藍色の曖昧な世界
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『67482円の男』
彼のジーンズに染み付いた匂いが好きだった。履き古したそれには彼自身の匂いや部屋の匂い、もしかしたら飼っている猫の臭いなんかも混ざっていたのかもしれない。
近所に実家暮らししていた彼は、よく私の家まで歩いてきていた。ふらりと、会いたいなんて連絡をよこしては遅い時間にシャワーを済ませてやってきて、だいたい明け方になると「猫の餌をあげに行かないと……」なんていって帰っていった。
つい最近、私は隣の市へ引っ越しした。端的にいうと二ヶ月前には彼と別れており、私は彼にいつでも会える場所に留まるのが嫌で引っ越ししたのだった。
ただ一つ、彼への気がかりが頭をもたげていた。――いっこうに返されないままになった67482円。彼にせびられ続けそのたび貸していくうちに、呆れるような額が積みあがってしまった。
どうせ返ってきやしないだろうとなかば諦めながらも、ひょっとすれば返してくれる可能性もなくもないのでは、と彼の持つ良心に私はわずかながらもすがっていた。だから私は今日もこうして、茶封筒に借用書と簡単な手紙を入れて彼の家に向かっている。
かつての最寄駅である阪急服部駅に降り立ち、目的地へと歩みを進めた。改札を抜け、書店を皮切りに始まるこぢんまりとした商店街を突っ切っていく。それから馴染みのある生活道路に入って右や左に折れ曲がり、前住んでいたマンションを通り過ぎてくねくね行くと、ほどなくして彼の実家である寂れたアパートに着いた。
雨ざらしで錆び付いた階段を渇いた音を立てながら上っていくと、ひっそりとした屋根のない二階に到着する。下が透けて見える金網状の通路を通って彼の家まで行くと、窓からうっすら光が漏れていて珍しく誰かいるようだった。
貧相なチャイムを鳴らし、「すみません、
「どちらさまですか」
「
「今はいません」
「そっか。じゃあ、これ渡しといてもらえるかな?」
弟と思しき男の子は、怪訝そうに茶封筒を受け取りつつも了承した。
「お金返してくれないと困るから、早く返してねってお兄ちゃんにいっといてね」
にこやかに視線をおくると、男の子は一瞬大きく目を見開いて困惑を示す。言葉を失ったまま静止する彼に会釈をして、その場をあとにした。
階段を下りながら、あの家には猫がいるんだろうかと考えていた。中に入ったことがないのでよく分からなかったけれど、ふいにそれが気になっていた。
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