お嬢様は無関心
呪術界の名門といえば、五条、禪院、加茂の通称御三家であるが、それ以外にも呪術師の家系は存在する。一つ名をあげるなら、呪言を相伝する狗巻家がそれだ。さて、前置きはここまで。
呪術界における御三家──その次に長い歴史を持つ美山家は、その術式こそ前衛向きでは無いものの、代わりに後方支援に特化した連携の要を担う名門である。中でも当主の座につく者は慧眼に優れ、その頭脳は正しく知識の宝庫、故に御三家には名を連ねないもの、発言権は大きい。そんな美山家の現当主が、三人兄妹の末の娘を自身の後継として指名したことは呪術界を震撼させた。
当代の美山家は運に恵まれ、長男、次男共に相伝の術式を持って産まれてきた。そのどちらも聡明で、どちらが選ばれても次代の美山家を背負うに相応しいとされていた。しかし、現当主が選んだのはそのどちらでもなく、二人とは年の離れた末の娘。更に驚くべきは、二人の兄はそれに対して全く異を唱えなかった。あの美山の慧眼も遂に曇ったか──誰もがそう言った。
しかし、そんな言葉も程なく消え去る事になった。当主の慧眼はやはり正しかった。末の娘はありとあらゆる才に恵まれた。容姿、頭脳、術式、どれを取っても非の打ち所がない。五条家に数百年ぶりに産まれた六眼と無下限呪術の掛け合わせ、産まれたときから最強になることが約束された男の子、五条悟。それとは別に語られる、美山家が産んだ稀代の天才、神童と謳われる、美山依子。
これはそんな二人が紆余曲折を経て、一緒になるまでの物語である。
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子供の頃に一度だけ、五条悟は美山依子に会ったことがある。正しくは、見たことがある。五条の誕生日パーティーに参列していたのがその時だ。手入れの行き届いた濡羽色の髪に、子供ながらに既に完成されたその顔立ち、歳の離れた兄に手を握られながら依子はただそこにいた──心底つまらない、そんな表情で。大人だらけの空間に臆することはなく、たまに話しかけられれば子どもらしく、しかし名家の令嬢に相応しい振る舞いで返した。そして、会話が終わればまたつまらなさそうに明後日の方向を見やるのだ。
──可愛げのねえ奴。
それが美山依子の第一印象。周りに言わせれば、お前が言うか、だがそんなこと面と向かって言える人物は今この場に存在しないし、そもそもこれは五条の心の声だ。
ぱちり。依子を観察していた、五条の空よりも海よりも蒼く美しい双眸と、彼女の黒曜石の双眸がかち合った。<深淵を覗くとき、深淵もまた此方を覗いている>とはよく言ったものだ。腹の底が見えない黒曜の瞳──五条は例えようのない気持ち悪さを感じた。依子はこの時の五条にとって、深淵そのものだった。
ふい、と依子が先に視線を逸らす。興味ない、と態度で示すように。カチンときた五条も視線を逸らした。アイツ嫌い。出会って数分にして、彼らの仲は険悪。そのまま会うことも、話すこともなく、月日は流れた。
二人の再会は、4月、五条悟15の歳、美山依子17の歳。場所は呪術高専東京校。桜の中、変わらない黒曜の瞳で桜を見上げる依子に、五条は容易くあの日に引き戻された。
ぱちり。あの日と同じように、蒼と黒曜石がかち合う──そしてやはり、今回も依子から逸らされるのだ。
「ムカつく…」
五条は再確認した。美山依子はやはり気に入らない、と。
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<立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花>、この美山依子という女を形容するのに、最初にその例えを持ち出した奴、出てきて一発殴らせろ。
「前に出れねえ術式、後生大事に受け継いで名家とか笑かすなよ。見た目だけは良いんだから、さっさと嫁いで好色家のオッサン共に可愛がってもらえよ、オジョウサマ」
「前線で戦うことだけが全てでは無いと、そんな事も分からないのかしら。五条家の人間ともあろうものがそんなに浅慮だなんて、五条待望の六眼と無下限も大したことないのね?将来が危ぶまれるわ。それともなにかしら?才能を得た代わりにおつむは捨ててきたのかしら?だったら分からなくても仕方ないわね、お気の毒さま」
今日も今日とて、五条は依子に絡み、依子は五条の煽りを倍以上にして返す。これが東京校の、ある種名物になりつつあると知れば、彼らは何と言うだろうか。
「依子…いたいた、げっ五条!」
「歌姫先輩、すみません、今行きます」
「いいよいいよ。どうせまた五条に絡まれてたんでしょ。五条、あんたねぇ依子は忙しいんだからいちいち喧嘩売るの止めな」
「は?前線で人戦わせるだけのクソ雑魚が神童とか持て囃されて、調子乗ってるのがイラついて何がダメなわけ?それなら歌姫の方がまだ尊敬できるわ、してないけど」
「サラッと私をディスってんじゃないわよ!」
「歌姫先輩、これ以上は時間の無駄です。行きましょう」
依子を呼びに来たはずが、ヒートアップしてゆく庵を依子は一言で制した。"これ以上は時間の無駄"、ピシャリと言い放たれた五条に更に苛立ちが募る。
「任務の詳細は…」
「必要ありません。既に頭に入っています。連携にも問題ないでしょう」
またか。五条はもう何度も突きつけられた現実に歯噛みした。
美山家の神童にして次期当主、特別一級術師、依子はその若さで既に呪術界に確固たる地位を築いていた。その知識の深さと、戦闘には向かないものの有用な術式は引く手数多。全国から依子に調査をと依頼する声は絶えず、彼女自身もそれを当たり前のこととしていた。とどのつまり、彼女は多忙なのである。公には高専生であるので、在籍する京都校を拠点にしているが、実際には任務で外に出ていることの方が多く、東京校で見かけるのも珍しい話ではない。依子に助けを求めるその膨大な件数の任務、それら全てを彼女は頭に叩き込んである。そして、自らが溜め込んだあらゆる呪術的知識を元に紐解き、自ら赴かなくて良いと判断したものは、子細を担当者に連絡し適切な者を打診し、解決への道筋を立ててやる。
五条がどれほど依子を煽ろうと、依子がそれにどれだけ言い返そうと、彼女が感情を剥き出しにして怒ったことはないし、五条の絡みによって課せられた役目の一切が疎かになったことはない。依子にとって五条の絡みは取るに足らない些事であり、片手間に付き合ってやってるに過ぎないのだ。その現実は五条のプライドを傷つけるには十分、そして今日も、彼は興味無さげに去ってゆく女の後ろ姿をにらみつけるのだ。
「美山先輩が如何に優れた人であるか分からない訳じゃないだろ」
「お得意の正論でお説教かよ。それともあの女に色仕掛けでもされたか?名家のゴレイジョウだ、ソッチの勉強も抜かりないんだろ」
「…何を苛立ってるのか知らないが、変な勘繰りは止せ。彼女は次期当主だ、夜の作法なんて叩き込まれているわけないだろ」
美山先輩は尊敬すべき術師だ。
唯一無二の親友まで彼女を賞賛する。五条は美山依子の全てが気に入らない。前線に出ない術式も、それを補って余りある有能さも、五条悟に興味がない所も、彼が最も忌み嫌う理由で燦然と立つ姿がこれ以上ない程に気高く美しいことも。
穿った見方をしたとして、五条の事が嫌いだと公言してくれるならそれは依子の心が五条により動かされた証拠だ。その方が今よりも幾分か胸の奥がスカッとするだろうに、依子はそれすらしてくれないのだ。
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「アンタなんで五条に言い返さないの?」
「? 大いに言い返してると思うのですが?」
「前に出ないくせに、とか言ってたじゃない」
あぁ、その事か、と依子は手にした拳銃の弾倉を素早く入れ替え、目の前の呪霊を的確に撃ち抜いた。霧散していく呪霊を見下ろし、依子はケロリとした様子で、言ってませんから、などとのたまった為、庵は不本意ながらも五条に少し同情してしまった。依子が前衛にも出れると知ったとき、彼はどんな反応をするのだろうか。
高専を出る前の五条の言い方だと、依子が安全圏から指示出ししかしていないかのような口振りだった為、庵は気になっていたのだ。なんせ彼女の名誉に関わる内容、彼女を正しく知った上での罵倒だったなら、流石に見過ごせない発言だった。しかし事実はそうではなく、単に依子が言っていないだけだという。
依子は後方支援でこそ、その真価を発揮するが、決して戦う事を遠ざけている訳では無い。寧ろ、後方支援に徹するからこそ、直接命を掛ける術師の命は自分にかかっているという自負を強く持っている。この事を知る人間は少ないが、依子が何より熱心に取り組んでいるのは戦闘訓練である。状況、地形、敵の強さ──日々の鍛錬の中から、実践の中から、依子はあらゆる戦局をシュミレーションしている。
その甲斐あって、術式を持たない二級呪霊までなら何体来ようが依子の敵ではない。
だがこれは依子と一緒に任務に出ないと知ることの無い情報だ。入学したての一年生にその機会はまだ与えられてない。彼らが知らないのは無理もない。
「ただでさえ神童とか呼ばれてんのに、こうもストイックにされたら、妬む気も起きないわね。…アンタはもう少し手抜きを覚えてもいいと思うわよ」
「そう、ですか?」
あ、これ分かって無いな。こういう所が依子を依子たらしめる理由なのだろうな、と庵は苦笑するだけで言及せずにおいた。