斑とさよなら


長く続く先生の言葉の隙間から、そよそよと木々が揺れる音が耳に届く。ふと目線を外に向けると、開け放たれた窓から心地いい風が入ってきて頬を撫ぜた。教壇では相変わらず先生がいかにわたしたちが問題児で、大変で、でも憎めなくて大切な生徒だったかを静かに語っている。「あなたたちにとって運が良くというべきか悪くというべきか、3年間担任が私だったという生徒も何人かいるかと思いますが……」そう言って先生は、ちらりとそのうちの1人であるわたしの方を見た。すぐにその目線は別の誰かにうつって、また穏やかな声で今日という日を讃える言葉を告げる。3月某日。雪解けを経た植物たちがふっくらとその蕾を膨らませ、開き始める頃。わたしたちはこの学校を、……私立夢ノ咲学院を、卒業する。


「名前〜オギセンと写真撮ろ、3年間一緒だった記念!」

先程先生が…オギセンが言った、「3年間オギセンが担任」だった仲間の友人が、少し赤くなった目元を隠すことなく晴れやかな笑顔で自分を呼ぶ。卒業式は大きなトラブルもなく、本当に拍子抜けするくらいあっさりと、つつがなく終了した。泣くかもしれないなぁと当日になるまでぼんやりと考えていたが、いまいち実感が湧かないのか、わたしの目元が友人のように濡れることはなかった。それでも、今日のわたしはどこか感傷的らしい。この3年間親のように特に目をかけて友人とわたしを嗜めてくれた先生の隣に立って笑顔をつくると、少し胸がキュッとなるような思いがして、あぁ大切な3年間だったんだなぁと感じた。

「あなたたちはほんとにヤンチャばっかりで騒がしかったから、なんだか少し…寂しくなるわね」

先生が、教壇に立っているときと同じくらい穏やかな声で目元を緩めて言う。「わたしも寂しい!ねぇ卒業してからもまた遊びに来ても良い?!」と友人の涙声が聞こえる。わたしだっていつもなら絶対に言わないが、今日ばかりはふだんの天邪鬼をおさめて「オギセン…セイが、3年間担任でいてくれて良かったです」と精一杯素直になってみた。先生はもう一度、晴れやかな笑顔で卒業おめでとうと言ってくれた。

スマホにうつる3人で撮った写真をひと撫でして、まだ騒がしさの残る教室を後にする。クラス棟から離れるごとに静けさを取り戻す廊下を突き進んで目指すのは、校舎のいちばん端、今は使われておらず資料室になっている旧図書館だ。
特に約束したわけではない。しようにも連絡先を知らないし、そもそも最後に会ったのだってほとんど2ヶ月前だ。いるかなぁ、いないかもしれない、いたらいいなぁ。そんな気持ちでキィキィと細い声を上げる扉を押す。覗き込むように中を見るとーーー果たしてそこには、先程「いたらいい」と願った彼が、ぼんやりと窓の外を眺めながら埃っぽい椅子に腰掛けていた。


「やっぱり来たなぁ。卒業おめでとう!」

「半々かなとは思ってたけど……ありがとう。」

扉の音でこちらに気付いた彼がいつもの笑顔で言う。わたしの言葉を聞いて「半々?」と首を傾げるので、「ここ。別にいつも約束してたわけじゃなかったから」と答えると、あぁと合点がいったようだった。

「まぁ俺はアイドル科の2年だし、普通科の卒業式なんか全く関係ない立場だからなぁ」

「うん。だからいてくれて驚いた。祝いにきてくれたの?」

「当たり前だぞぉ!俺は案外、ここで先輩と過ごす時間が好きだったから」

「それは先輩冥利に尽きるなぁ」

存外早い1年間だったな、と思い返す。
彼と出会ったのは3年生に上がったばかりの春、進路も何もその時はまだのしかかっていなくて、それでも迫り来る漠然とした不安から抜け出したくてひとり授業を抜けた午後のことだった。
避難場所に選んだここは、2年生のときの2月頃に見つけた。資料室とは名ばかりの物置部屋で、いろんな科目の古い教材だったり図書館だった時の名残の本棚がいくつか残されているだけの、意味をもたない部屋だった。ただ、この部屋は端にあるだけあって隣の校舎、つまりアイドル科の校舎に近く、耳を澄ますと外で練習している誰かの歌声が風に乗って届くことが多かった。時にはおそらく下級生であろう、まだまだ上手とは言えない歌声が聞こえてくることもあったが、わたしはただ椅子に腰掛けてそれを聞いているのが好きだった。
あの日もいつもと同じようにここで過ごそうと扉を押したら、彼がいたのだ。まさか人が入ってくると思っていなかったのか、驚いた猫のように目がまんまるになっていたのを覚えている。

「先客だ?お邪魔します」

「お、どろいた。まさか俺以外の人間がここに来るなんて」

誰がいても騒がしくしないのであれば特に気にしないので、先客がいたとしても踵を返すつもりはなかった。逆に向こうが気まずさを感じて帰るのならそれはそれで、と思ったくらい。けれども彼は帰る素振りを見せず、ただわたしがいつもそうするのと同じようにぼうっと外を眺めていた。
ややあって、あと5分ほどでチャイムが聞こえてくるだろう頃になると彼は徐に立ち上がり、

「お邪魔したなぁ」

と言って窓から帰っていった。あんまりにもナチュラルだったものだから反応も数拍遅れてしまう。ようやく脳みその処理が追い付いた時には、思わず「はぁ?!」と声が出ていた。それが一度目の出会いである。


「あ、こないだの」

「あ、不審者」

「?!不審者じゃないぞぉ?!」

二度目は存外早くやってきた。今度はわたしが先に座っていて、彼は前回帰ったときのように窓から器用にこの部屋に入ってきた。奇行の自覚があったのか、わたしの言葉を聞くと彼は少しだけ気まずそうにして、頬をかいて弁明した。

「実は俺は正面きってこの校舎に入ろうと思うといろいろ手続きが必要な立場でなぁ……。面倒くさいから、いつもショートカットしてお邪魔している。」

その言葉だけで、彼がアイドル科の人間であることがなんとなく察しがついた。普通科とアイドル科の往来は、基本的にきちんとした申請書を提出して手続きを踏んでからしか叶わず、そうほいほいとできるものではないのだ。そう思って見れば目の前の彼は確かに背が高くて顔も整っている。アイドルにあまり興味がないためわたしは知らないが、さぞかし人気のあることだろう。そんな彼が身軽にフェンスと木をつたって窓から出入りしている姿を思うと、なんだか少し笑えた。

「窓から入ってくんのウケんね。鍵ないの?」

「ちょうどそこだけ壊れているみたいでなぁ。見つけたのは偶然だったが、おかげさまでここはすっかり俺の城だったんだ」

「へぇ。でもここ、わたしも結構前から見つけて使ってたから、使わせてもらう」

それだけ言って漏れ出るあくびを堪えつつ視線を外す。視界の端に映った彼は、少しだけ目を大きくして驚いたような顔をした、気がする。アイドル科の子に憧れる普通科は多いから、存外あっさりしたわたしの反応に対しての驚きかもしれなかった。

「……俺も、使わせてもらうぞぉ」

彼はそう言ったきり、最初の時と同じようにただ黙って少し離れた窓際の椅子に座った。陽の光が優しく入る教室で、特に何かを話すわけでもなく私と彼がぼんやりと過ごす。稀に会話が発生することもあったが、二言、三言で終わるような短いものばかりだった。そして時間がくれば「じゃあ」とだけ短く挨拶をして帰って行く。きっとこの時間は、人生を変えるような劇的な何かではない。頻度だってそこまで高くない、そんな細々とした交流。それが続くようになって、もう1年近くになるのだ。


「ていうかすっごく今更だけどさ、いつからわたしがあんたの先輩だって気付いてたの?」

彼と出会った時のことを思い返していたが、そういえば、と浮かんだ疑問がそのまま口に出た。出会ってすぐは、必要があるときはお互いあんた、と呼んでいたのだがこの後輩はいつからだったか、気付けばわたしのことを「先輩」と呼ぶようになった。アイドル科の情報は普通科の中である程度共有されているので、アイドル科のネクタイの色が学年によって違うこと、また彼のネクタイが自分たちのひとつ下の学年を示すことをわたしは知っていたが、普通科のネクタイは全学年共通だ。学年を判断する材料はなかったはずなのだが。

「あぁ……。俺はわりといろんなところを飛び回っているからなぁ。ひとつ上の学年だけの行事の時に、先輩を見かけたことがあったんだ」

「ふぅん」 

「あとは、初対面の時から態度が明らかに年下のものじゃなかったから。ちっとも怖がらなかっただろう、俺のこと」

「つまりふてぶてしかったって?」

「まさか!」

はははとその大きな口をさらに大きくして彼が笑う。たしかに、自分が最高学年になってからは、周りの生徒は全員自分と同じ歳か歳下しかいないと思って敬語を使うことはなくなっていた。ふてぶてしいと言えばそうだったかもしれない。でも、怖がらなかったのは彼の方だってそうだ。
全く自慢ではないが、わたしの見た目は派手な方だ。見目や顔立ちの話ではなく、髪色や化粧や制服の着こなしの話。この学校で3年を過ごした今でこそ、大人しい子・派手な子関係なく仲良くしている子はいるが、第一印象では怖がられることが多かった。特に年下の女の子なんかには。
けれど彼も、こちらが年上だと分かった上でタメ口を続けるくらいの心の太さがあるらしい。そもそもわたしはあまり気にしていなかったが、思い返してみれば出会ってから今まで、彼に敬語を使われたことは一度もなかった。そういったところで変に波長が合って、この付き合いもここまで続いたのかもしれない。


「あ」

少し離れた廊下のスピーカーから、蛍の光がかすかに聞こえる。もう時間だ。教室での別れの時間はこれで終わりで、このあとは階下に出て在校生の作る餞の列の中を卒業生が進む。毎年行われるこれは式よりも砕けたイベントのようなもので、途中馴染みの後輩の顔を見つけて手を振ったり、足を止めたりしながら進んでいく。そうやってわたしたちはここで過ごした日々にさよならをするのだ。3年生全クラス入り乱れてのイベントなのでわたしひとりいなかったところで気付かれはしないだろうが、なんとなくきちんと節目を作っておきたかった。アイドル科には馴染みのないイベントなのか、いまいちピンときてなさそうな彼に「もう行くね」と告げた。

「あのね」

ちいさく息を吸って彼に向き合う。少しだけ、彼とわたしの人生が交わったこの1年間。ギュッと纏めたら、わずかにしかならないであろうほんの瞬きのような時間。彼は存外好きだったと語ったが、わたしも、深く息を吸うことができるようなこの時間が嫌いじゃなかった。


「ありがとう。わたしもあんたと一緒にここで過ごすの、結構好きだった。」

「…後輩冥利につきるぞぉ」

「はは。これからもアイドル続けるの?」

「そうだなぁ、今のところ、まだ諦めるつもりはないし」

「そっか。応援してるよ。いつかしれっと、あんたのライブに行ったりするかも」

「先輩が?アイドルのライブってガラじゃなさそうだけどなぁ」

「うるさいなぁ」


ここで過ごした時間は人生を変えるような劇的な何かではない。
こうして軽口は叩いても、わたしは結局彼のことを何も知らないままだ。
何が好きなのか。どんな音楽を聞くのか。誰とどんな曲を歌うのか。そもそも、彼の名前だって。
でも、それでいいのだとも思う。人生を変える劇的な時間ではなくとも、ここで過ごした記憶は人生の中で、細く小さく輝き続ける思い出になるのだと確信があった。いつかどこか、何かをきっかけにふと思い出して「そんなこともあったな」と目を細めるような。小さい頃大事にしていたビー玉を、大人になってから引き出しの奥から見つけ出すような。そして叶うなら、彼にとってもそんな記憶であれば良いと思う。

「じゃあね」

彼は何も言わず笑って手を振った。わたしも手を振りかえす。また、とは言わなかった。扉を開けると、蛍の光がさっきよりも大きな音で聞こえる。少し迷ったが、振り返ることはしなかった。

あぁやっぱり、今日のわたしはどこか感傷的らしい。
なんてったって、いつかどこかで、わたしと彼の人生がまた少しだけ交わることを、期待しているのだ。

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