創作小説 *生活
雨のにおいと高架下
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 なぜ、私はこうもお腹が弱いのか……。便器を跨いで悶々と考えながら、薄汚いタイルに無造作に散らばる屑を見ていた。
 単純に汗が冷えただとか、雨に濡れただとか、アルコールを摂り過ぎたあとだとか……、お腹をこわすには思い当たる節が多過ぎるくらいある。
 まだ吐き気がないだけマシかな……、などと酔いと疲れで呆けた頭で自らを慰めていた。
 いまだにひりつく下腹部をどうにか手で押さえながら、目一杯いきんで水分を排出させる。自らの痴態を表す排泄音が、トイレの個室内に響いた。外で待ってもらっているギター弾きの彼にも聞こえているかもしれないと思うと情けなくなる。

 私はつい先程まで、雨の中飄々と路上で演奏する彼が物珍しくて傘も差さずに見物していた。酔いがよく回って濡れても寒さなど感じてはいなかったが、思いのほか身体は冷え切っていたみたいで急な腹痛に見舞われてしまったという訳だ。
 身悶えしつつギター弾きの彼に近くのトイレの場所を尋ねると、裏にある公園が一番近くコンビニなどはしばらく先でないとないと言われた。お腹がよじれて悠長なことをしている場合ではない私は、最も近いそのトイレまで案内してもらうことにした。
 いざ連れてきてもらい寂れた公衆トイレを目の前にすると、淀んだ空気に不穏なものを感じた。そういえばこの近辺は治安が悪くホームレスもちらほら見かけるのを思い出す。女性が夜分に一人で入るには敬遠されるような場所に気後れした。このまま一人取り残されることに怖気づいた私は、無理を言って彼に見張りをお願いしたのだった。
 街中の公衆トイレというのもあり、個室に入る前から尿がこびり付いたみたいな異臭が漂っていた。個室内は想像通りの有様で、汚物入れはもはやゴミ箱と化して山盛りになり、床は切れ切れのティッシュペーパーなんかがそこかしこに張り付いていた。
 そう、ぐちゃぐちゃ。まるで今の私みたいにぐちゃぐちゃに、惨めだった。

 幾度もやってくる便意との格闘のすえ、ようやくお腹が落ち着いてきたので個室をあとにした。公衆トイレの軒下に行くと彼はギターを背負って携帯を弄っている。自ら待ってもらうようにお願いしていたものの、申し訳なさと安堵の気持ちが募った。
「ごめんね、お待たせ」
「大丈夫だったんですか?」
「うん、だいぶ落ち着いたよ。見張りありがとうね」
「じゃ、帰りますか」
 彼の家はここから近いんだろうか。たいして気にも留めていなかった彼の容姿を、酔いが抜けてきたのもあって眺めた。
 高架下の暗闇では気付かなかったが、中途半端に伸びた無精髭がトイレの電灯にぼやっと照らされて露わになっていた。Tシャツの首のフチがうねっていて、寝巻き用のくたびれた部屋着で出てきたみたいな格好だった。暗いし雨ってのはあるだろうけど、随分気の抜けた格好で人の視線が注目しそうなことをやってのけるもんだなぁとある意味感心していた。
「あなた、電車乗るんですか?」
 面倒臭そうな視線をよこして、彼が傘を振るう。質問に同意しつつ心の中ではつき合わせてごめんね、と謝っていた。
 全てにおいてどっと疲れを感じていた。身体もそうだけど、惨めでどうにも消え入りたいような気持ちだった。私の弱気に反応してなのか足が竦む。膝がガクガクと情けなく震えだし抑えが効かなくなってくる。
「わぁ、膝ガクガク。久々和式で内ももやられちゃったかなぁ」
「大丈夫ですか。やっぱりトイレでも寒かったんじゃないですか」
 彼は震える膝の方に視線を落とす。
「まぁ、そうかもだけど」
 彼の伏し目を一瞥し、私も自らの膝を眺めてみる。意思とは関係なく微かに振動するさまは薄気味悪く、いつになれば治るんだろうかと見れば見るほど心細くなった。
 ねぇ、と彼に声を掛けるが同時、ふいに彼の肩を抱いてだらんと寄りかかる。彼は背負っているギターと共に、若干よろけた。
「肩かして、立ってらんない……」
 甘えと酔いとを足して二で割ったみたいな不埒な嫌がらせを試みて、力なく笑ってみた。
「ごめん、ね。ちょっと足が落ち着くまで、このまま、でもいいかな……」
 ――無言。肯定も否定もない。
 顔は正面を向いたまま引き攣り、急な接触による不快さが滲んでいる。
 指先にさらに力を入れて肩を掴んだ。膝はまだ情けなく震えていて、浅く息を吐いて彼を流し見た。
「はぁー、もう家に帰るのめんどくさい。体ぐずぐずででろでろだし、歩くの無理かも」
 返事はない。私が吐いたぼやきはただの独り言として雨に紛れていく。先ほどの彼の顔に嫌悪の念が増して歪んでいるようにみえた。薄気味悪い顔をするなぁと思いながらも、微妙な表情の変化が面白くて見入っていた。
「ねぇ。さっきから喋んなくなったねぇ、君。ちょっとくらい返事したら?」
 彼の顔を下からグイっと覗き込んで顔を突き合わせると、やっと目が合う。肩を跳ねさせた彼は、回していた私の手を激しく振り退けた。突き放された私は、勢いあまって前のめりに倒れかけそうになって数歩つんのめるも、咄嗟に両膝に手を突いて身体を支える。
 まだ震え続けている膝の振動が不規則に掌に伝わってきて気色が悪い。彼は眉間に深く皺を寄せ、冷ややかな視線をこちらに向けた。
「正直言ってあなた、臭いんですよ。全身蒸れて酸っぱい異臭がするし、喋るたび、酒臭い息吐きかけてきてどういうつもりですか。自覚ないんですか?」
「……あ、……」
「意味もなく馴れ馴れしい人も生理的に無理なんですよ」
 怒気を咬み殺しつつの静かな口調。軽蔑する眼差しに刺されて私はたじろぐ。
「ごめんね……」弱々しくも潔く、謝罪した。
 返事はないままに彼は傘を差して早足で歩み出す。公園を大股で進み、抜けていく。
「ごめんね……! ごめんね!」
 全身が、ぶるっと情けなく震え、お腹を庇うように両腕を巻きつけた。
 いっそのこと、この土の上にへたり込んでしまいたくなった。水に濡れた身体を、ぬかるみに横たえて、土色に染めてしまおうか。酔狂の極みをやってのけて、奇異の視線を一身に浴びてやろうか。戯言を頭に浮かべている間に、彼はすっかり駅に向かう人々の群れに紛れて見えなくなった。身体がさらに冷えて身震いが強くなり、下腹部がしくしくした。腹痛の波が再来しそうな予感に肌が粟立つ。
 ひと思いにこのまま下着に中身を思うままにぶちまけて、便失禁を体験してみようか。緩過ぎる便は恐らく水みたいで、お尻に張り付くどころか内腿から流れて足に伝っていくような気がする。冷え切った身体を水溶便が伝う生暖かさを想像してみて、笑いが込み上げてきた。
 あてもない思考は止まらない。雨に打たれたまま、ひりつくお腹をさする。
 肩を震わせ一人奇妙な笑いに浸っていると、身体の筋肉が、肛門が弛緩した。腑抜けた音を立ててガスが勢いよく肛門から抜け出るとともに、水溶便が爆ぜる感触がしてヒヤリとするがもう遅い。じとりと生温かい布がお尻に張り付き、そこばかりに神経が集中した。
「……どうやって家に帰るかな」
 真っ暗な曇天を仰ぎ見て、また私は笑った。本当に漏らしちゃったよ、ヤバい奴だな。これじゃうんこ臭くて電車に乗れないや、などと自らの痴態に呆れつつもこの状況を楽しんでいる。
 降り続く雨粒は顔や腕に伝い、身体を洗い流して冷やし続けていた。お尻も下着の汚れも、雨に流れてきれいになるとしたらどんなに便利で楽だろう。
 取り敢えず酒と替えの下着を求めて、変に震え続ける足をもたつかせながらコンビニへ向かった。

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