序章


 カタカタと白いノートパソコンのキーボードを指先で叩き、文字を入力する。
 少し手を休ませたり、文字を消したりして文章を整えていく。

 私の趣味は小説を書くこと。
 文才は平凡だけど設定を考えるだけでもワクワクするし、独自の舞台で登場人物を動かすのも楽しい。
 毎日数時間もかけて色々な作品を同時進行しているけど、一度も作品の内容が狂ったことはない。
 自分の脳なのに、自分の思考回路なのに、不思議になるくらい分けられている。
 一種の才能かな? なんて思いつつ、今日のことを振り返った。

 私はいわゆるニートだけど、ニートってわけでもない。
 ニートは無職で家事をしない人のことだ。
 でも、私は家事をちゃんとしているし、病院の施設に通いながら社会復帰の下準備をしている。
 幼い頃の精神的な病気の所為で不登校になったり、家庭の事情で高校を中退せざる終えなかったりしたから、私の人生は狂いに狂ってしまった。
 それでも現在いまを足掻いているし、こうして趣味を続けるくらい回復した。

 けれど、最近は眠気が酷い。不眠症があるけど、今は安定している。だけど、ちゃんと眠れた日でも睡魔すいまに襲われて、思考が働かなくなってしまう。睡眠障害ナルコレプシーではないけど、少し怖い。
 眠ることはいいんだけど、夢の所為で無駄に疲れることが多いのだ。
 幼い頃から夢見が酷いから、眠りから覚めてもすっきりしないし鬱々としてしまう。夢を見ても忘れられるという体験してみたいけど、無理だろうしなぁ……。

「ふぁ……」

 また大きな欠伸が出てしまった。
 このまま執筆を続けると失敗する確率が高い。今日は早めに眠って、明日に備えよう。

 明日の予定を立てながらノートパソコンを片付けて、ベッドに入って布団を被った。
 いつもならしばらくしないと眠りに落ちないけど、今日の眠気は酷いくらい強いから、あっという間に意識は闇の中へ落ちた。



 人間は夢を見ても、目覚めると忘れるようにできている。
 けれど、私は違う。幼い頃から、夢を見る間であるレム睡眠中に意識が覚醒してしまう。

 レム睡眠とは、眠っている間に意識が覚醒する頃であり、目が覚めるタイミングが近いことを意味する。逆にぐっすり眠っている頃はノンレム睡眠と言う。

 このレム睡眠の間は誰でも夢を見てしまう。
 私は人一倍、その間に見る夢の内容を覚えているのだ。

 けれど、今回のレム睡眠は可笑おかしい。
 いつも現実的だけれど非現実な夢なのに、意識が覚醒したまま暗闇の中を漂っている。
 何もない混沌とした暗闇の海は恐ろしく、心が押し潰されそうなくらい寒い。

 光も音もない海の中を浮かんでいる私は、人の形をしていない。
 自分自身の健康肌に覆われた両手を見ようとしても、そこに手というものはない。

 そもそも人間の肉体というものがないのだ。
 当然のように、目もなく、耳もなく、口もない。
 だというのに思考できる。脳も何もかもがないのに、私という自我が保たれている。
 この世界を捉えているのは脳波に似たものだろうと考える。
 それにしても、今の私は目を閉じている状態なのに、どうして暗闇だと認識しているのか。
 肉体ではなく精神だけで存在しているのに……。


 ――否。それは違うかもしれない。


 この世の生物は魂魄という電池を肉体に入れることによって精神が形成される。
 誰もが魂は脳に宿ると思っている。それに伴って、人格が形成されると。
 でも、それだけでは人格は生まれない。

 こんは肉体や精神が蓄積した情報を記録するものであり、はくは肉体を動かす電池である。
 つまり、魂は人格の根源の根幹であり、魄は精神を形成するものである。

 精神があるから人格が生まれるのではなく、肉体があるから人格が生まれ、精神が出来上がる。

 赤ん坊は母胎ぼたいにいる頃から自我がある。でなければ胎教たいきょうという言葉は存在しない。
 だから肉体が感じ取ったものによって人格ができて精神こころができるのだと、私は考えている。


 なら、今の私は人格を宿した魂なのか。
 だとしたら、この何も感じない感覚に名前を付けられる。

 この感覚は「死」――虚無だ。
 死には、感覚が、時間がない。
 それなのに感じ取ってしまうのは、人格を保ったままだからだろう。


 ――そういえば、虚無は根源の大元おおもと、世界の究極の知識と誰かが言っていたな。
 私は、そうではないと感じている。


 私が考える世界の根源は――「欠陥」だ。
 全ての始まりは虚無だが、何らかの欠陥バグが生じなければ生と死の概念がいねんが生まれない。
 生と死の概念が生まれたからこそ、宇宙という空間ができ、星が、魂が生み出され、循環して、進退を繰り返す。
 誰もが虚無を意識しない。意識した時点で、それはもう虚無ではなくなるからだ。
 虚無にはカタチがない。虚無を認識した時点で『理解』というカタチができてしまう。
 世界の根源は、このように意識された認識できる欠陥品の虚無なのだと、なんとなく思った。


 ――称号【根源の観測者】を取得しました――
 ――ギフト《知識獲得リーディング》を取得しました――



 ……は?

 突然、ピン!という音のような感覚を覚えたと思ったら、思考の中に文字が浮かんだ。
 まるでゲームのシステムのようだと思っていると、急に光を感じた。
 ずっと暗闇にいたからまぶしく感じて、思わずまぶたを閉じた。

 ……ん? あれ? 肉体がないはずなのに、どうして瞼があるの?
 疑問が浮かび上がるけれど、少しずつ光に慣れて目を開ける。

 眼前に広がっているのは、雲一つない見渡す限りの空。蒼穹そうきゅうと表現しても過言ではないほど美しくて綺麗だ。オゾン層が破壊されていない空って、きっとこんな感じだったに違いない。

「成功したようですね」
「ああ。しかも面白い組み合わせだ」

 突然聞こえた声に驚き、意識が覚醒した。
 重く感じる体をゆっくりと起こして辺りを見渡せば、そこは西洋の神殿のようだった。純白の石柱がいくつもあるけれど、天井は存在しない。
 奥へ目を向ければ玉座らしきものがあり、一人の男性が座り、一人の女性がかたわらに立っていた。

 男性は、一つに束ねた金髪に瑠璃色るりいろの瞳が特徴的な、神々しい美丈夫。

 女性は、膝下まで伸ばした銀髪に紫色の瞳が特徴的な、神々しい美女。

 どちらも神話の神々が着るような純白の衣服を身にまとっているけれど、まさか……。

「ようこそ、異界の魂よ。我が名はディオン。我が世界エルピスカイノスの創造神だ」
「私はエリーゼ。ディオン様に仕える女神よ」

 ……マジか。えっと、私も名乗らないと……あれ?

「私は……何だっけ……」

 名前が思い出せない。
 別にショックを感じていないことから、それほど大切というほどではないのだろう。
 なら、新しい名前を付けよう。執筆している小説の主人公から取ろうかな。

「じゃあ……シーナ。これからの私の名前です」

 確か『神の恩恵』『神の慈悲』という由来が込められているゲール語の人名だ。
 ちなみに名前の響きから和名に書き換えられるから一番気に入っている。
 新たな名前を告げると二人の神様は目を丸くして、そして興味深そうに私を見つめる。

「ほう、その名を自らに付けるか」
「……駄目でした?」
「いや。丁度いいと思っただけだ」

 丁度いい? ……どういうこと?
 首を傾げる私に、「解らなくてもいい」と言われた。

「それより、新しい肉体はどうだ」
「え? ……あれっ?」

 言われて気付く。私の肉体が本来のものと違うことに。

 華奢な手足に白皙の美肌。引き締まった腹部とくびれ。胸部は本来より豊満だけど、気持ち悪く感じない形。美しい体躯たいくを包み込む白いワンピースの袖と丈は、手の甲、膝下まで長い。
 そして、本来は背中まであったはずの黒髪は、腰下まで伸びている。しかも繊細な美髪で、からす濡羽色ぬればいろとも形容できる艶がある。

 頬に触れるけれど、それだけでは顔の造形が判らない。そんな私にエリーゼという女神様が、どこからともなく鏡を出し、私に向ける。
 大きな鏡に映る十五歳ぐらいの少女は、息を呑むほど美しい。しかも、長い睫毛まつげに縁取られた瞳は、左右で違っていた。

 右眼は、南国の夕暮れ時の空を切り取ったような瑠璃色。

 左眼は、純度が高いアメジストよりもまじり気のない紫色。

 どちらも透明感があるガラス玉のように澄んでいて、とても綺麗。
 流麗りゅうれい輪郭りんかくの小顔にぴったりの、細く整った眉に、筋の通った小さめの鼻に、瑞々しいチェリーピンクの唇。
 私の理想とも言える美貌に目を見開いてしまっていると、ディオン様が微笑した。

「気に入ったようだな」
「……はい。ありがとうございます」

 深く頭を下げて感謝の気持ちを伝えて、気だるさが抜けた体に力を込めて立ち上がった。
 そこで、ふと思う。どうして私はここに呼ばれたのかと。
 疑問が芽生えた私に気付いたのか、ディオン様は教えてくれた。

「この世界の根源に迷い込んだ稀有けうな魂だ。普通なら押し潰されて消滅するのだが、シーナは称号とギフトを得た。その素質を買って我が世界に迎え入れたい」
「称号? ギフト?」

 まるでロールプレイングゲームのようだ。
 首を傾げる私に、今度はエリーゼ様が説明してくれた。

「貴女の世界と違って、私達の世界の種族は様々な力を持つの。ギフトは、生まれながら持つ個人の素質であり、先天的な特殊能力や天賦の才能。スキルは、種族が覚える後天的な特殊技能や技術。このスキルは精度を順位づける、初心者はD、一人前はC、熟練者はB、達人はA、天才はS、神業かみわざはEX……というスキルランクがあって、精度が高ければスキルを引き出しやすく、低ければ発揮はっきできない。ギフトの方は生まれながらの才能や称号によって得られるようになっているわ」

 ファンタジーならではの世界観に感心と納得した。だからあの文字が浮かんだのか、と。

「あ……そうだ。私って死んだことになるんですか?」
「根源に落ちた時点で死んでいるわよ」

 やっぱり。欠陥品の虚無の中にずっといたのだ。何があっても可笑しくはない。
 ちょっと寂しいし心残りはあるけれど、どうしようもないことなのだと割り切るしかない。

「問おう。我が世界に来るか、否か」

 落ち込む暇もなく問いかけてくるディオン様。
 答えは、わかり切っている。

「行きます」

 きっと断れば消滅するだろう。どうせなら新しい世界で自由に生きたい。
 前世で叶わなかった、自由な人生を歩みたい。

「ならば、お前に我等の祝福と加護を与えよう。向こうに着いて『ステータス』と念じれば、いつでもシーナの情報が確認できる」
「わかりました。ありがとうございます」

 小さく頷いて感謝の言葉を言えば、ディオン様は笑みを浮かべた。

「では、行ってこい。お前の未来に、幸多からんことを」

 その言葉を聞いた瞬間、私の意識はブラックアウトした。


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