もう白雪姫じゃないから


酷く暑い夏の日、汗を垂らしながら必死に走り辿り着いた無機質な大きな白い建物の中に入る。
独特な薬品の香りや静かな中で聞こえる小さな話し声や呼び出しの放送を早歩きで通り過ぎて呼び出された部屋へ向かった。
案内を受け部屋の中に入れば、電子音もない静かで無機質な室内のカーテンに覆われたベッドの脚がすぐに視界に入った。
空調で整っているとは言え、汗を垂らしているとは思えない程みるみると指先から冷たく凍っていくような錯覚がする。
カーテンの前に立っている男性は切なげに眉を下げ、こちらを静かに視線を合わせた。

「……明日、式なんです…。嘘だと、仰って頂けませんか」

男性が声を発する前に、縋るように震えた声が先に漏れ出た。

「この病院に着いた時にはもう…心肺停止状態でした。蘇生処置を行いましたが…残念ながら…。お悔やみ申し上げます。」

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私は生まれつき目が見えなかった、目が見えない事で同級生の子に意地悪されて学校にも通えなくなってしまった事もあって両親はとても過保護で、 16歳になっても1人でお散歩もさせてもらえなかった、けれど18歳になったある日ずっと親に干渉される事に辟易して2人の目を盗んで家出してしまった。


その日に欠月かづきさんと出会った。
自分で道は覚えているつもりだったけど、初めての1人での外出に少し混乱してしまって迷子になってしまった。
白杖を持って立ち尽くす私に優しく声をかけてくれて、不安そうな私の心を解そうと欠月さんが開店に向けて準備を進める喫茶店のスフレパンケーキを作って出してくれた。
同級生に食べさせてあげる、と言われて虫を口に入れられてから両親以外から食事を貰う事はとっても怖かった、けれど欠月さんが作ってくれたスフレパンケーキがあまりに良い香りで、我慢出来なくて食べてしまった。
あのスフレパンケーキは私の色んな不安や悲しみを忘れさせてくれるくらいとびきり美味しかった。
それからは両親とは和解して、1人でお散歩の度に欠月さんのお店に行くと、いつも美味しいアイスティーやスイーツをご馳走してくれた。
そんな優しい欠月さんを私はすぐに好きになってしまって、猛アタックしていたのだけれど中々相手はして貰えなかった。

ある日、

「やっぱり私、欠月さんも欠月さんのスイーツも大好き!」

いつもと変わらない好意のアピールではあった、でも欠月さんに返事を求めたつもりはなくて、ただただ改めて感じて思わず胸の奥から溢れてしまっただけの言葉だった。

「うん、私も陽暖ひのちゃんが美味しそうに食べてくれていると嬉しいなぁ。…とても可愛らしくて、好きなんだと…痛感するよ」
「!」

嬉しい、といつもそう言ってくれる。
でも初めて、嬉しい以上の気持ちを露わに言葉にしてくれた事に見えない瞳が大きく開いた。
フォークを持つ右手に私よりも少し固い手が触れるとその手はいつもより温かくて、触れ合ううちに同じ体温になって混じっていった。
あの日から私達は恋人として過ごしている、私が20歳になった頃に小さな5歳くらいの男の子を欠月さんが保護してきて、3人で本当の家族のように過ごした。

私が21歳になって暫くして欠月さんのお店も安定感と余裕が出てきた、その時にプロポーズしてくれた。両親は盲目な私と結婚する事に不安を抱いていたけれど、説得もしてくれた。
私と欠月さんは同じ8月生まれで欠月さんが14日、私は26日。だから入籍は欠月さんの誕生日にして式は欠月さんと私の真ん中の日、8月20日に挙げる事になった。


「夕方から式場の人達と打ち合わせがあるからね、あまり遠くに行きすぎちゃダメだよ?アラームを設定しておくから…でも焦って事故に遭ってしまったら危険だから急ぎすぎないようにね…?」
「うん、分かってる。」
「暑いからお茶も時々飲んでね?」
「ふふ、うんっ」

式の前日、いつもと変わらない穏やかな声が私の耳を擽る。
お茶の入ったボトルが首にかかると少し肩が重くなって、お腹は緩やかに冷たくなっていく。
明日式を挙げると言うのに、欠月さんはいつもお母さんみたいに沢山心配するから子供扱いされている気分。
もう明日には欠月さんの奥さんに、
来週には22歳になるのに。

でもそんな所も大好き。

「携帯もあるし…お財布もある…あ、婚姻届のコピー…ずっと持ち歩くの?」
「うん、だってこれは欠月さんが点字を打って読めるようにしてくれたものだから…今日まではとびきり浮かれて連れ歩きたいの!」
「ふふ、そっかぁ…分かりました。じゃあ、気をつけていってらっしゃい」

「いってきます!」

玄関で欠月さんにいつもの最終チェックをしてもらってから、白杖と斜めがけのバッグをかけてはいつも以上に浮かれた様子で外へ出た。

夏の日差しは肌を焼き上げるように熱い、それでも今日はげんなりしない。
トン、トン、と白杖で地面を突きながら歩みを進める、日差しは強いけど風が吹けば冷たくて心地良い。
時折日差しの熱を感じない場所に避けるといつも淹れてくれる欠月さんのアイスティーを飲む。
夏はアールグレイの香りが華やかで爽やかで心も体も癒してくれる。

そうやって散歩を続け気がつけば肌に当たる熱は柔らかいものになっていて夕方になったのだろうと意識すると共に、鞄の中の携帯がアラームを鳴らす。
アラームを止めるべく鞄を開いて手探りでまさぐりながら歩みを進めていくと、周りの人達がざわざわと、まるで内緒話でもするように話す声が聞こえてくる。
白杖をついている人なんてそんなに珍しくない、自分に向けられている悪意ではない筈だとは思いながらも学生時代の心の傷がじわりと滲む。
漸くスマホを見つけると同時に強い風が私の体を押して鞄の中で紙が甲を擦る、少ししてカシャリと紙が落ちる音がした。
すぐに婚姻届のコピーが落ちてしまった事に気がついて、慌てて白杖をついて周りを探す。

「あっ…ど、どこにいったの…」
「…落としましたよ」

焦って探していた私に、淡々とした声色の男性が声をかけてくれる。
きっと風で飛ばされたのを拾ってくれたのだろう、『ありがとうございます』そう言って手を伸ばして触れた婚姻届はスッと引き下げられて、思わず驚いて眉が上がる。

「結婚するんですか」
「は、はい…!明日式を挙げるんです…今からその打ち合わせで帰る所で…私、目が見えないので…夫が点字を打って作ってくれた婚姻届のコピーなんです、とても大切なもので拾ってもらえて助かりました」

淡々としていて冷たく感じた声色だが、落とし物を拾ってくれたのだ良い人なのだろう、浮かれた気分も相まって普段はあまり他人と話さないのだがついつい口から幸せが溢れてしまっていた。

「きゃああああぁ!!!!!」

数名の女性の叫び声が響く。

腹部の鋭い痛みすら他人事に感じる程、何が起きたのか分からなかった。
腹部の冷たく鋭い異物が引き抜かれると自らの体温で温められた筈の血液が妙に熱く感じて、反射的にじりじりと痛む腹部を抑える。

「ゔぅっ…ん、ぐぅ…!!!」

刺されたんだ、と理解すると共に今まで聞こえなかった痛みに唸る自分の声が聞こえてくる。
そして再び胸へと鋭い痛みが走った。

「は、はは…結婚前日に花嫁が死ぬなんて最高にドラマチックじゃん!それで旦那はお前を忘れて別の女と結婚すんだよ!お前の旦那どんな顔するんだろうな?死んだら見れねぇな!いや、お前は生きてても見れねぇか!ざまぁみろ!目が見えない介護必至の迷惑な奴死んで当然だろ!!」

何度も私の体を、私の体温を吸い上げた鋭いもので貫いていく、人とは思えない酷い言葉と共に。
私、明日結婚するのよ…?
どうして…?欠月さん…私……は、…何を間違えてしまった、の……?

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〜♪〜♪♪〜♪〜♪〜〜〜

今日は式の最終打ち合わせがある、早めに店を閉めて作業を進めていれば鳴り響いた携帯に小首を傾げながら視線を移す。そこには"お義母さん"と表示されていた。
明日についての話だろうかと微笑みを浮かべながら通話ボタンを押す。

「ひ、…っ…陽暖が…欠月さん、陽暖が…刺されたの…!」

そこからは無我夢中で走って病院に行って、辿り着いた頃にはもう彼女は眠りから覚める事はなくなっていた。

「明日はお通夜、明後日にはお葬儀になります。喪主様は…」

もう起きない陽暖ちゃんの顔を見てから、記憶が朧げだった。お義母さんとお義父さんがいて、混乱の中葬儀の取り決めをして…。
少ししては学校から連れられてきた知者ちしゃくんがお義母さんに連れられてやってきた。

このまま明日にでも死んでしまおうか、彼女と生涯を共にすると決めたのだから…明日、式を挙げようか。

「欠月さん…大丈夫?」

どうやって死ぬか、そればかりが思考を支配して冷たくなった手に小さな手が触れる、温かい。そう、温かかった。

生きているんだ、この子は。
守らなくては、この子を。

「…大丈夫、大丈夫だよ…少しだけ、待ってねぇ…。少し休んだら大丈夫に、なるからねぇ」
「…ゆっくりでえぇよぉ、ゆっくり…大丈夫になろぉなぁ」

ぎゅっと小さな体を抱きしめる、温かい。朝まで彼女にもあった、暖かさだ……。

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あの日から1週間ほど店を休んだ後、欠月さんはいつも通りに優しく穏やかな笑顔を浮かべた姿に戻っていた。
まるで何もかも忘れたかのようやった。
子供ながらに、触れたらアカン気がして陽暖さんの事は触れずに『もぉ大丈夫?』と聞いたら『大丈夫だよぉ』とにっこり笑っていた。

僕が高校生になって、初めて陽暖さんの凄惨な事件がネットで記事になっている事を知った。

犯人は刃物を片手にずっと道に立っていて、その様子の奇妙さからか当時の姿が動画で残っていた。
そして、今から半年ほど前に犯人は首と体が切り離された状態で、言葉の通り公開処刑のように公園の大木に吊り下げられていたらしい。

この街は無法地帯やけど、みんな倫理観を学んで真っ当に生きようとしてる人が殆どや。
それでも無法地帯やからこそ治安を守る為の制裁は倫理から外れてしまう矛盾もある、倫理を重んじ、それを正しいと思うからこそ悪人が裁かれる事はどんなに過激であっても

気持ちが良いものやから。

いつもお盆の時期になると、お盆休みとして欠月さんは長期休暇を取る。
そして、毎年陽暖さんの命日の次の日に自殺未遂を繰り返している。
普段は必死に蓋をして忘れたフリをしてるのがこの時期だけはどうしても抑えが効かなくなるんやろう。
でも死ぬ事に抵抗が無い訳では無くて結局失敗してまうんやと思う、本人は死にきれない自分を憎んでいるようだったけど、毎年失敗してくれる事がほんまに良かった。

___________


僕は今、
どれだけの年月を経験したか記憶出来ない程の、大切な彼が死ぬ末路を変える為の長い長いループに終わりを迎えようとしていた。

彼の死はどんなに変えても、僕にループの力を与えた死神によって新しく死を未来に組み込む変えようのないものやった。
繰り返し続けても意味がない事に気がついても、彼を救いきらなければ抜け出す事も出来なかった。足掻いて足掻いて、最後に必要なのは僕の足掻きではなかった。
だからまだ実感こそ湧かないが、最後の正史となる世界に向かうべく…過去であり未来をどこまで良いものに変えていけるのかを話し合っていた。
ループの中、僕は精神的に壊れて欠陥していった。陽暖さんを殺めた犯人を責められないような事をいろんな人にしてしまったし、
僕をループに巻き込んだ死神になった元人間の
玻璃亞 実茉はりつぐ みま

僕のループ中はすでに壊れていた美術教師 
星野 月拾ほしの つきひろ

も、罪を重ねた贖罪の為に周囲の人だけでも救いたかった。
だから最後に3人で集まった。

「…陽暖さんが殺された時、僕は7歳…何とか出来るんやろか」
「…俺は23か、時期的に忙しいのが本音だな…」
「…月拾くんなら、陽暖さんに声をかけても変じゃないんじゃない?欠月さんは従兄なんでしょう?」
「まぁ…でも…時間があるか…」

ループの記憶を保持するのは自分達3人以外は誰が残るのか予想が出来ない、だがループと言っても無限に続く紙の束に上から新しい紙を重ねて同じ事を新しく書いていく作業のようなもので…過去のループは無くなった訳ではなく、何かのきっかけで思い出す可能性もゼロではない。
でも、やっぱり基本的に自分達で解決するべき…やねんけど、何かとむにゃむにゃと消極的な月拾を睨むように見る。

「はぁ…、なぁ…もう時間ないねんで?無職になってでも陽暖さんの命が大事に決まってるやんけ」

この後に及んで動こうとしない月拾に苛立ちを覚える、性格が悪くて態度も悪いのに繊細で自罰的で逃げ癖のある体質なのは理解している、一先ず落ち着く為に距離を開けようとキッチンへと歩く。

もう間違えられない、失敗はできへんねん!

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知者はイラついた様子でキッチンへと歩いていく。
知者が聞いていないであろう様子になれば実茉さんがこちらを見て眉を下げた。

「俺も月拾くんが、誰かの命より自分の未来を優先するとは思えないな…?」

俺は今まで自分への強い嫌悪とそのストレスを他人にぶつけていた、外の世界なら完全に犯罪者だ。そんな俺が今更人助け?良い人ぶっているようで、虫酸が走る。
どうしても抵抗感がある、善良に生きる資格なんて俺にはない、このままクズで最低で、そんな自分を罰して苦しめて生きていくしか…。
それが逃げだと分かっている、でもそうしてないと自分を保てないんだ。
傷付きながら傷付ける、そんな生き方しか俺には……

「ここにいる全員許されない事をしてしまったし、贖罪がしてしまった事を無くしてくれる訳じゃないけど…。月拾くんの傷つけた人達は知者くん以外は傷付けられた記憶がない、罪が無くなるわけじゃなくても…傷付ける前に戻れるんだよ」
「何で知者だけなんだよ、あんたも、実茉さんも傷付けたよ俺は!なんで自分の傷は含めないんだよ…」

実茉さんを傷付けて、死神になるくらい歪める一因を与えたのは俺だ。なのに俺を責めない、俺に傷付けられた事なんて無いみたいな顔をする。それであんたは変われてんのかよ?また善人ぶってメンタル壊れんじゃねぇのかよ。
心臓が強く掴まれたように苦しい、不安だ心配だ怖いよ。気持ちとは正反対に眉を顰めて睨みつけるように実茉さんを見つめる。

「先に傷付けたのは俺だから、俺が弱いから…。だから贖罪をしたいんだ、知者くんにも君にも。傷を覚えててその子達と一緒に贖罪もしなくちゃいけなくて…贖罪もしてあげたくて、だから…2人よりも頑張らないと。」
「……〜〜っ」

知者と共にループの記憶を、道を歩んできた俺はまともに実茉さんと対話するのは何百年かそれ以上か、それくらい久しぶりだった。
俺を色欲の悪魔として縛り付けた死神の頃は溜め込んだ負の感情が暴走していて半分別人だったから。
こんなに久しぶりでも変わらない。俺のせいで死を選び一度死を迎えた後の実茉さんは、いつも自分が醜くて苦しくなる程優しい。
そんな実茉さんにまた会えて嬉しいような、もの凄く苦しくて逃げ出したいような矛盾した思考に言葉が出ない。


「月拾くんが居てくれたら頑張れる、次は2人一緒だよ、君が居てくれるし…俺が居るよ…それじゃダメか、な?」
「………はぁ…クソ…」






8月19日 
美術教師1年目、学生が夏休みだから休み?んな訳ない。初任だからこその色んな研修があるし、美術部の顧問も押し付けられるし…あの日知者の家で言った忙しいと言ったのは別に嘘じゃなかった。
…ただ、奪われる命より優先すべき事か?と聞かれれば…
命より大事だ、と言い張れる程クズな最低野郎にもなれない。
自分の社会の立場を必死に守る程、生に執着心がないだけだ別に倫理的な訳では無い。
自分の命なんか別に守りたくもない、自分なんて憎たらしく穢らわしくて仕方ない。

ーーだから自棄になって助けるだけだ。

とは言いつつ、流石に無断で抜ける訳にもいかず、タイミングを測ったりなんだりしているうちに動くのが遅れて、結局ギリギリになって"義理の姉が危篤なので早退します"と半分本当だが結局嘘になるであろう言い訳の置き手紙をしてきた。
効果があるのかは知らん。

暑い、汗をかきにくい体質だし運動不足の体で走っても客観的に走っているように見えるのかも分からない程の速度だが、それでも汗が垂れる程暑い。
事件についてはしっかり調べたし頭には入れたが、確実に助けられる方法は正直分からない。とにかく身代わりにでもならねぇと、陽暖さんは今どこら辺にいるんだ、事件が起きる場所で待っておくべきか?もし間に合わなかったら?色んな可能性が頭を過ぎって焦っていく。

一先ず事件が起きた場所へと向かえば、次第にざわざわと小声で話しながら歩く人達が増え始めた。
足早に通り過ぎる人達の間から見える細身に黒いパーカー、黒のスウェット、そしてサンダル…如何にもと言った風貌の男。
周りを見るでもなく、ただ虚な瞳で少し遠くの地面を見つめているようだった。
見るからにやばい奴、近寄っちゃいけない奴、でも見えなかったんだ陽暖さんには。
あいつに接触する前に陽暖さんに声をかければ俺がエスコート出来る、でも…結局他の人が刺されるんじゃないか?そりゃ意味が…いや、他人なんて俺には関係ないだろ。

少し離れているが男の直線上を一歩ずつ白杖をつきながら歩いてやってくる陽暖さんの姿が見えて、慌ててそばに歩み寄る。

「陽暖さん…!」
「…!、…は…はい…!?」

焦るばかりに後先考えずに声をかけたが、欠月さんに紹介として1度顔を合わせただけで他人に等しかった、聞き馴染みのない声に突然名前を呼ばれた陽暖さんは戸惑った様子だった。

「あ、あ…月拾、です。欠月さんの従弟の…」
「あぁ…!こんにちは、月拾くん。欠月さんからとても大人しい子だと聞いていたから、声をかけてくれて嬉しいな」
「えっと、…この先には…」

向こうに危険な人物がいるからエスコートさせてくれ、そう伝えようとした矢先に陽暖さんの携帯のアラームが鳴る。

「ぁ、待ってね…アラームを…っきゃあ!」
「!」

携帯を探すべく鞄を開けて手探りで中を触る『あった』とスマホを取り出すと同時にびゅわっと音が聞こえる風と共に四つ折りにされた紙が飛ぶのが見える。

「きゃっ…婚姻届のコピーが落ちちゃったかも…月拾くん、そこら辺にある?」
「あ、あぁ…コピー…。……風が強くて少し飛ばされたみたいです、取ってきますから待っていて下さい」

振り返ると、あの男の足元に紙が落ちてゆっくりと紙を拾い上げて開いて見た。
固唾を飲んで男の方に歩みを進める、他人なんて関係ないんだろ?陽暖さんが助かればそれだけで良い、余計な事言わず適当にはぐらかして…
いや、そもそも生きる事に執着なんてしてないんだろ?なら俺が行けば良いじゃないか。
何にせよ、それが1番安全なんだから。

そう覚悟を決めようと思っていたのに、ふと光が当たると薄く紫色に映る黒髪と、その揺れた黒髪から漂う甘い苺みたいに甘くて、でもどこか酒のように頭を揺らす、あの香りの記憶が俺に言い訳を与えようとする。

俺にはまだ救わなくちゃいけない奴が…

いや、あいつは知者が上手い事やってくれる筈だ。出会ってもない俺の事はこのまま忘れた方が良い。
…迷ってる暇なんてない、こんな命で救えるなら安いもんだろ。

「すみません、それ俺のです」
「……結婚するんですか」

感情を隠しもせず不愉快げに歪に唇を曲げながら、そう問いかけてくる。
とにかく陽暖さんや他の人に目が向かないように、俺に焦点を当てさせなければ。

「……はい、明日式を挙げるんです。大切なものなので無くす訳にはいかなくて、拾ってもらえて助かりました」

手を伸ばして紙を渡すように促しながら、別に俺が式を挙げるなんて言ってないし、嘘じゃないよな?なんて内心は言い訳をしたがそもそも嘘でも真実でもどちらでも良いだろ、と自らにツッコミを入れる。
次第に男の口角がぎこちなく、ぎち、ぎち、と上がっていく。
同じ陰気な俺でも不気味で思わず眉を顰めてしまう程、気味が悪い笑みだった。

「…おめでとうございます」
「…ありがとうございま」

祝いの言葉に礼を返している最中、包丁を持つ右手が動いたのが見えた。
だが、認識してすぐ反応出来るほど素早い体ではない。出来る事は覚悟を決める事だけだ。

いざとなったら、結局死が怖かった。
いつの間に俺は死ぬのが怖くなったんだ?
死んだら失恋うれんには会えない、もう上書きされる事もない、欠月さんの式も見れないし…知者達を見守る事も出来ない。
やっと実茉さんとやり直せると思ったけどそれも…、なんだよクズのくせにやりたい事見たい事が一丁前にあんのかよ?呆れたクズだ。

そもそも生きるってこういうものだったな、上書きなんて本来存在しない。
これが俺がずっと曲がり曲がって逃げて選んできた道への罰か、ならば甘んじて受け入れよう。

咄嗟に瞳をぎゅっと閉じて息を止めた。

ーードスンッ
ーーーカラカラン

鈍く重い音の直後に、キリッと手の甲に痛みが走った後すぐに金属が落ちて地を弾ける甲高い音が響く。

「きゃあああぁぁ!!!」

あんま痛くねぇ、即死したのか?なんて考えていれば金属の音と重なるように甲高い女性の叫び声と共にハッとして瞳を開く。

「危なっ…何してんだよバカ兄貴!」
「…空月くつき!?お前、何してるんだよ…!」

目の前で男を押さえ込んでいたのは幼少期から不仲でもう何年も会話をした記憶もない双子の弟の姿だった。
童顔だが体育教師らしい筋肉質な体は力強く細身の男を抑える事は容易そうだった。
やれクソ兄貴だなんだと俺を嫌っていた奴がなんで俺を助けた?そもそも、なんでこんな所に?
色んな疑問と困惑で俺は立ち尽くしていた。

「ガラにもなくへろへろで走ってるのを見かけて、気になって追いかけてきたんだよ。そしたら見るからにヤバいやつ近寄ってるのが見えたから…」
「別に俺が死のうが怪我しようが関係ないだろ、いっそお前にとっては願ったり叶ったりだろ?」
「願ったり叶ったり?はぁ?バカじゃねぇの。お前が嫌いだから死んで欲しいかは別の話だし飛躍しすぎ、ガキじゃねぇんだから。俺、別にお前に死んで欲しいとか言った事もない筈だけど?」
「…そりゃ、言われた事はねぇ…けど…」

空月は俺をいつもと変わらない心底憎んだような呆れた表情で見上げていた。
確かに死んで欲しいと言われたりはしていないが…嫌いな奴なんか居なけりゃ居ない程良いに決まってんだろ…?と言うべきか悩んで、結局口を噤む。
未だに抵抗を見せる男を見下ろして、このまま解放してはまた誰かに危害を加えかねない、どうしたものかと首を傾げる。

「そんな事より、……冷静になれないみたいだし兄貴、自警団を呼んで」

その後自警団を呼び出して、男は捕獲された。
騒ぎに戸惑っている陽暖さんの元に戻って怯えさせないよう軽く事情を説明して欠月さんの待つマンションへと一緒に帰る事にした。






「陽暖ちゃん!!良かった、無事で…」
「きゃっ、欠月さんどうしたの?いつも通り帰ってきたよ?」
マンションにつけば、陽暖さんを見るなり何も知らない筈の欠月さんが強く抱きしめた。
その後すぐに俺の手の傷に気がついて慌てて手当てをしてくれる。
欠月さんと一緒に俺を心配してくれる陽暖さんを見ると、この先に同じような危険がないとは言えないが少なくとも緻密な不運の合致からは逃れられたのではないかと安心もした。

手当てが終わると暑い中疲れただろうと出発前に俺たちを労わるべく陽暖さんと手伝いとして空月がキッチンへと足を進めて、欠月さんと2人きりになった。

「…陽暖ちゃんが帰ってきた時にね、…無事に帰ってきてくれた事に驚いてしまったと言うか…なんだか涙が出そうになって…あはは、明日の式に浮かれて感慨深くなっているのかなぁ」
「…まぁ、実際ヤバい奴が居たんで…危なかった、かも知れませんし」
「うん、そうだねぇ……。絵を描く人にとって手は命なのに…怪我させちゃったね、ごめんね」
「これくらいすぐ治ります。暫くは教師の方が忙しいから絵は描けませんしね」

キッチンで2人が楽しそうな声で話しているのを聞きながら、ガーゼの上から巻かれた包帯を見つめる。

性格も思考も曲がり曲がって、生に消極的で、そのくせすぐに苦しくなって逃げ出して、こんなゴミみたいな俺への罰がこの程度で良かったのかよ?手当てまでされてさ…

「おい、兄貴はミルクティーで良かったんだっけ」
「あ、あぁ…よく知ってるな」
「子供の頃に母さんが居ない時に作って飲んでただろ、俺にもくれた事あるし」
「…あぁ、あの不味いやつ、な」
「不味…くはないけど、ミルクティーって言うには味うっすかったよな!あれ!」

大きくなってからお互いに関わりもしなかった、仲が悪い弟が俺との昔の記憶で笑っていた。
生きてきて殆ど笑った事もないし、笑いたくもない筈だったのに思わず声が吹き出すように漏れた。

「…はははっ、ガキの頃なんだから仕方ねぇだろ」

ミルクティーまで淹れてもらえたらしいぞ、クズのくせにさ。

______________________

「お疲れ様、月拾くん。よく頑張ったね、偉い!」

夏休みが終わって少し落ち着いた頃、実茉さんと会って陽暖さんを助けた時の事を話した。
数歳しか変わらない筈なのに、この人はいつも俺を子供扱いして頭を撫でてくる。

これが気恥ずかしくて苦手だ。

「ん゛ん゛…お、俺が刺されて陽暖さんの身代わりになろうって、そうしたら他の奴だって傷付かないかもってらしくない事考えたんです。でもいざ刺されるとなったらすげー未練と言うか、見れるなら見てぇな…とか思う事が何個も出てきて。死ななくて済むなら…とか思っちまって」
「そっかぁ…怖かっただろうけど、月拾くんが少しでも生きる事に前向きになってくれたなら良かったよ、本当に」
「生きる事に前向きなのか心配なのは、あんたですけどね」
「あはは、生きるよ!次はちゃんと!
……あー、と…あのね、言い忘れてたんだけど、月拾くんも死神の俺が強引に悪魔の体にしちゃって結局そのままなんだよねぇ…。だから、あはは…」

恥ずかしさを誤魔化すように咳払いした後、結局他人に打ち明けるには恥ずかしい死を覚悟した途端怖くなった事を素直に伝えた。
この人は馬鹿にしたりしない、そう確信があったから。
ループが始まる前の世界では俺も実茉さんも自ら命を絶った、それから長い時を経ても変わらず優しい実茉さんはやはり心配で。
ちゃんと生きると言い切ってくれた事に一先ず安堵したのも束の間、言いにくそうに自らの頬を人差し指で突いて瞳を逸らした実茉さんに首を傾げる

「俺も死神から人間に戻ったとはいえ、神性がついてるから同じなんだけどね?……俺達、落ちた刺されたくらいじゃ、全然死なないんだよねぇ」

「え゛っ」


END

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