幕引きに音は鳴らない
付き合って5年目になる彼氏に浮気をされた。
久しぶりに仕事を定時で終えることができ、久しぶりに彼と夕食が食べれると足取り軽く帰宅した矢先の出来事だった。
玄関に雑に脱ぎ散らかされた女物のパンプスと、明かりのついたリビングから聞こえてくるどう考えても女の喘ぎ声に、浮き足立っていた気持ちが一気に冷えていくのを感じた。
どう考えても黒としか思えない現状を「はいそうですか」と簡単に受け入れられるはずもなく、どうか嘘であって欲しいと震える手でリビングの扉を開ける。
けれど悲しいかな、目の前に広がったのは中途半端に下着を引っ掛け下品に股を開く女と、夢中で女に腰を振る彼氏の姿だった。
「名前っ、これは……!」
「言い訳とか聞きたくないから」
私という第三者の存在にきゃあっと甲高い悲鳴を上げて身体を隠そうとする女と、女をその背中に隠しながら弁解を試みる彼氏だった男に悲しみを通り越して私は殺意が湧いた。
早くその汚いものしまってくれる?と、男の股の間にぶら下がる一物を冷ややかな目で指さす。自分では分からないが視線はまさしくゴミを見るときのそれだったと思う。
「あ、あのっ、私……」
何も言わず2人を睨みつける私に、男の背中に隠された女が涙声で弁解しようと一歩前へと出た。
「彼女さんを傷つけるつもりじゃなくてっ…でも、彼のこと、…好きになっちゃって…っごめ、ごめんなさい」
何故この女が泣くのだろう、泣きたいのはこっちだというのに。悲しみと怒りがごちゃまぜになり妙に冷静な頭で、他人事のように女の顔を見て思う。大きな目からポロポロと涙ながらに訴えてくる女はなるほど可愛らしかった。身長は私より少し低く、手入れをきちんとしているのだろうミルクティーブラウンの髪はコテで綺麗に巻かれている。鼻も口も小さくてたっぷりのまつ毛はくるりと上を向いていた。こんな状況でなければ可愛らしい人だと褒めていただろう。
しかしどんなに見た目が可愛くとも、今の私にとっては見境なく人の男を誘うような阿婆擦れにしか見えない。「だからなに?」と、発せられた声は自分でも驚くほどに冷たかった。
「何そのお粗末な言い訳。わざとじゃなかったら何してもいいって言ってるようにしか聞こえないんですけど」
「ち、ちがっ」
「違うかどうかは私が決めます。大体、わざとじゃないから許してが通用するのは、精々学生まででしょう。いい歳してやって良いことと悪いことの区別もつかないの?失礼ですが、貴方、猿かなにかなの?」
「おいっ!さすがに言い過ぎ…!」
「は?どこが?貴方達がやった事の方がよっぽど責められるべきことでしょ」
割って入る男を睨みつける。
「彼女と住んでる部屋に女連れ込んでとか、何考えてるの。あんたに至っては猿以下よ」
「っそういうとこが嫌だったんだよ!」
冷めた声で淡々と罵倒していると男としてのプライドが傷ついたのか、顔を真っ赤にした男が強く吐き捨てた。
何故私が逆ギレされなければならないのか。眉が不快感に寄る。
「は?何、」
「いつも仕事仕事って俺のことは放ったらかしで!こんな時でも涙ひとつ見せない!お前みたいな可愛げのない女もう限界なんだよ!」
女物の靴を見た時より、男女のまぐわいを見た時よりも大きな衝撃が頭を殴りつけた。
あぁ、だからこの男はこの女を選んだのか。自分とは正反対の守ってあげたくなるようなこの女を。
確かに恋人らしく甘えることは少なかったかもしれない。デートだって一般的なカップルよりは少なめだっただろう。だけど休みの日はできるだけ一緒の時間を共有しようと頑張ったし、日頃の感謝は常に伝えていた。
死ぬ気で大手出版社の採用を勝ち取り、学生の頃からずっと憧れていたファッション誌の編集者になれて、ようやく自分でページを任せてもらえるようになった。これからだ。自分の手でいい物を作り上げたい。過去の私がそうだったように見ているだけでワクワクするようなそんな雑誌を全国の人に届けたい。
そういう思いで仕事を頑張っていた自分を理解し応援してくれていたと、私は今この瞬間まで信じていたのだ。だけど、それは違ったようだ。
「それが貴方の本音ってことね」
バツが悪そうに視線を逸らした男に、何もかもどうでも良くなった。もういい。
くるっと踵を返してリビングの引き出しの中から貴重品を取り出す。続いてクローゼットの中から数日分の洋服と下着、洗面台で愛用の化粧品類など必要なものを片っ端から取り出し、旅行用のキャリーケースに詰め込んだ。
「週末に他の荷物は取りにくる。鍵はポストに入れとくから、新しい彼女さんにでもあげれば?」
淡々と事務的なやり取りだけをし、リビングの扉に手をかける。
あぁ、最後にこれだけは言っておかなければ。
「地獄に落ちろ、クソ野郎」
バンッとリビングの扉を力いっぱい閉め、お気に入りのパンプスを履いて家を出た。カツカツとヒールを鳴らしながらキャリーケースを引く。
とりあえず今日泊まれるビジネスホテルを探さなければ。今日の晩御飯はコンビニ弁当で、お弁当は作れないので明日の昼ごはんは社食にしよう。新しく住む家や家具も急いで探さなければいけない。
スマホを取り出して職場から近いビジネスホテルを検索する。ホテルまでのルートを検索し、電車の時間を確認した時、ぽたりとスマホの液晶に雫が落ちた。頬を伝う冷たい温度を感じて、ようやく私は自分が泣いていることに気付いた。
一度溢れてしまったら止めることなどできず、ボロボロと涙が溢れてくる。急に足が重く感じてしまい、その場でうずくまる。ここが住宅街で良かった、おかげで誰にもこんな情けない姿見られないですむ。
「さいってー……」
呟いた声は酷く弱々しかった。
/
どんなに最悪の気分だろうが時間は止まってなんてくれない。メンタルがズタボロだろうが社会人として仕事は全うしなければならない。むしろあんな奴らのせいで、やっと掴んだチャンスを棒に振るものかと自分を奮い立たせてやり切った。
きっとこういう所が可愛げがないと言われる理由なのだろうな、と疲れた頭でふと思った。
そうして迎えた土曜日、私は数日ぶりのマンションの前に立っていた。鍵を開けて中に入り、真っ暗な部屋の電気をつける。当たり前だが元彼は出かけているようで、さすがに顔を合わせるほど面の皮は厚くないようで安心した。
さて、いつまでもこんな部屋にいたくない。さっさと片付けてしまおうと、気合を入れるためにくるりと髪をヘアクリップでまとめ、作業に取り掛かる。持っていくものはダンボールへ、いらないものはゴミ袋にハイペースで放り込んでいく。コツは即断即決だ。時々、見せつけるように置いてある見覚えのない化粧品や部屋着に痛む胸を無視し、作業を進めた。
4時間後、頼んでおいた引越し業者にダンボールを預け、ゴミステーションに元彼への気持ちと5年間の思い出をゴミと一緒に放り込み、鍵をポストに落としたら、おしまいだ。
時間はあっという間に夕方だ。時間もちょうどいいので、今日は気分転換も兼ねていいものでも食べに行こうかと携帯を開いた時、兵庫に住んでいる高校時代からの友人からメッセージが届いていた。
『久しぶり〜元気しとる?』から始まり、その下には同窓会へのお誘いが続いている。なんでも来週に控える長期休暇の時にしようとノリのいい同期達の間で急きょ決まったらしく、今急いで連絡を回しているのだそうだ。
頭の中に思い浮かんだ友人達には確かに会いたい。だがしかし、その日はちょうど新しい部屋を探し、上手くいけば手続きも済ませて入居までいきたいと思っていた日だった。残念だが今回は断ろう。直ぐに返信を打ち込み、送信ボタンをタップした。送った瞬間に既読になり、間髪入れずに着信を知らせる画面へと切り替わる。この友人はいつも行動が早い。
慌てて通話ボタンを押して「もしもし、」と言おうとしたところで、電話口でまくし立てられた。
『ちょっと!引っ越してあんた彼氏は!?同棲してたんちゃうん!?』
「あー、浮気された」
『はぁ!?』
『ちょっと詳しく話しい!』と続きを求められ、セックスの真っ最中に帰宅してしまった事から、普段の自分ならば吐かないような暴言を吐き捨てて家を飛び出した事まで洗いざらい話した。
全て話し終わった後、電話口で『何やそれ、』と呆然とした友人の声が聞こえたかと思えば次の瞬間には『何っやその男!最っ低やな!腹立つ〜〜っ!』と怒り出した。
『てかそいつ、仕事バリバリやっとってちゃんと評価されとる名前に嫉妬してるだけやん!小っっさい男!』
「、ふふ、ほんとだよね」
『そんなやつ別れて正解や!名前には勿体ない!』
同情も下手な慰めもない。この友人のこういう所が堪らなく好きだと思う。あぁ、会いたい。
「やっぱり行く、同窓会」
『え?マジで?私は嬉しいけど引っ越し大丈夫なん?』
「大丈夫じゃないけど、皆に会いたくなっちゃったから」
『そっか。ならとことん飲もうや!名前の事朝まで寝かさんで』
「ちょっとやだ、おじさんみたい!」
電話越しにケラケラと笑い合いながら、駅へと歩き出す。まだ傷は癒えない。だが先ほどよりも少しだけ足取りが軽いのは間違いなく友人のおかげだった。