絶望と呼ぶには輝きすぎている


セットカウント1-1、得点は24-23──。
あちらのマッチポイントだ。バレーボールという競技において強者のみが立つことを許されるオレンジコートと高い天井、眩い照明。額を伝った汗が床に落ちた。ふーっと深い息をして集中し、サーブを迎え撃つために腰を落とした。
ここを凌がなければ敗北が待っている──。少しでも怯めば絶望が口を開けて待っているような、そんな崖の淵に立たされたようなヒリついた空気が心地いい。
ホイッスルが鳴り、高く放られたサーブトスと床を蹴ったサーバー。強く押し出されたボールがネットを越えてこちらのコートへ飛んでくる。リベロが乱されながらもレシーブを上げ、セッターが素早くボールの下へと回り込む。

「まつり!」

助走がしっかり取れる高めのトス。私のためを思って上げられたトスだと分かる。この1本を繋ぐ──ただそれだけを考えて私は飛んだ。


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桜が新たな出会いを運んでくる4月──。
吹く風はまだ少し冷たいが、窓を開けなければ日差しはぽかぽかと温かい。2年生に進級した九条まつりは春らしい陽気に口もとを手で隠して小さくあくびを零すと、くすっと横で笑う声がした。

「えっと、もしかして見てた?」
「おん。見とったで」

「ちゃんと前見いや」とまつりをたしなめて視線を前に戻したのは、クラスメイトの北信介だ。1年の時も同じクラスだった彼とは、バレー繋がりだったり席が近かったりで何かと話すことが多く、すぐ打ち解けることができた。2年生になった今では軽口を叩き合えるくらいには仲のいい友達である。

今日は始業式なので時間割は午前中のみ、ちなみに明日の入学式も同様だ。眠い目をぱちぱちして何とか耐えながら、ホームルームが終わるのを待つ。起立、礼の号令の号令でようやく解放されたと、まつりは立ち上がって伸びをした。
ふと横を見るとスポーツバックの中に物をしまう北がいる。

「北くんはこれから部活?」
「せや」
「頑張ってね」
「ありがとうな」

北は決しておしゃべりなタイプではないし、何事もちゃんとやる事を信条とする周りも認める隙なし男である。なので冷たい印象を抱かれることもままあるが、喋ってみると意外とよく笑うしたまに冗談だって言う。
今だって応援に柔らかな微笑みが返ってきてくる。まつりは北の鋭さの中に隠れるこういう柔らかいところにとても好感を持っていた。

「信介、体育館行くで」
「今行くわ」

同じバレー部の尾白に声をかけられて北は出ていってしまった。その北の背中を見送ってからまつりも帰ろうと荷物をまとめはじめる。

「なぁ!!あんた九条まつりやんな!?」

バンッと机を叩いて立ちはだかるクラスメイトにまつりは目を丸くした。
緊張した面持ちで真っ直ぐ見つめてくるショートカットのクラスメイトの名前は確か──。

「青森さん、だっけ?」

進級してクラス替えが行われたため、初対面の人間も多い。ホームルームの時に簡単な自己紹介が行われた時、元気な声で「青森凛子です!リンゴちゃんって呼んでもええで?」と名乗り「青森ぃ、おる県間違えてるで!」とノリのいい男子生徒にツッコミをもらい笑いを取っていた彼女の事をまつりはよく覚えていた。
パァっと女子生徒、青森凛子が感極まったように噛みしめ──、、、

「はぁぁ、あの九条まつりがウチの名前呼んでくれた…!てか喋っとる……動いとる……というか九条まつりって3次元に存在しとったんやな、」

ものすごい勢いで何か言っていた。
「えっと、青森さん?」まつりに声をかけられはっとした凛子は興奮気味に捲し立てた。

「〜〜っ、二年前のU-16のアジア選手権大会全部見た!大会中の最多得点、ベストアウトサイドヒッター賞めっちゃシビれたわ!同い年でこんなに凄い選手がおるんかって!ウチ、九条さんみたいなスパイカーにトス上げるのが夢やねん!」
「えっ青森さんセッターなの!?」
「せっ、せや!今はまだ全然大したことないけど、絶対絶対上手くなるんや!」

グッと拳を握った凛子にまつりは「じゃあその時は試合見に行くね」と笑った。世間一般で言うところの"推し"であるまつりの言葉に、凛子は両手で顔を多い感動で震えた。


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「まつり!中庭に行こうや!」
「あっ今日飲み物忘れたから自販機寄らせて!」
「ならウチもなんか買お!」

1ヶ月後、すっかり意気投合した凛子といつも通り昼食を取るために席を立った。稲荷崎高校の中庭はそこそこ広く、すみっこの日当たりのいい場所にいくつかベンチとテーブルが設けられている。
飲み物を買ってから空いているテーブルを陣取り、2人でお弁当を広げた。
話す内容といえば、流行りのアーティストやSNSやカフェの話など女子高生らしい話題ももちろんあるが、やはりバレーボールの話題が多い。昨日の調子はイマイチだった、インターハイ予選に向けてチームの空気も上がっていること、予選までにこの連携を完成させたい、など凛子がペラペラと喋る正面でまつりは楽しそうに相づちを打つ。
すると、視界の端に見慣れた姿が入り込んだ。空いている席を探しているのだろう、キョロキョロとしている2人組に手招きをする。

「北くんと尾白くんも今日は中庭?」
「天気がええからたまにはお日さんに当たりながら食おうってことになったんや」
「でも出遅れたみたいやなぁ」
「ここ4人がけ席だし座ったら?」
「ありがとう。ほなお邪魔させてもらうわ」

にこやかに笑った北と尾白が空いている席に腰掛けた。広げた弁当は高たんぱく、低脂質、炭水化物は多めのスポーツマンらしい弁当だった。
先ほどまで2人だけで繰り広げられていた会話に北と尾白が加わり、バレーボールトークに花が咲く。

「そういえば男バレ、野狐中の宮兄弟が入ったんやろ?どうなん?やっぱ上手いん?」
「上手いで。たまに喧嘩して乱闘しよるけど」
「えっ乱闘!?」

九条まつりのことを知る人間は大抵選手としてはもうコートに立てないまつりを気づかい、バレーの話題を避けたがる。それ自体は当たり前のことであるし、その優しさを責める気持ちはまつりにはない。
事実、選手としてやっていくには致命的な怪我を負ったその当時、まつりはかなり塞ぎ込み泣いた。U-16日本代表選手に選出されアジア選手権大会のコートへと立ち、15歳という若さで限られた人間しか見ることのできない世界の高みを見た。バレーボールは九条まつりそのものだった。だからこそ、選手としてプレーすることは無理だと宣告された時の衝撃は、絶望と呼ぶに相応しいものだった。もう二度とあの一歩踏み外せば落ちていくような輝く場所には戻れないのだと、思い知る度に苦しくなり、過呼吸まで起こしたこともある。
そうやって落ちるところまで落ちて、それでもまつりはバレーボールが好きだった。目を閉じて思い出すのは楽しかった事ばかりだ。初めてボールに触れた。初めて試合に勝てた。日本代表に選ばれた。世界という大舞台で戦い抜いた高揚感。そうしてがむしゃらにやってきた結果がこれなのだとしたら、後悔はないとそう思ってしまった。後悔がないのならばなるべくしてなったのだ──と、そうやってまつりは時間をかけて現実を受け入れた。閑話休題。

まつりに気を使わないこの空気感が心地いい。
3人とするバレーボールの話がまつりは好きだ。そこに自分は立てないけど、耳で聞き観客席から見るコートの中はあの時と変わらず今でも輝いているように思えるのだ。