何もかもが嫌だった。憂鬱だった。何もかも燃えて灰になって消えてしまえばいいのに。そんな卑屈を考えない日はなかった。ひとりが好きなわけではない。家に帰ればあたたかい家族に迎え入れられ、仕事に行けばやりがいがあり自分の力を必要とされている場所があり、たくさんの友達に囲まれる。全部なんてそんな贅沢は言わない、ただどれか一つがほしかった。そしたらこんな風に毎日涙で枕を濡らす日々なんかなかっただろうに。この世の全ての不幸を背負った気分で、本当は私なんかよりもっと辛くて悲しい思いをしている人はいるのだと理屈では分かっていても、私がこの世で一番不幸なのだとそう思わずにはいられなかった。そうじゃないと、押し潰されて息が続かなくなってしまう気がして。小さな私の部屋には、吐き出された二酸化炭素が詰まっていた。


自分がとことん弱ってしまって、いっそのこと息が止まってしまえばいいのにと考えたことだってあったけれど、自分を自分で殺してしまう勇気なんてなかった。痛いのは嫌だ。ふつうの人なら誰だって持つであろうふつうの考え。こういう時だけわたしは「ふつうのにんげん」に戻るのだ。悲しい思いをしたくない、幸せになりたい、なれない、だけどこの世界と決別することができない。

結局、どうすることもできなくてただひとりで立ちすくむだけ。すべては自分のせい。心が弱い自分のせい。


人間というのはなんて丈夫で融通がきかない生き物なんだろう。自分の意識のなかでは嫌だと思っていても、生きるためならこうして外に出て働き、食事をし、寝て起きて毎日を過ごすのだ。そうしたくなくたって、身体が勝手に動いてしまうのだから驚きだ。わたしは今日も生きるために涙を流す。あれが嫌だこれが嫌だと心を擦り減らしながら、それでも生きていくのだろう。









わたしって泣かなくて済む日はないのかな。
悲しみに暮れ正常に機能しない頭のなかに、ぽつりと他人事のような独り言が腰を下ろした。また職場の上司にひどいことを言われてしまった。あなたには両親がいないから、まともな教育を受けてこなかったんだろうって。だからこんな簡単なこともわからないんだろうって。ミスしてしまったのは本当にうっかりで、そんなことは関係ないのに。反論したかった。確かにわたしには親はいないけれど、生まれてからずっといなかったわけじゃない。物心がついてすぐに不慮の事故で死別してしまった父と母を思い出しては、優しくしてくれた昔の思い出が頭のなかを駆け巡る。わたしがこんなにできそこないのせいで、二人まで馬鹿にされてしまったのが悔しくて、言い返せず縮こまる自分が情けなくて、感情の波が涙となって溢れ出た。どこにも居場所がない。どこにいてもわたしは一人で、それがいっそう悲しい気持ちにさせるのだ。仕事を抜け出してこうして薄暗い路地裏でみじめに泣いてしまう自分が嫌で嫌でたまらなかった。


不意に、背後から物音がした。わたしの身体が大げさなくらいに跳び上がった。こんな時間に、こんなところに、一体誰が…。痛いほど脈を打つ心臓を抑えながらおそるおそる後ろを振り返ると、自分と同い年か少し上であろう男の人が戸惑ったように立っていた。


「あ、の……」
「…俺帰るんで、どうぞお構いなく」


わたしの言葉を遮って、彼は一歩後ずさりをした。よく見ると手に何かの袋を持っているのがわかった。それと同時に、自分の足元に数匹の野良猫がいるのにようやく気付いた。

猫に、会いに来たのだろうか…。

わたしの意識は一瞬で視線の先に居る猫背の彼に持っていかれてしまった。少しの間、ほんの数秒、時が止まったかのような沈黙。その沈黙を破ったのは彼だった。ジャリ、と音を鳴らしてここから立ち去ろうとしていた。行ってしまう。どこかへ。考えるより先に口が動いた。


「ま、まって」
「…は?」
「まって、お願い、こっちにこなくていいから…そこにいて、ください」


言葉が出てしまえば後から思考がやっと追い付いてくる。どうして見ず知らずの男の人を呼び止めてしまったんだろう?考えなしに行動してしまうなんて生まれて初めてで、ひどく動揺した。
ただ、ひとりになりたくない。それだけの理由で彼を呼び止めてしまったんだとしたら。だとしたらわたしはなんて身勝手で、情けない人間だろうか。だけどもう、色々と限界だったのかもしれない。一人でこうして悲しみに暮れるのは。誰でもいいからそばにいてほしかった。自分の心の悲鳴が言葉となり出てしまったような気がした。


「何なの」


あれこれと考えているうちに、彼は腰を下ろしていた。こんな見ず知らずの女に呼び止められて、無視して立ち去ることもできただろう。だけど彼はどこにも行かずここに留まってくれた。


「ごめんなさい、あの」
「帰りたいから早くどうにかしてよ」
「…はい…ごめんなさい」


申し訳ない気持ちでいっぱいだった。わがままに付き合わせてしまっていることも、「やっぱり大丈夫です」と一言声を出すことができないのも。だけどそれ以上に「誰かがそばにいてくれる」ことでわたしの心が晴れていくのがわかって、それがどうしようもないくらいに心地よくて、わたしは謝り続けながらも彼を開放することができなかった。




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