きみは宗教、ぼくの信仰


「九条ー、悪いんやけど北にこれ渡しといてくれんか?」

ホームルームが終わり教室にいる人がまばらになり始めた頃、担任からペラっと渡されたのは部活の合宿で保護者の許可を得るための書類だった。まつりも選手だった頃に何度か書いた記憶がある。
「先生、うっかり渡し忘れてしもうてな。隣の席のよしみで頼むわ」と片手でごめんのジェスチャーをする先生に「いいですよ」とまつりは返して、シワがつかないようにすぐにファイルにしまった。

そういえば来月になればもうバレー部のインターハイ予選が始まる。おそらくこの合宿は全国へ向けての最終調整だろうことは容易に想像がついた。
稲荷崎高校は部活動が活発な学校である。その中でも特に男子バレーボール部と吹奏楽部は全国常連の強豪。よって応援も、学校全体に留まらず地元のバレーファンも駆けつけるくらい大々的だ。
この間、尾白が背番号をもらえたと言っていたし、今年は去年よりも多く試合を見に行こうとまつりは決めていた。北は残念ながら今回もスタンドらしいが、継続と反復を信条とする彼は結果に重きを置いていないので目に見えて落ち込んだりはしていない。今年は一緒に尾白を応援してもいいかもしれない。
ともかく、これはちゃんと渡さなければ。期限はそんなに近くないので明日でも構わないが、これはまつりの北に対しての誠意だ。まつりはいつもとは逆方向、バレー部が練習をする体育館へとつま先を向けた。

ボールがバウンドする懐かしい音がする。無数の音が絶えず聞こえてくるこれはサーブ練習だろうか。体育館の入口は風通しを良くするために開け放たれているが、緑のネットでボールが外に出るのを防いでいる。
まつりは中を覗き込み、目当ての人物を探す。ちょうどまつりがいる場所とは反対のコートでサーブ練習をする北を見つけた。そして近いところに尾白も見つけた。尾白に北を呼んでもらおう、とまつりは「尾白くん!」と声を張った。

「九条どないしたん?」
「うん、先生から合宿のプリント頼まれて。北くん呼んでもらえないかなと思っ「アアアアアアラン君!」

まつりと尾白の会話をかき消すほどの動揺した声が聞こえてきた。声の方に視線を向けるとくらい茶髪で前髪を分けた一人の男子生徒がソワソワしていた。その奥には黙々とサーブを打つ同じ顔のもう1人も見えた。彼らが噂の宮兄弟だとすぐに合点がいった。


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宮侑には人に憧れるという感情があまりない。
その理由は彼自信が憧れられる側であるというのもあるが、すごいと思う選手に対して闘争心の高い彼は思考が倒したいという方向へシフトチェンジすることが多いからだ。そんな侑が唯一と言っていいほどに憧れている選手が九条まつりであった。
1歳上の女子に規格外に上手い選手がいると聞き、公式戦の動画を見た。女バレの試合を見たのはこれが初めてだったかもしれない。身長が飛び抜けて高いわけではない。しかしその身体能力は抜群に高い。軽やかで高いジャンプ、1人だけ重力なんて感じていないような滞空時間、一瞬の乱れもない美しい空中姿勢、男子よりも細い腕から打ち出されるボールは鋭くブロックをかすることすらしなかった。可愛らしい顔に似合わず力でごり押す選手かと思えば、フェイントやリバウンド、ブロックアウトなど多彩でいて繊細なプレーを見せつける。何より侑の興味を釘付けにしたのはプレー中の表情だ。バレーを覚えたての子どものようにキラキラした目でまつりは飛んでいた。
相手のマッチポイントだろうがデュースに持ち込まれていようが、画面の中の女の子はずっと楽しそうで。今この子は勝ちとか負けとかきっとどうでも良くて、ただこの1本を繋ぎたくて仕方がないのだと、そう思った。
ものすごい宝ものを見つけたかのように興奮冷めやらぬまま、双子の治の元に突撃してその手からゲーム機を奪い、鬱陶しがる片割れにまつりの試合動画を見せた。「この子に自分のトスを上げたい!打って欲しい!」と力説する侑に対して、ゲームを邪魔された治が「いや、女子は無理やろ」と一刀両断にしたことで、最終的に掴み合いの喧嘩に発展したのは余談にさせて頂く。
以来、侑は九条まつりの熱狂的ファンなのである。まつりが日本代表に選ばれた時も「俺のまつりちゃんなら当然や」となぜか鼻高々、アジア選手権大会での大会中の最多得点とベストアウトサイドヒッター賞には「あかん。感動してもうた」とテレビの前で号泣。自分の試合で負けても泣いたりしないのに、これには治もドン引きである。
日本代表選手として目まぐるしい活躍を見せて一気にバレーボール界の風雲児となった九条まつりを俺の嫁と公言して憚らない強火オタク、それが宮侑なのである。
そうして脚光を浴びたのもつかの間、九条まつりはある時期を境にパッタリと雑誌にも公式戦にも出なくなった。噂で故障が原因で選手としてはもうコートに立てなくなったのだと聞いた。それを聞き、侑は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。バレーをする彼女の笑顔は過去の中にしかなくて、この先一生見ることは無いのだと知り、侑は心にぽっかりと穴が空いたようだった。
だがそんな喪失感も意外と時間が解決してくれるもので、1年以上がたった。今でも好きな選手を聞かれると九条まつりだと答えるし、彼女の試合を見返したりもするが、それらは全て過去のことだと割り切っている。

稲荷崎に入学して早1ヶ月半、今日も今日とて大好きなバレーを磨く宮侑は上手い具合に変化しないジャンプフローターに、ああでもないこうでもないと反省と挑戦を繰り返していた。

「尾白くん!」

すると、男ばかりの空間に女子にしては高くも低くもない落ち着いた声が響いた。アランくんに女の子の客か珍しいなぁ、とそちらを見て思わず手に持っていたボールを落とした。
昔からの馴染みである尾白を手招きしていたのは憧れて止まない九条まつりではないか。
いや落ち着け。まつりちゃんは神奈川県出身や兵庫におるはずがない。いやでも俺がまつりちゃんを見間違える方が有り得へん。だとしたらなんで兵庫におるんや、ていうかうちの制服やん。え、先輩?同じ学校の先輩なん?ていうか、まつりちゃん髪伸びてるし、実物は意外と小っさくて細っこいんやな──この間0.3秒である。
推しとのご対面は侑にはいささか刺激が強かったようである。すっかり処理落ちしてしまいフリーズする侑に、横でサーブを打っていた治の呑気な声がかかった。

「九条まつりやん。稲荷崎やったんやな」
「アアアアアアラン君!」

一瞬まつりが好きすぎるあまり幻覚でも見ているのかと疑ったが、片割れまでこういうのだやはり間違いない。侑は動揺する声で尾白を呼んだ。
頬をほんのり染めて興奮した面持ちでまつりを凝視する侑に、尾白は思い出したように言った。

「そういえば侑、九条のファンやったなぁ」

「え、そうなの?あの人って野狐中の宮選手でしょ?」とまつりの顔が尾白を見上げた。そのキョトン顔すら尊いと思うのだから侑のオタクっぷりは筋金入りである。しかし今侑にとって重要なのはそこではなかった。
待て待て待て、聞き間違いでなければ今俺は名前を呼ばれんかったか。あの九条まつりに──推しに認知されている。
あなたのプレーが好きですとか、この先もずっと九条まつりのファンですとか、俺のトスを出来たらでいいから打って欲しいとか、言いたいことはたくさんあったが、感極まった侑が高らかに叫んだのは──。

「〜〜〜っ、俺のトスを一生打ってください!!」

静まり返る体育館、ぽかんとしているまつり、
自分が何を口走ったのか理解して顔面蒼白になった侑。
なんだその「俺に一生味噌汁を作ってください」のバレーバージョンは、と後ろで静観していた治が片割れのポンコツ具合に頭を抱えたのだった。

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