初めての感情

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 部屋の扉が開き、閉まる音が聞こえると同時に気配が消えて、無意識に安堵の吐息を漏らす。

 ハリエットの言うとおり、エドモンは他人と関わることをけようとする。それは海より深い問題を抱えていることが理由だが、騒々しい場所を好まないことも理由の一つに入る。
 共同寮の寮生は抱え込んでいる問題から大人しい者が多い。けれど、自分の意思を主張する力も持っているため、踏み込まれないために程々の距離を保たなければならない。

 だというのに、どうして編入生を気にかけるのか。

 初めて目にした時は、とても強い衝撃を受けた。
 腰下まで真っ直ぐ伸びた髪は、見たことがないほど美しい黒。
 透き通るほど白い肌も傷一つなく、ふっくらしたチェリーピンクの唇も瑞々しくて柔らかそう。
 中でも、凛としつつも穏やかな目付きが特徴的な瞳は、原色と表現しても可笑しくない、まざり気のない赤。
 今まで見てきた『災禍の瞳』の中で、ユリアの赤い瞳は誰よりも鮮烈で美しかった。
 自然ときつけられて、目を奪われた。だが、それ以上に頭が真っ白になった。
 今も先程のユリアの穏やかな表情を見た所為で、焦燥しょうそうに似た感情が心臓を騒がせている。

(一体、何なんだ……これは)

 初めて感じるものに戸惑いながら階段を下りようと一歩を踏み出して、また足が止まる。
 ここで見たユリアの目が脳裏に過った所為だ。

 凛然とした意思を宿し、感情を強く露にすれば強い光を秘める瞳。
 それが不意にかげった瞬間を見てしまった。

 誰かとまともに話したことがない。そう言った途端に瞳から光が薄れ、表情が消えた。
 しかし、静かに目を閉じて感情を押し殺し、明るい声で何事もなかったかのように振る舞う。
 違和感を覚えて階段で呼び止めると、振り向いたユリアの目が虚ろに変わっていた。

 どうして死人のように光を失ったのか。それはきっと七年前に訪れたという村で何かがあったのだろう。
 滅多にない『黒持ち』で『災禍の瞳』という稀有な色彩を持つ彼女は、何も知らない者にとっては恐怖の対象。
 今でもどこかで迫害があることから、その村で酷い経験したのだろうと何となく察した。

 共同寮の寮生は、ほとんどが上流階級の貴族。陰口で何かを言われることはあっても迫害という陰惨な経験は皆無かいむ
 エドモンも経験したことがないため、彼女の心の傷は推し量れない。
 もどかしさが胸中に広がる。靄に似たそれに、エドモンはあることを自覚した。

「この俺に関心を持たせるとはな……」

 今まで他人に無関心だったが、初めて自分から関心を持った。
 自分に何らかの影響を与えたユリアの存在に、エドモンは小さな笑みを浮かべ、自制心で消す。
 すぐに談話室に入れば、私服に着替えたマリリンが幼馴染であり同級生である『黒持ち』の少年とノートを広げていた。

 去年の授業内容を書き込んだノートから、学力考査に出てくるだろう問題を拾って復習する。
 他にも二人の上級生とアンジェラもそれぞれの復習を行って、ハリエットがサポートする。
 彼等をしばしし眺めたエドモンは、マリリンに声をかける。

「マリリン。あいつはしばらく来ないぞ」
「……え? あいつって……ユリアのこと?」

 普段、予習復習は自室で行っているエドモンがこの場にいて、しかも誰かに自分から声をかけるなんて珍しいことだ。
 そんなエドモンが、ユリアについて話した。これには談話室にいる全員が驚きを露にした。
 エドモンは彼等の反応を無視して、マリリンに告げる。

「顔色が悪かったんでな。倒れる前に休ませた」
「……しまった」

 エドモンが誰かに関わって助けることも珍しくて驚愕するが、直後に呟いたハリエットに視線を向ける。

「ハリエット。『しまった』って何が?」
「ユリアのことだ。学園長から聞いたが、あの子は今まで同年代と接触したことがないそうだ。ユリアの両親から教えてくれたそうだが、家族以外の誰とも関わったこともないらしい」

 ハリエットが教えると誰もが目を丸くし、マリリンはユリアの言葉を思い出して納得した。

「……だから私が初めての友達だって言ったのね。でも、それがどうしたの?」
「解らないか? ユリアは今日まで他人と接したことがない。それってつまり世界を知らないってことだ。今までずっと両親だけが世界だったのに、知らない世界に送り出され、知らない他人と関わって。急激な環境の変化に心が耐えきれると思うか?」

 噛み砕いて言い聞かせるハリエットの言葉に、思い至らなかった彼等は衝撃から思考が止まりかける。麻痺しそうな感覚を押し切って、マリリンは問う。

「で、でも……どこにでもいる子みたいに普通だったわよ?」
「これも聞いたことだが、彼女は無理をしやすいそうだ。気を張って緊張を隠してたんだろう。ロベルトに啖呵を切った後なんて、すぐに自分の行動を責めていたほどだ。他人を傷付けたことがないから、後悔で自分の首を絞めたんだろうな」

 思い返せば、啖呵たんかを切った直後に疲れ切った顔をしていた。精神的な負担がかかったのだと目に見えて判る最後の好機チャンスだった。
 言い切った後に思わず舌打ちしてしまったハリエットは「ミスったな」と呟いて肘掛椅子から立ち上がる。

「アンジェラ、悪い。少し席を外す」
「う、うん……」

 一人だけでの復習は不安になるが、ユリアの方が心配だ。
 ぎこちなく頷いて、談話室から出ていくハリエットの背中を見送った。

「……それにしても、本当に珍しいね。君が誰かを助けるなんて」

 マリリンの向かい側のソファーに座っている少年がエドモンに声をかける。
 うなじを隠すほどのやや長い黒髪を持つ、少し彫りが浅い若干童顔な美少年だ。
 彼はエドモンと違って濃い金色……黄金色の瞳を僅かに細める。
 興味からくる好奇心が見え隠れする表情に、エドモンは厄介な奴だと胸中で舌打ちした。

「たまたま通りかかっただけだ」
「その割には良く見ているね」

 確かに、通りかかっただけで他人の顔色をうかがうことはしない。
 苛立ちから眉を寄せると、少年はにこりと笑う。

「もしかして、一目惚れ?」

 冷やかしを含んだ少年に表情を険しくするが、否定の言葉が出てこない。
 黙り込んだエドモンを見て、発言者である少年は笑顔を固めた。

「え、嘘……本当に?」

 正面にいるマリリンが戦慄せんりつしたように目を見開く。

 だが――

「そもそも一目惚れとはどういったものなんだ」

 エドモンが爆弾を投下した。
 本人にとっては何気ない疑問なのだが、彼の発言に全員が口をぽかんと開ける。

「……何だ。揃いも揃って間抜けな顔になって」
「あっ……貴方ってそんなに鈍かったの?」

 エドモンの尊大な言葉に怒るより、彼の鈍感な一面を初めて知った衝撃が強かった。
 マリリンが恐る恐る訊ねると、エドモンは「は?」と胡乱な声を出す。

「これは……思わぬ伏兵ふくへいと言うか……」
「ノエ。それより教えなくては始まらないわ」

 戸惑う少年をさえぎり、マリリンはエドモンに向き直る。

「文字通り、一目見て心が惹かれることよ。エドモンはユリアを見てどう思ったの?」
「……美しいと思ったが、それがどうした」
「本当にそれだけ? もっとこう……衝撃を受けたとか。どうしても意識してしまうとか」

 たとえを挙げられ、エドモンは眉を寄せて思い返す。
 確かに一目で目を奪われ、頭が真っ白になってしまった。だが、特段と意識してしまうことはない。廊下で自分を無視して逃げようとした時は苛立ったが……。

(……いや、まさかな)

 今までの学園生活で遠巻きにされることはしょっちゅうあることだ。
 容姿もそうだが、実力も要因の一つで、男女問わず、教員からも敬遠される。
 唯一気にすることなく絡んでくる同級生は、エドモンを親友だと胸を張って言っている。次第にエドモンも、そんな同級生を気兼きがねなく関われる友人だと認定した。
 敬遠しつつ遠巻きにしながらも色恋を向けてくる女子生徒もいたが、あれは鬱陶うっとうしい羽虫と思う程度。

 しかし、ユリアに対して無関心だったはずの心が動いた。
 女の立つ瀬がないと、心臓に悪いほど完璧な美貌だと真っ向からユリアに言われた時は、むずがゆいような感覚を覚えた。
 思い出すだけで心臓が締め付けられるが、エドモンは渋面じゅうめんを作った。

「……ありえんな」

 一目惚れなんて柄にもないことはしないはずだ。きっと一時期の気の迷いだ。
 エドモンは胸中で誤魔化すように言い聞かせ、表面では無感情な声で吐き捨てて談話室を出る。

 扉が閉まり、静まり返る室内。
 姿が見えなくなるまで見ていたマリリンは、真剣な表情を崩してしまっていた。

「あの……あのエドモンが……」
「……僕も驚いた。あんな顔をする彼、初めて見たよ」

 正面にいる少年も思わず口に出してしまうほどのことだった。
 マリリンは唖然あぜんとした表情を少しずつ冷静なものに変え……。

「これは……何としてでもくっつけたいわね」

 恐らくエドモンは自分の気持ちを否定しているだろう。なら、それを肯定させなければ。
 ユリアには積極的に関わらせてみよう。マリリンは二人の恋路を応援しようと決心した。


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