長男から末弟まで揃ってクズニートの四男が俺、松野一松。六子の俺たちは二十歳を超えた今でも実家に住み、仕事もせず日がな一日ブラブラ。たまにパチンコ、金ができたら安い居酒屋で安い酒を飲む。クズニートはクズニートでも、超一級品。そんな6人の中でも飛び抜けてクズだと、自慢にも誇りにもならないような自信があった。他人と関わることを面倒臭さがるがあまり極度のコミュニケーション障害を患わせている俺は、兄弟と両親以外と話す機会がほとんどなかった。それでいいわけがないのに、これからもそうして生きていくんだろうとぼんやり思っていた。それが俺なんだと諦めにも似たこの捻くれた気持ちは、もはや自分ですら矯正する方法がわからないでいた。


今日も今日とて平日の真昼間から街をぶらつく俺を周りは、すれ違った人間は、どう思っているのだろう。考えることすら面倒くさい。こんな時はいつもの路地裏で野良猫と戯れるのが一番だ。何も考えなくていい。今までのことも、これからのことも。


家の戸棚からにぼしを持って路地裏に向かうと、いつもの野良猫の他に、丸まった背中がいた。人間だ。どうしてこんなところに、こんな時間に、俺以外のヤツがいるのだろう。ここで他の人間と鉢会うなんて今日がはじめてだったから、何だか妙に緊張した。ああ面倒くさい。奥の方で小さく丸まる背中が誰なのか、どうしてここにいるのか、若干の疑問はあるものの「他人と関わりを持ちたくない」という考えが頭の中を支配し、やがて疑問さえも塗りつぶした。帰ろう、唯一の予定がなくなってしまいさらに暇になるわけだが、そんなことを言っている場合じゃない。俺は一歩後ずさった。安物のサンダルとコンクリートが擦れあい、ジャリ、と鳴る。背中はびくりと跳ね上がり、勢いよく振り返ってきた。背中の正体は自分と同じくらいの年の女の子だった。


「あ、の……」
「…俺帰るんで、どうぞお構いなく」


何か言いたげだった彼女の言葉を遮って、俺はもう一歩後ずさりをした。彼女がいるところは奥まっている上に暗くてよく見えないが、少し目を凝らすと眼鏡の奥の瞳は濡れていて、頬には涙が伝っていた。こんなところで一人で泣いているっていうことは、何か嫌なこと、あるいは悲しいことがあったのだろう。この世のヒエラルキーのど底辺にいる俺でも察しがつくほど彼女は悲しそうで、痛々しくて、小さな身体に背負う負のオーラをひしひしと感じ取れた。だけど俺には関係ないしどうだっていい。泣きたければ泣けばいい。俺は身体ごと振り返り元来た道を引き返そうとした。


「ま、まって」
「…は?」
「まって、お願い、こっちに来なくていいから…そこにいて、ください」


細くて弱々しい、街の喧騒のなかでなら掻き消されてしまいそうな声。だけどここには誰もいない。初対面の俺になぜか追いすがる女の子と、野良猫と、俺しかいなかった。かろうじて聞き取ることができた彼女の言葉を無視して引き返すこともできた。なのになぜか、彼女の言葉を聞いてから足が動かなくなってしまった。一体何がどうなっているんだろう。ああもう面倒くさい。これだから他人と少しでも関わるとろくな事がないんだ。帰りたい。ただでさえ俺はクズなのに、これ以上彼女の負のオーラを纏ったらいよいよ生きる価値がなくなってしまいそうだ。今でさえあるかどうかわからないのに。頭の中で愚痴と毒を吐き散らしながら、尚も身体は動かない。何だっていうんだ。


俺は諦めて、腰を下ろした。


「何なの」
「ごめんなさい、あの」
「帰りたいから早くどうにかしてよ」
「…はい…ごめんなさい」


大げさにため息をつくと、彼女の身体がびくりと跳ねた。心底申し訳ないと思っていながら、俺を解放する旨の言葉は依然として出てこない。彼女は何度も何度も謝り続けた。











何時間経ったのだろう。もしかしたら数分の出来事かもしれないけれど、何十倍も長く感じた。やがて彼女の涙は止まり、どうにか落ち着いたようだった。


「…ありがとうございます、」
「気ィ済んだの」
「はい、落ち着きました…」
「よかったね、それじゃ」


彼女の瞳から溢れなくなった涙。それと同時に自分の身体からもすっと力が抜けたような気がした。この子が泣き止むまでそばにいてあげたとか、クソ童貞が何粋がってんだって感じ。ずっと持っていたにぼしの袋から数個取り出し、今までずっと大人しくしていた野良猫にあげた。あのとき、彼女が泣いて俺に縋ったとき、どうしてここから立ち去らなかったのか。自分のことなのによくわからないけれど、まあいいか。コンクリートに座っていたせいでじんわりと痛むケツを払い、俺は立ち上がった。


「あのっ!」
「…なに。まだ何かあるの」
「い、いえ、その…本当にありがとうございました」
「別に」


俺を追うようにして立ち上がった彼女は、想像よりずっと小さかった。身長云々ではなくて、意識的に縮こまっているような感じがした。ずっとこうやって過ごしてきたのだろうか。そういえば一回も目が合わないのは、彼女がずっと下を見ているからだ。


「お、お礼をしたいので、その、」
「いらない。もう遅いし早く帰りなよ」
「でも」


何となく、ほんのりと、自分と同じ匂いがするような気がした。自分に自信がなくて、常に自分のことを卑下していて、他人との関わりが気薄な感じ。それでもきっとこの子は俺よりはましだろう。そう思いながらも、この世の中がとても生き辛そうな彼女を見ていると「自分だけじゃない」と謎の安心感を抱いてしまう自分がいた。


「わっわたし名字名前といいます、またここに来ますか」
「…来ない。今日はたまたま通りかかっただけ」


にぼしの袋を持ちながら言っても何の説得力もないのに、俺はもう彼女と関わりたくない一心で嘘をついた。俺の予定なんてここに来る以外にないくせに、これ以上彼女と話せば、関われば、「他人がこんな風に生き辛そうにしているんだから、俺なんかが人並みに過ごしていけるわけがない」と自分のクズさを棚に上げ、これでいいんだと肯定してしまいそうな気がして怖かった。そして何より、こんなに泣いてしまうほど悲しみに暮れる彼女に情がうつってしまうような、根拠のない直感があった。



他人に期待したり失望したり、そんなことは疲れるだけだ。


俺に来ないと言われた彼女は、何か言いたげに口をぱくぱくさせながら、しかし次の言葉は出てこなかった。もうここから逃げよう。いつまでもここにいたってどうにもならない。俺は何も言えない彼女を置いて早足で帰路に着いた。




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