彼の名は――



「お目覚めのようね」

 アズサの声につられて鬼王へ目を向ける。
 ぼんやりとしていた鬼王が意識を戻して顔を上げると周囲を見渡し、私を視界に映す。

「……にん、げんッ……!?」

 カッと目を見開いて動こうとするが、ヒイラギの拘束のせいで満足に動けず倒れる。

「ヒイラギ、ありがとう。もういいから」

 お礼を言いながら拘束を解くように言えば、ヒイラギは眉をひそめて溜息混じりで鎖付きの大鎌を消す。
 拘束が解けたことに気付いて、鬼王が金棒に手を伸ばす――が。

「落ち着きなさい=v

 アズサの【言霊】で、体から力が抜けたように敵意が消える。

 チラッと鬼神に目を向けるアズサ。視線の意味に気付いた鬼神は神妙な面持ちで頷き、鬼王へ歩み寄る。

「鬼王、体に不具合はないか」
「……鬼神、さま?」

 鬼王は呆然と鬼神を見上げる。ずっと同じ体勢で、ぽかんとしている。そして鬼王は、ハッと我に返ると体を起こして片膝をついて拳を地面につけた。

 頭を下げ、うやうやしく口上を唱えようとする鬼王。
 しかし、鬼神がそれを止める。

「楽にしろ。今の其方は堕天から解放されたばかりだ」
「……は」

 また、ぽかんと口を開けて鬼神を見上げる。

「……堕天、から…………あ……?」

 鬼神に言われて気付いたようで、鬼王は自分の胸に手を当てて確かめる。
 目を閉じて自身の魔力を感じ取った鬼王は、顔を上げて鬼神を見上げる。

「鬼神様が……救ってくだされた……?」
「いや、違う。あの人間が其方を救ったのだ」
「……は?」

 信じられないという声を上げる鬼王が、私を見遣る。
 思わず苦笑してしまった私は、そういえば彼は神力を取り込んだのだと思い出した。
 つい《鑑定》してみると、種族が【鬼帝】、位階が【帝位】に変わっていた。

「ねえ、鬼神。彼、種族が鬼帝で、帝位になってる。神気を取り込んだ影響かも」
「……そうか。なるほど、確かに相応の力を感じる。なら、今後は任せられるか」

 ……早いとこ帰ろう。なんだか嫌な予感がする。

「ヒイラギ、アズサ。帰るよ」
「待て。まだ礼をしていない」

 律儀りちぎにお礼をしようとしている鬼神。
 最上位の精霊なのに人間っぽい言葉に、小さく笑ってしまった。

「言ったでしょう。私は自己満足で救いたかっただけだって。お礼は言葉だけで充分」

 心からの言葉に鬼神は目を瞠って、そして力無く笑った。
 これで一件落着。そう思ったが……。

「やはり其方と契約したい。いいだろうか?」
「……は?」

 鬼神の唐突な発言に、この場にいる全員が声を上げた。
 私とアズサは驚き、ヒイラギは剣呑けんのん、鬼王……鬼帝は頓狂とんきょうな声だ。
 三者三様ならぬ四者三様の反応。ぽかんとした私は、戸惑いながら訊ねる。

「え、ど、どうして?」
「我が其方を気に入ったからだ」

 どうしてこうなった。気に入ったから契約したいって……本当に最上位精霊なの?

「き、鬼神様!? いったい何故そのような世迷よまごとを……!」
「彼女は其方を救った。それは間違いない。それに我は、彼女の在り方がこのましい。この先の彼女を見届けたくなったのだよ」

 鬼帝の反応は当然のものだ。なのに、彼の忠義を裏切るようなことを言った。
 いくらなんでも、これは看過かんかできない。

「私は脆弱な人間だよ」
「脆弱な人間が、我と互角に渡り合った末に勝つのか?」
「でも、人間に従うと、貴方をしたう彼らの忠誠を否定することになる」

 鬼神は、鬼達の心の支えだと私は感じている。
 主柱となっている至高の存在が人間に降るなんて、彼らに失望されてしまう。

 鬼神の同胞の心をおもんばかる私に、鬼神はおかしそうに笑った。

「我の後釜あとがまに鬼王……いや、鬼帝がいる。この者は最も信頼できる配下だ」

 何を言っても曲げない。でも、私の秘密を告げたらどうなるのだろう。
 失望するのか、私を見下すのか。

 ……ああ、そうか。それなら話す方がいい。

「私は前世で自殺した。私を追い詰める奴等を社会的に落とすためだったけど、生きることから逃げたことに変わりない。……柊≠ニ梓≠フ想いすら、無下にしたんだ」

 醜い私を知れ。そして、遠ざかって。

 私は、これを知っても変わらない心を向けてくれる人じゃないと受け入れられない。
 拳を握り締めて前世の自分を告白すると、鬼神は目を瞠った。

 これでいい。これで、離れてくれる。
 ……そう思って、いたのに。

「なら、何故その者達は其方を変わらず慕っている? 其方が何よりも大切なのだろう」

 思わぬ返し言葉に、今度は私が瞠目する。

「それに其方は、その者達の想いを理解して、変わらず傍に置いている。違うか?」
「……違わない。二人は私の愛しい、大切な家族だから」
「なら、問題ない。我はそんな其方だからこそ気に入ったのだ」

 今度こそ、私は息を呑んで何も言えなくなった。
 軽蔑される話なのに、それを知ってもなお私を受け入れてくれた。
 他人なのに、理解してくれた。

 どうしよう。凄く嬉しくて、目の奥が熱くなってきた。

「……そういうことなら、鬼神様。私は貴方の意思を尊重そんちょうします」
「すまないな」

 鬼帝まで受け入れて、後押しした。
 他人に受け入れられ、理解される。それがどれだけ奇跡的なのか、少しだけ分かった気がする。
 無性に鬼神の思いを受け入れたくなったけど、二人は許してくれるだろうか。

「……仕方ないな」
「ですね……」

 溜息混じりで呟いたヒイラギと、苦笑するアズサ。

「チハル、今の奴なら大丈夫だ」
「……いいの?」
「ああ。家族にしてやってもいい」

 上から目線だけど、私の思いを尊重してくれたヒイラギの言葉。
 アズサを見ると、彼女も微笑んで頷いてくれた。

 二人にも後押ししてくれた。なら、私も鬼神を受け入れよう。

「……分かった。契約しましょう。ただし【式神契約】だから」
「噂で聞いた程度だが、複数の精霊と契約できる……だったな」

 どこからそんな情報を手に入れたのか。他に知っている精霊や人間がいたら大問題だ。

「どこでそれを知ったの」
「精霊界に住む猫神からだ。奴もどこで知ったのか不明だが……」

 猫神と聞いて、なんだか引っかかった。
 もやもやした違和感を覚えるが、それ以上の情報は引き出せそうにないので断念する。

「正確には、動物や神聖な存在も含めてね。この世界での契約は魔力のみで成立する。でも、この【式神契約】は【式神】として契約者に降ることで、術者の能力の影響も受けるの。もちろん、私も神力や能力の影響を受ける。普通の契約よりメリットが大きいよ」

 説明すると、鬼神は驚き顔になった。
 噂で私の能力を知り、従えようとしたのだろうけど、性能までは知らなかったようだ。

「契約の仕方は名前を付けることと、血判けつばんを額につけること。あとは契約を受け入れる言葉を交わすだけ」

 手順を教えて、鬼神の名前を考える。
 私達は植物の名前を付けているから……。

「――エンジュ。私の前世の故郷こきょうでは、槐は神聖な樹木、幸福の木とされているの。文字の一部には鬼≠フ文字があるから、貴方にぴったりだよ」

 鬼神の名前を決めれば、鬼神は軽く目を見張り、笑みを浮かべた。

「いい名だ」
「じゃあ、決まりね」

 気に入ってくれて安心した私は、【宝物庫】から出したナイフで右手の親指を切る。
 ちゃんと血が出ていることを確認して、鬼神に手渡して切ってもらう。
 そして、片膝をついて目線を合わせた鬼神の額に血を付け、私の額に鬼神の血を付けてもらう。

 さあ、始めよう。居住まいを正し、静かな、真剣な眼差しで鬼神を見据える。


「我が名はチハル・サカキ。汝、エンジュを我が眷属に降す」
「我が名はエンジュ。契約主、チハル・サカキの眷属に降る」

「式神契約、ここに完了とする」


 私の言葉に合わせておごそかに唱え、そして言葉を締め括れば、額についた血が消える。

 これで契約は果たされ、鬼神改め『エンジュ』となった。
 家族なのだから誓約は不要。それに、彼は私を裏切らない。漠然ばくぜんとだが、そんな気がするのだ。

「これで終わり。私と契約して、エンジュに与えられた恩恵は……ヒイラギと同じか。言語理解、幸運補正、神宝召喚、浄化能力、宝物庫。……あ。それと、式神は普通の契約と違って精霊界にいつでも還れるから、基本的に自由だよ」

《鑑定魔法》で確かめて教え、言い忘れたことも付け加える。

「ほう……いいこと尽くしか。通常の契約とは大違いだ」
「契約者はちょっと大変だけどね。それに、普通の契約なら精霊界へ戻れないけど、式神ならずっと人間界にいなくてもいい。つまり、貴方の同胞にいつでも会えるってこと」

 チラッと鬼帝へ目を向ければ彼は目を丸くし、口を引き結んで目を伏せて目礼した。
 二度と会えなくなると思っていたのか、喜びを噛み締めているようだ。

 これで一件落着かな。

「それじゃあ、まずはこちら側≠フ家に帰りましょうか。その次に我が家≠ヒ」

 どういう意味なのか知らないエンジュと鬼帝は不思議そうな表情だ。
 少し面白くて小さく笑って、人間界の仮住まいに《転移》した。



 こうして、私に新たな家族が加わった。
 これからどんな未来へ進むのか誰にも分らない。

 でも、退屈はしなさそうだ。むしろ楽しくなるだろうと確信を持った。