創作小説 *生活
言葉はさんかく(杜崎まさかず様より、プロット交換小説)
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 ミキが不機嫌じゃありませんように――。
 祈りながら襖を開けると、足元の漫画の原稿が一枚、開けた風圧で翻る。妹のミキがかねてより三日三晩、夜通し熱を入れて描いている同人誌の原稿だ。内容は誰が見ても、いわゆる『18禁』とわかるもの。
 足元の原稿では、眼鏡をかけた野暮ったいOLの女性に、どこかの少年漫画で見かけたような童顔のスーツ姿の男性が顔を赤らめて告白している。見た目で何となく男性は女性の後輩なのかと思ったが、告白文句がタメ口だから同期か先輩なのかもしれない。複雑だ。それでも、このページがまだストーリの序盤だとわかる自分が気恥ずかしくなった。
 原稿は畳一面に、液体をこぼしたかのように散らばっていた。インクを乾かそうとして畳に広げているのだろうけど、重なり合って既に他の原稿のインクが染みてしまっているものもある。
 気が回っていない。ミキが不機嫌であることが確定した。
 ミキは襖に背を向けて、元勉強机に埋もれるように漫画を描いている。イヤホンから漏れるノイズが入口からも聞こえるほど、爆音でロックを聴きながら。
 サザエさんのカツオとワカメの部屋そっくりのほのぼのとした和室に、匂い立つような緊迫感が漂っている。いや、ミキが何日も風呂に入っていないせいで空気が濁っているのか。きっと、その両方だろう。
 二十年近く生活を共にしている妹を前に、緊張で体中が張り詰めてくる。
 手に汗が滲んでくる。
 鼓動がうるさくなる。
 気圧されてはいけない。俺はただ、ミキが好きな漫画『ステンレスの錬金術師』の十二巻の発売日が今日であることを伝えに来ただけなのだ。何を怖がることがあるのだろうか。
 畳に散らばる原稿と原稿の僅かな隙間を慎重に縫い歩き、ミキの元へ近付く。そろり、そろり……没頭しているミキを驚かせたら事だ。一度怒りのスイッチを押すと、感情を暴れるままに言葉と行動で放出し続けてしまう。この部屋の襖に後付けの鍵が付いているのも、その名残だ。以前、父がミキの本を借りようと無断で部屋に入って、本棚を漁るだけ漁っているところをミキに見付かり物が飛び交う大喧嘩になった。十割父の過失なのだけど。ミキがバタバタと鍵が付けたのはその時だ。しかし、気が済んだのか、しばらく経つと鍵をかけられることもなくなった。いつも波は収まる。ただ高波なのだ。
 どうにかミキの背後までたどり着くと、ミキの耳元からジャカジャカと鳴る音が、『くるり』というバンドの曲『言葉はさんかく、こころはしかく』だとわかった。俺が随分前にミキに教えた曲だ。そうだ、くるりを教えた時ミキはあんなに笑顔だったじゃないか。子供のように目を輝かせて歌詞カードにかぶり付き、次の新譜は自分の金で買うと言って菓子を我慢し、僅かな小遣いを貯めていたあのミキを思い出すのだ。たった五年くらい前の、ついこの前の話じゃないか。
 大丈夫、大丈夫。俺は意を決して、ミキの肩を叩く。

 ビクッッッッッッ!!!

 ミキは一瞬の過呼吸と共に、俺の手に弾かれるように飛び上がって振り返る。
 そのリアクションに俺も驚き息が止まる。やばい、なぜ背後から迫ってしまったんだ。
 しかしミキの戦慄の表情は、相手が俺だと理解すると、目を上下しつつ見る間に軽蔑のものに変わっていった。
 無反応のまま、ミキは今書いていた原稿に再び取り掛かろうと机に視線を戻す。さっき見かけたOLらしき女性の乳首が、吹き出しを突き破り漫画の枠外まで伸びていた。驚いた拍子に描き途中のペンを思わぬ方向に滑らせてしまったらしい。
 ミキは目を閉じ数秒、ゆっくりと首を傾げる。怒りを押し殺しているのが重苦しく伝わってくる。
 鼻で深い溜め息をつくと、イヤホンを机に叩きつけて、けたたましい音を立てながら筆立てから修正ペンを抜き取る。いや、今のミキの動作は、むしり取る、の方が適切かもしれない。伸び切った乳首を短くしていく修正ペンの筆圧が心なしか強い気がする。ミキの動作ひとつひとつが胃をキリキリと痛めつける。
 第一声、何と声をかけるべきだろうか。執筆の邪魔をしてしまったことをまず謝るべきだろうか。いや、ここで謝れば「さっさと出てって」と一蹴されて本題が切り出せなくなりそうだ。逆に、万が一、万万万が一、ミキが不機嫌じゃなかった場合、気を遣わせてはしまいだろうか……そんなわけない。希望的観測はボヤ騒ぎを山火事規模にまで広げてしまうと相場が決まっている。いやいや、そうじゃないだろ、俺は兄貴だ、プライドを持て。兄貴が妹にとっておきの有益な新刊情報を提供しにわざわざ馳せ参じているのだ。下手に出るな。舐められるな。恐れるな……ちょっと待て、そもそもミキが新刊情報を既に知っていたら……。
 余計な考えばかりが次々と頭で増殖していく。
 頭を振って雑念を散らす。普通でいいんだ、普通で。世間話から入ろう。
 今ミキが描いている原稿内では、乳首の伸びたOLが、本来伸びるはずじゃなかったんだけど、そのOLがいかにもミキが好きそうな漫画の推しキャラそっくりの男性に愛撫らしきことをされている。
 これは夢小説ならぬ、夢漫画なのではないだろうか。
 それを兄貴が軽快にからかえば、ミキも「うるさいなぁ」くらいの軽い返事をしてくれて、このどんよりとした空間にも多少の遊びが生まれるのでは。
 投げるボールが決まった。平静に、平静に言うのだ。

「そんなに、欲求不満なの?」

 ――沈黙。部屋には、ミキが修正ペンを淡々と滑らせる微かな音と、外されたたままイヤホンから流れるくるりだけが響く。『ホームラン』という曲に変わっていた。
 いや、大暴投である。
 ミキの機嫌を素直に考えればわかることじゃないか。違う、考えたからいけなかったんだ。
 しかし、一度抜いてしまった刀を鞘に戻すわけにはいかない。兄貴が小粋なジョークでミキの緊張感を緩めようとした、その体を保たねば。俺が妹相手に怯えていることを悟られてはいけないのだ。そんなことがミキに伝わったら、今後の兄貴の威厳に関わる一大事である。
 テンションを変えるな。語調を変えるな。自然な流れで、新刊の話題を切り出すのだ。
「まあ、欲求不満を解消できる相手なんてミキにはできないだろうけどな。そういや漫画といやあさ」
「関係ないだろあんたには!」
 ミキの咆哮と共にイヤホンが弾丸のように飛んでくる。その勢いに引っ張られ、イヤホンを繋いでいたスマホが無様に畳に投げ出される。
 ミキの眼が血走っている。鼻息が荒い。
 怯むな。大きい声を出されただけだ。普通に、会話を、すれば、いいのだ。
「だってエロい画ばっかり描いてるから。ムラついてんのかと思って」
「あんたの頭がドエロ全開だからこんな画ぐらいでいちいち反応してるんだろうが」
「は?」
 想定外の渇いた声が漏れてしまう。
 なんで素人の書いた落書きに反応するほどの猿ガキだと言われなきゃいけないのだ。性器が描いてありゃなんでもいいと思われてんのか。◎に縦線引きゃあ勃つとでも思ってんのか。馬鹿にするな。
 思えば思うほど心を逆撫でられる。頭の中で焦りを怒りがじわじわと侵食していくのがわかった時には、言葉は吐き出されていた。
 俺は兄貴だ。
「反応するわけねえだろ、お前の夢漫画で。お前の汚ねえ裸見てるみたいで吐き気するわ。誰に汚されたわけでもねえのに汚ねえお前の裸」
「きも。他人ひとのこと言えんの? 仕事帰ってきた汗臭い服のまんまダニの巣窟みたいな布団に潜るアンタの方がよっぽど汚いでしょ。そんで朝寝坊してシャワーも浴びないまま出勤してさ。百パー会社で家無しとか噂んなってるよ。私ならアンタみたいに体からも口からも悪臭放ってる奴が職場にいたら、てかアンタが職場にいたら、速攻会社辞めるけど。もう何人か辞めてんじゃない? いるだけで周りに気い遣わせて荒ませて。マジで害悪」
「働いてねえお前に言われたくねえよ!」
 返す刀で声を荒げ、畳の上の原稿を蹴り上げてしまう。頭の中をぐちゃぐちゃとかき混ぜ続けるミキの言葉が、全て無意味だとわかっているのだ。わかっているのに、頭に上った血が下がらない。
 ミキは蹴られた原稿を一瞥しただけで言葉を止めない。
「ていうかなんで汚いとかわかるの? 風呂でも覗いてるわけ? きも、口にしなきゃよかった」
「何日も風呂入ってないだろ、妄想口走んのも大概にしろ! 臭いんだよ、部屋中が」
 言い終わって自分が肩で息をしていることに気付く。臭いのことがこたえたのか、ミキは黙って一度だけ鼻をスンっと鳴らすと、蹴られた原稿を涙目で拾う。
 言い過ぎた、のかもしれない。ミキの不機嫌にまともに返し過ぎた。
 しかし、ミキのこの傷はいずれ兄貴の威厳に変わるかもしれない。だって、ミキが風呂に入っていないのは事実なのだから。俺は悪くない、きっと。俺は兄貴だ。
「シャワーくらい浴びろよな」と鼻で笑ったのは、冷静にこの話題をこれで区切ろうとしたからだ。
 でも――ビタン。ミキからの返事は、痛烈な平手打ちだった。
 ミキは俺の頬に触れたその手を、自分のシャツに何度も擦り付けながら続けた。時々声をうわずらせながら放つ言葉は、さっきより語気が強まっている。
「臭いのわかってて入ってくるとか、妹の臭いに逆にそそるとかきもい趣味あんの? 〆切り間近なんだから邪魔ばっかしないでよ」
 言葉は末尾に近付くにつれ金切り声に変わっていった。それが、イヤホンから依然漏れ続けるくるりの音に重なり、ミキがヒステリックに歌っているように見えた。
 平手打ちを食らって、頭が冷えたのかもしれない。だから、今ならはっきりとわかる。〆切りだ。そうだ、ミキは漫画の〆切りに追われているから、実の兄貴に暴言を吐き、実の兄貴に暴力を振るったのだ。
 すべての元凶はこの漫画だ。
 ミキはエロ漫画に狂わされたのだ。
 くるりを教えた時はあんなにも無邪気な笑顔を俺に向けていた。
 純粋に音楽を喜ぶミキを漫画が侵食してしまっていることを教えなければならない。
 俺は兄貴だ。
 俺は兄貴だ。
 俺は兄貴だ。
「何すんだよ、やめろよ!」
 ミキが俺の腕にしがみ付きながら絶叫している。
 気付けば、足元の原稿を蹴散らし、掴み、潰し、丸め、投げていた。我に返って呆然とする。
「これ仕上げるのに何時間かかると思ってんの」
 ミキは涙を流しながら、這いつくばって原稿をかき集めている。その姿は慈愛のようにも、憐みのようにも、落胆のようにも感じられた。
 ミキの背中を眺めながら立ち尽くす。ただただ、空っぽになった自分の心に、目に映る惨状が通り抜けていく。虚しさだけが、沁みていく。
 突然顔を上げたミキの眼には、殺意が籠っていた。
 瞬間、飛びつくように俺に体当たりをする。部屋の外に押し倒されると、ミキは間髪入れずに尻もちをつく俺の股間目がけて、踏み抜いた。
 下腹部の猛烈な鈍痛が、声にならない悲鳴を押し出す。股間を攻撃された時、股間自体の痛みは大したことないのだ。激痛が走るのは下腹部。腸の中心あたりに頭大の溶岩がめり込み、鈍く燃え上がり続ける。そんな何年も前の痛みの記憶を、悶絶とともに思い出した。
 浅い呼吸で腹を抱える俺に、ティッシュ箱を力任せに投げ付ける。その追い打ちは、俺の頭にぽかんと当たって落ちた。
「勝手に部屋に入って来られて、漫画馬鹿にされて、臭いって言われて……なんなの。こんなことしに来る暇あったら、一人でシコって溜まった精子でもそれに出せば?」
「だから別に反応してない――」
 俺の言葉途中で、ミキは荒々しく襖を閉じる。そして、鋭い音を鳴らして鍵を閉めた。
「漫画完成したら、風呂でもなんでもいくらでも入るから、お願いだから、放っておいてよ!」
 ミキが怒鳴ると、部屋の中から騒々しい物音が聞こえて、すぐに静かになった。
 数分前の、部屋に入る時の静けさに戻った。しかし、入る時と出る時では、静寂は一時の粗暴な感情を通過して、別の意味を成していた。空しい。痛い。空しい。
 脂汗を拭えるほどの余裕が出てきた頃、目の前に、体と一緒に部屋の外へと吹き出された原稿の切れ端が見えた。
 『12』とナンバリングがされている。十二ページ目、ということだろう。
 そうだよ。俺はただ、『ステンレスの錬金術師』の十二巻の発売日が今日だという、簡単なひと言を伝えに来ただけなんだよ。
 それなのに、どうしてこうも上手くいかないんだろう。いつも、いつも。
 ミキが不機嫌だからか。違う。漫画がミキを狂わせているからか。違う。勝手に部屋に入ったからか。違う。
 本当は、その理由を随分前からわかっているはずだろ。
 俺の、兄貴としての腐りきった虚栄のせいだろ。
 ミキを同じ目に遭わせてしまう度、何度も何度も、自分に問いかけてきたはずなのだ。どうして、そんなハリボテの兄貴像を保っているのか、と。迷惑をかけてまでミキの優位に立つための兄貴像ならば、今すぐに捨ててしまえ、と。
 でも、どうしてもダメなのだ。
 それを捨ててしまったら、妹にとっての兄貴である価値なんて全部なくなってしまいそうで。
「クソ!」
 うずくまったまま、ちっぽけな自分にがなる。
「クソはお前だろうが、このカス!」
 ミキの涙混じりの怒声とともに、襖に何かが強く投げ付けられる。当たった拍子に、バラバラと硬い何かがこぼれる音がする。もしかしたら、筆立てかもしれない。
 今のミキにとってペンは体同然だろう。それを怒りに任せて投げさせてしまった。今になったら、これがどれだけ無神経なことなのだとわかるのに。
 自分をどんどん嫌いになっていく。自分の価値をどんどん見失う。
 
 震える手でポケットからスマホを取り出して、音楽アプリからくるりを探し出す。
 『言葉はさんかく、こころはしかく』を自分にだけ聴こえる音量で流す。
 スピーカーを耳元に押し当てて、目を瞑り、耳を澄ます。

「うわあ、めっちゃいい。マジで今年イチかもしんない……お兄ちゃん、この曲どこで見付けたの?」

 あの頃のミキの声が聴こえてくる。
 屈託のない笑顔を、好奇心で輝く目を、兄貴である俺だけに向けている。

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