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みょうじなまえは、生まれて初めて死を予感した。

数秒前までの自分は、今日の夕飯のことだとか、駅前に新しくできたカフェにはいつ行こうだとか、未来で自分が生きていることが当たり前であると信じて疑わなかったというのに。

目の前にいる化け物と目が合うなまえ。
あまりにも非現実的なソレを前にして、目をパチパチさせる。
これ、現実なの?

化け物が歩くとズシィン、と地面が一瞬揺れて、気が遠くなる。
夢だと信じたいあまり、なまえは化け物を甲殻類かもしれないと思った。
皮を剥いたらプリッとした食感かもしれない。
もはや正気の沙汰ではない。




ーーーーー逃げなきゃ。


分かっている。
逃げなければいけない。
じゃなきゃ私は確実に襲われて死んでしまう。

しかしなまえの体は恐怖で動かない。
なまえは知らないうちに腰を抜かしてしまっていたのだ。

助けて!
そう叫びたくても声が出ない。
代わりに聞こえるのはなまえの歯がかち合ってガチガチと震える音だった。

辺りを見回しても誰もいない。
助けは来ない。
ああ、私、ここで死ぬんだ。

こんなに早く死ぬんだったらもっと美味しいものを食べておくんだった!
サクサクなマカロン!とろっと卵のオムライス!行列のできるラーメン!脂身が柔かくて口のとろける角煮!
ついでにこの間気に入って買った服はまだ着ていないし、彼氏も出来ずじまいだ!
お父さん、お母さん。
高校生のうちに死ぬなんて、親不孝な娘でごめんなさい。来世でも2人の娘として生まれたらきっと長生きするからーーー


化け物が腕を振り上げる。
なまえはギュッと目を閉じた。









みょうじなまえはごく普通の女子高生だ。

朝起きて、学校へ行って、授業を受けて、時々ご褒美として友達とカフェに寄り道をして帰って。

特別なことは何もない。
そう、何もない、のだけれども。

なまえの日常の中でもひとつだけ普通と違うことがある。
それはクラスメイトの出水と米屋だ。
彼らはボーダー隊員で、三門市内の平和を守っている。
そのため学校へ来ない日もあるし、来ても早退したりすることも少なくはない。
大変な業務であるはずなのに彼らの教室から出て行く姿はやけに軽快な気がするから、本当に、本当に申し訳ないのだけれど、平和を守られているという実感がなまえにはあまり無かった。






「ーーーせんせー、俺そろそろ行きます」

教師の解説がひと段落ついたところで挙手をし、そう宣言した出水にクラス中が注目する。
しかししょっちゅう早退をするボーダー隊員には全員慣れっこである。
出水がカバンに教科書を詰めるのに一旦視線を置いたが、すぐにシャーペンを走らせることを再開させる。
教師もコクリと頷き、何事もなかったかのように黒板に文字を書き始めた。

「しっかり頑張ってこいよ弾バカ」
「うるせえ弾バカ言うな」

今日は防衛任務が無い米屋は教室を出て行こうとする出水を茶化した。
そんな米屋も授業が終われば結局は本部へ直行する予定だ。
戦闘バカを直すつもりは毛頭無い米屋である。



親しげに米屋と会話をし、教室を出て行く出水を見てなまえは首を傾げた。

……た、弾バカ?弾バカって?

ボーダーに関することは基本的には内密だ。
なまえのような一般人には、嵐山隊の広報活動、所謂クリーンなイメージが植え付けられている。
ボーダーに対して綺麗なイメージしかないなまえには、「弾バカ」という少し物騒な単語と出水を結び付けることは難しかった。

しかし米屋と出水と対して接点のないなまえに、その意味を訊こうとする勇気も、知ろうとする往生さも無い。

出水の知らないうちになまえの中で出水が意外と恐ろしい人物かもしれないと警戒レベルが上がっただけであった。米屋のせいで。



「りっちゃん、カップケーキ!カップケーキ!」
「はいはいうるさい。準備するから待ってなさいよ」
「はやくしないと売り切れちゃうよ〜〜!」

全ての授業が終わり、カバンを持ったなまえは早々に友人である莉乃の席へ向かった。
今日はずっと前から気になっていたカップケーキの専門店へ行く約束だった。

2週間前も前からこの日を心待ちにしていたのだ。
分かりやすく楽しみ!と表現されているなまえの溢れるような笑みに、莉乃は釣られて笑う。
なまえは食べることが何よりも好きなのだ。


「じゃあ行こうか」
「うん!」

「みょうじさん!」


突然名前を呼ばれ、なまえは驚いたように振り返る。
声の主はクラスメイトの中島だった。少し頬が赤いのは気のせいだろうか。熱なら早く帰ったほうがいい。



「中島くん…?どうしたの?」

はっきり言って急いでいるなまえは要件を尋ねた。
何せ今日はとても楽しみにしていたーーー

「今日、一緒に帰らない?」
「え?」

予想外の申し込みだ。
なまえは中島と殆ど話したことがなかった。
それなのになぜ突然一緒に帰る事に繋がるのか。
頭にはてなマークを浮かべるなまえ。

そんななまえと違い、一瞬で事態を把握するのは隣で一部始終を見ていた莉乃である。
中島の赤い顔、突然の一緒に帰ろう宣言、そういえばなまえと一緒にいるときはコイツからの視線を感じていることが度々あった。
中島がなまえに気があることは間違いなかった。
そうと決まればやることは1つである。

「なまえ、カップケーキは明日にしよう」
「えっ!?!?りっちゃん!?」

じゃあ、と言って足早に立ち去る莉乃。
なまえは涙目だった。






「俺、みょうじさんのことがずっと好きだったんだ。付き合ってほしい。」

中島からの衝撃の一言は、なまえの頭からカップケーキのことを忘れさせるには充分であった。
そして、ここがボーダーの指定した警戒区域に近すぎるいうことも。



莉乃が先に帰ってしまい、約束も明日に回されてしまったなまえは中島と帰る事になった。

……は、話したことないのに、どうしよう。

普通に話すぶんには問題がないのだが、2人きりで、何故か緊張した雰囲気の中島は話しかけづらい。
しかし最初こそ困惑したものの中島はとても良い人だった。

歩くペースを合わせ、なまえの話しやすい話題を振ってくれる。
主に食べ物のことだ。

食べ物の話をしていたらお腹が鳴って恥ずかしい思いをしたらチョコレートをくれた。
しかもなまえのハマっているものだ。

「ありがとう」と万年の笑みでお礼を言うと中島は手の甲で口を隠し、そっぽを向いた。
……何か気を悪くすることを言ってしまっただろうか。
「どういたしまして」と返してくれたものの、その声は小さかった。

沢山話したいから遠回りをしようと言ったのは中島だった。
なまえはそれを受け入れた。
だけど、さすがに遠回りし過ぎじゃないだろうか。
そう思ったのは、警戒区域の看板が視界に入り込んだときだった。
CMで赤い隊服を身に纏った爽やかな男性が警戒区域には決して近寄らないように、と注意喚起しているのは何十回も見ている。


「あの、中島くん。どこまで行くの?」
「…ごめん。人気のない場所に来たかったんだ」


ーーー君に言いたいことがあって。




呆然とするなまえ。
まさか、何の接点もなかった中島から告白されるとは思ってもみなかった。

びっくりして固まるなまえに中島は苦笑いをし、「返事は今度でいいから」と言った。
それに何と返したかは覚えていない。
気が付いたら中島はいなくなっていた。
頭の整理がつかないなまえに気を遣って今日はここで解散しようと言っていたような気もする。
全てが曖昧だ。

人から好意を持たれるということは有難いことだ。
それと同時に、応えるには責任を持って応えなければない。
本当に困った。
適当な返事をしてはいけない。
真剣に考えなければ。


どれくらい時間が経ったのかはわからない。
どれだけ考えても答えが出ず、とりあえず帰ろうとしたとき、背後から聞き慣れない"ジジ…"という音がした。

嫌な予感がした。