創作小説 *生活

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 彼女はうすら笑う。右の腹部に手をやって確かめるも、もとあったはずの傷などなくすべてが夢のようだった。
 確かに、自らの手で腹部を包丁で貫き、なみなみと血をほとばしらせながら息絶えたはずだった。弟と母とを憎みながら、どうにもならない世界に嫌気をさしながら、台所で自ら命を絶ったに違いなかった。
 ――まだ生きてたのか、と落胆がにじむ。
次こそはほんとうに死ななければ……。鈍り切った頭でそう思いながら、彼女は冷え切った指先でシンク下のひらきを開ける。馴染みのある一番手前の包丁を抜き取り、両手で握り締めてみるが、不自然に力んだ手が、腕が、肩が戦わななき始めていた。
 腹を刺すくらいでは、刺しどころによっては一命を取り留めてしまうかもしれない。なら動脈を狙って首を掻き切るくらいのほうが確実かもしれないと考えた。だとすれば、よく切れるほうが皮膚も鋭利に切り裂いてくれるだろう。そうだ、包丁を事前に研いだほうがきっといい。彼女は目をほそめ、親しげに包丁を眺めていた。
 抽斗ひきだし抽斗の上段にしまってある砥石といしを取ったのち蛇口からの水にくぐらせ、包丁を砥石に沿わせて小気味よく前後に滑らせていく。手が自動的に動いているような錯覚を覚えるほど、ほとんど意識を向けずとも包丁は研がれていった。
 ――タン。かすかにステンレスの作業台から音が響いた。タン――。タン、タン……。刃を研ぐ摩擦音とは別の、降り出した雨のようなまばらな音が続く。頬をつたい落ちてステンレスを打つ落涙の音が、冷たい空気のなかで響いていた。
 ほんとうは、自分ではなく苦しみの元凶そのものである弟を殺してしまいたかったのに、彼女はそれを選べなかった。悔しさばかり込み上げてくるも、自らが消えてなくなることが彼女にとっての正解に違いなかった。
 憎悪の感情から引きずり出されるようにして、脳裏に暗い記憶が浮き上がってくる。
 それは母が新しい男を作って何日も家を空けて、弟と二人で家にいるのが続いたときだった。
 ふとテーブルにほうり出されていたプリントに目がついた。乱れながらもどこか寂し気に重なる二枚のわら半紙をのぞき込むと、高校からの「進路相談のお知らせ」だった。
 こういった類は本来であれば母が対応すればいいのだが、母がいつ戻ってくるのかはっきりしない場合はどうしたものだろうかと考える。これまでの経験上、数週間もすれば母は戻ってくるはずだったが、この調子だと母は進路相談の面談に出席できないかもしれないとよぎった。
 弟は、どうするつもりだったんだろう。母が戻らなければ、それはそれで仕方がないと面談は一人でのぞむつもりだったのだろうか。
 彼女は、ひとこと相談くらいしてくれてもいいのにと思った。同時に、姉である私を頼ってくれたっていいのに……とも。やったことはないが、母の代わりに姉として面談に付き添うこともできなくもないはずだし、ひとつの方法としてはありだろうと思案が浮かんできた。
 バイトの休みも事情を説明して調整すれば、なんとか都合を付けられるかもしれない……。代案に考えを巡らせながら、弟の部屋のドアを開いていた。
 そこで目に飛び込んできたのは、パソコンのモニターを注視しながらイヤホンで耳を塞いでいる弟の横顔と、スウェットのズボンを半端にずり下げて椅子にかけ、息を殺して一心不乱にペニスをしごいている姿だった。
 思わず目を剝くも静かにドアを閉め、そろっと部屋をあとにした。年頃の男の子だし、性欲処理くらい当たり前のことだろうとはわかっているものの、いざその光景を目にしてしまうと戸惑いと嫌悪の念が頭のなかで膨張していく。なんてものを見てしまったんだ……。なぜ入るときに声を掛けるのを忘れてしまったんだろうと後悔していた。
彼女はぐちゃぐちゃした気持ちを鎮めるためにも、いったん外に出ようと思った。けれど身支度をしている途中、弟が居間へぬるっと姿を見せた。
「なんで、ノックくらいしないの」
 不穏な空気を全身に纏いながら、弟は大股で歩み寄る。
「あ、ごめんごめん。気ぃ付けるって」
「あのさぁ、そのへらへらした態度が気に食わねえんだって」
 何の前触れもなく、弟のこぶしが勢いよく彼女のみぞおちへと放たれていた。鈍痛で短く呻く彼女の腹へ、続けざまに容赦なく蹴りが入れられる。体勢を崩して派手な音を立てて尻もちをつくのを、なじるような目で弟は見下げていた。
「見たんやろ、なあ。姉ちゃん、見たんやろ」
「見たってなんよ。なんも別に見てないって」
「嘘つき、知らん顔すんなや」
 息を吸うたび、体のうちが疼くように軋んだ。蹴られた腹を手でさすりながら、彼女は顔をしかめる。
「やから、なんも見てないよ。扉開けようとしたけど、ちゃんともっかい台所のプリント見てからにしよう思って、部屋んなか見る前に閉めたんやから」
 苦し紛れに吐いた言い逃れだった。平然を装おうとするも心臓は早鐘を打ち、手のひらにいやな汗がにじんでくる。
「いうてもおかしいやん。扉がけっこうな角度で開いたの、俺見たんやわ。見えてないはずないから。てか、なんで外出ようとしてんの? 俺に用事あったのに、なんで逃げようとしてんの?」
 荒々しい物言いに乗って飛沫が飛んでくる。半身をひいて下がろうとすると、すかさず飛びついて覆いかぶさり、弟が這い上るように馬乗りになってきた。
 そして彼女に張り手を食らわせる。頬を打ち鳴らす渇いた音が響き、左頬に突き抜けるような疼痛とうつうが走った。恐怖で、涙が目のうちに溜まっていく。
「……ごめん。姉ちゃんが悪かったよ。もう勝手に部屋入らんから、さ」
「はぁ……。ほんまいい所やったんやで? もうちょいでイクっていうときにさぁ。最悪やわ」
 口元に気色の悪い笑みを浮かべ始めた弟が、あえて顔を近付けるようにしてのぞき込んでくる。
「やからさぁ。姉ちゃんがちゃんと、責任取ってよ」
「なにいうて――」
 手がまた振りかざされようとしたので、咄嗟とっさに両腕で顔を庇った。直後、左腕に鈍い痛みを受け、頭が揺さぶられる。彼女はただきつく目を閉じ、貝のように両腕を堅く閉ざして「こんな悪夢早く終わって」とやみくもに願う。
 舌打ちが聞こえたかと思うと、左腕を乱暴に掴まれていた。腕を剝がしにかかる指がきつく皮膚に食い込み、ぎりぎりとした痛みをともなって骨や肉を締め上げてくる。それでもけっして腕が持ってかれないように、奥歯を強く噛みしめて体を硬直せた。
 拮抗していた二人の腕だったが、左腕がこわばりながらもじわじわと剝がされ始めているのがわかった。いったん力の関係が崩れだすと、密着していた腕はみるみる隙間を広げていく。男女の間に当然のようにある力の差を呪い、落胆しているあいだに両腕とも床に押し広げられ、痛いほど両膝で組み敷かれる。
弟は立ち膝になったまま無言で自らのズボンに手を掛け、下着ごと一気にずりさげ、腫れあがったペニスをしなわせながら露出させた。
「責任、取って。俺をイかせてよ」
 突如腰が突き出されたかと思うと、蒸れたペニスの先が左頬に押し付けられていた。おぞましい感触とともに男性器特有の生々しい臭いが鼻をかすめ、これから行われようとする虐げが現実のものとして迫ってくる。
 拒絶の声を上げながら顔を激しく左右に振ると、溜まった涙が周囲にまき散らされていった。
 腕を抜こうと全身の力を振り絞ってもがくも、のしかかった膝が鋭く食い込むばかりで意味をなさない。体幹をよじろうとも跨った体はびくともしない。彼女は呻きながら、喚きながら、おびただしい涙を溢れさせて無意味に足をバタつかせていた。
 けっきょくのところ、彼女は執拗な暴行を受けた挙句に首を絞められ、意識が朦朧としているなか犯された。弟は侵入をかたくなに拒む渇いたなかへ、力尽くで塊を押し入れ、果てるまで幾度も突いた。
 それから弟は、彼女を思うまま弄ぶようになった。弟はだいたい殴るなり蹴るなりしてあまり動かなくなった姉を犯すのを好んだ。性欲と鬱積を晴らしつつ、愉悦に浸っているかのようだった。
 そんな日々が半年ほど経った頃、もともと不順だった彼女の生理がぴたりと来なくなった。三ヶ月経っても生理が来ないので、いよいよかと思う。初めて弟に襲われたときからこれまでずっと、避妊をしたことがなかった。弟にゴムを着けるという意思はなかったし、途中から避妊しようにも今更のように感じてそのままになっていた。だから、子どもができるのもそもそも時間の問題だった。
 彼女は何の膨らみも持たない薄っぺらなお腹をさすってみる。もし、この体に命が宿っていたとしたら……、殺すしかない。というか、堕ろしに行かずとも、日常的に行われる弟からの暴行で子どもは自然と流れていくような気もした。

 肩を震わせ、彼女は浅く呼吸する。研ぎ終わった包丁をうつろに眺め、刃先の表面がなだらかになっているか確認したが問題はなさそうだった。
 彼女は嫌なことなど、すべて忘れてしまおうと決意する。さあ、ひと思いに首を切って、何もかもなかったことにしようと頸動脈を狙い、刃を右首筋に沿わせた。手はやはり、わなわなと震えだし頼りない。誰か、いっそ殺してくれればいいのにと思いながら、両手で包丁の柄を握り直した。刃先が首に触れ、緊張から背筋が張り詰める。相変わらず震えが止まる気配はない。
「怖い……よ」
 頬をつたう涙が顎へ流れ、落ちていく。泣き腫らした瞼が重く、視界が歪んではっきりとしない。
「でも、ずっと苦しいよ」
 柄を強く握り込んだせいで刃先が皮膚表面に食い込み、瞬間、薄い痛みをともなった。
「頑張らないとね」
 泣きながらも彼女は穏やかに笑い、ゆっくりと息をした。包丁を後ろの位置に構えたのち、手前へ目がけすばやく滑らせる。
 傷口は張り裂けるように痛み、血が首筋を縷々るると流れ落ちていく。それでも思っていたほど深くは切れていないようだった。
 どうしても体は死をためらってしまうな……。彼女はいま一度、ひと思いに死んでやるんだと自らを奮い立たせて、再度、刃を頸動脈に押し付けながら勢いよく包丁をひく。
 先ほどより深く切れているという実感と、気が遠くなりそうな激しい痛みと、傷口から噴き出すように血が溢れてくるのを感じた。
 もっと、確実に死ななければ……。そんな思いが、何度も刃先を首へと向かわせる。
 私は、死ななければ……。
 私は、死ななけれ……。

 ――はたと目を開けると、薄暗い台所に座り込んでいた。フローリングは乾いていて、埃が溜まっているせいか指先がざらついている。彼女は右手で、先ほど切り裂いたはずの首元を撫でてみるものの、なんの変哲もない乾いた肌があるだけだった。
 彼女は溜息をついたが、口元は笑みを湛え始めている。
「ちゃんと、死ねたと思ったのになぁ……」
 おずおずと立ち上がり、シンク下の扉を開いて彼女は包丁入れから使い慣れた包丁をひき抜いた。


 彼女は自分自身の存在を認識できないでいた。
何度も同じように死を希求し、ひたすらに繰り返すことしかできない。
彼女は死してもなお死んでいることがわからず、台所という場所に固定され、死のう死のうと足搔き続けていた。

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