照らす。
ーボクは機関車や。何も、誰も追いつかれへん、1番早いやつ!
びゅんびゅんと風を切って通り過ぎて行く景色を横目に見ながら、心の中で叫んでカチンと歯を鳴らした。
坂を抜けると檜の道も終わり、街の入り口がある。
街の名前が記されたアーチと、その両脇に立つガス燈が目印だ。
遠くその先に目をやると、街の道幅に沿ってポツポツと街灯の灯りが橙色に律儀に並んで光り瞬いている。
遠くに見えたその灯りはあっという間に近づいて、ボクは自転車の速度を緩めてアーチの前で停まった。
点灯夫のおじさんが熊のように大きな体を、人の隙間に割り込ませてこちらに向かってくる。
ようやく街の端まで灯りを点して、今日の仕事を終えてきたのだろう。
煤で顔も体もあちこち汚れている。
「こんばんは、田所のおじさん」
「おぅ、御堂筋さんとこの坊主じゃねぇか」
母ちゃん、どうだ具合は?と、ハンチング帽のツバをクイっと上げてボクを見下ろすこのおじさんが、本当は少し苦手だ。
無視するのもと思い挨拶をしたことを少し後悔しつつ、変わりないです、と答えると、そうか、と言い大きな手で乱暴に頭を撫でられる。
縮む…。
大きなその手を払い退けたい衝動を抑えて我慢する。
「もうじき父ちゃんも帰ってくる。それまで気張れよ、坊主」
何を無責任に、とボクは思う。
もう何度その言葉を聞いたか。
父親というその男のことを、ボクは知らない。
「ハァ」
「オメェの父ちゃんは立派な漁師だからよ。
もし馬鹿にするようなやつがいたら、俺に言え。わかったな」
田所のおじさんは優しい。
それは分かっている。
だけどその優しさは、ボクの情けなさが反映されているようで苦しくなる。
それに父さんを馬鹿にされても、ボクには憤る理由がないのだ。
「ボク、行くわ」
「お、悪い。引き留めちまったな。祭り、楽しめよ」
「うん」
やっと解放された頭を軽く振ってお辞儀をした頭を上げた時には、おじさんはもう背を向けて歩き出していた。
※※※※
すれ違う人々の間を縫うように、ボクは自転車を押しながら歩く。
街の中は石畳で道が舗装されていて、石造の白い家や店の壁が道沿いに並んでいる。
家々の窓や店の看板から看板へキラキラと灯りが渡され、壁には色とりどりの花や枝が飾り付けられてとても賑やかだ。
時折ガス燈の灯りがゆらゆらと揺れて、人や建物や飾りなんかの影が踊るように石畳の道を漂う。
祭りの夜に街へ出てきたのはいつぶりだったか。
まだずっと小さかった頃母さんと手を繋いで歩いたことを思い出しながら、見慣れている筈の道をふらふらと歩く。
気がつくと街の隅にある、お気に入りの時計屋のショーウインドウの前にいた。
厚いガラス板の向こうで、色々な時計がひっそりと思い思いに時を進めている。
規則正しく秒針が進むたび、梟の赤い宝石の目がくるりくるりと動くのを眺めたり、金色の人馬がこちらに向かってきてはまた戻っていくのを目で追う。
その後ろで夜空と星屑を閉じ込めたような大きな砂時計を抱えた時計が、1分秒針が進む毎にその砂をひっくり返しては小さな天の川を作っているのを、視線の端に見るのだった。
「あ、みどうや!」
びくりと肩を竦めて鋭い声の先を辿ると、数人のクラスメイトが鬼灯の提灯をゆらゆらとぶら下げたり、青く燃えるマグネシアの花火を燃やしながら歩いてくるところだった。
先頭には1番意地が悪くて大柄なクラスのガキ大将がニタニタと笑っている。
「みどう、1人か?お父ちゃんは?」
「やめやぁ、みどうくんとこのお父ちゃん、密漁中やで」
「そうや、そうや」
「かぁっこええなぁ、ラッコの上着着てなぁ。みどうくんは、着ぃひんの?」
ボクはバッと自転車に跨って一目散にその場から逃げ出す。
わぁわぁと背後から男の子たちが追いかけてくる声が聞こえるが、遠のいていくのがわかった。
ーアイツらがボクに意地悪ばっかすんのは、アイツらがばかやからや。
田所のおじさんの顔が頭にふと浮かんだが、ブンブンと顔を振る。
ある程度の距離まで自転車を漕いで、母さんの牛乳を貰いにいかなければならないことを思い出してボクは自転車を止めた。
カシャンと自転車の向きを変えると、できるだけ人が少ない道を選びながら進む。
いつもは暗がりの裏路地にも紫や青や緑の豆電灯がいくつもピカピカと輝いていて、気の利いた家の庇からは、綺麗に飾りつけられた檜の枝がぶら下がり、ふんわりと白い灯りを地面に落としている。
その中を自転車で走っていると、まるでそれは、母さんが話してくれた空を旅する旅客が見ていた景色のようだ。
fin
