季節は移ろい、桜の蕾が膨らみ始めた。わたしの中学生活も終わりが近い。蕾が弾け、もうすぐ新学期がやってくる。卒業式の日は宿題がない春休みに浮かれていたが、きっとあっという間に過ぎていくのだろう。何週間か訪れていなかっただけの校舎にどことなく懐かしさを感じながら職員室の扉を開く。担任の先生がわたしの証書筒を振りながら近づいてきた。

「おー。寒い中ごくろうさん。暖房つけてるからちょっとあったまっていけよ」
「いえ。忘れ物取りに来ただけなので、すぐ帰ります」

暑さとか寒さとかそういうものを敏感に感じなくなったのはいつからだろうか。個性は5歳までには何らかの形で現れ、成長とともにコントロールが効くようになるのが一般的だ。しかし、わたしの場合はコントロールができず常に自分に快適な状態で保たれている。怪我をすることはもちろんないし、気温や湿度による不快感もない。何も知らない人からすれば非常に個性の扱いに長けていると思われがちなのだが、これでは幼児とそう変わらない。個性を使わない、ということができないのだ。そんなことも知らず先生はこの個性ならば雄英高校への入学も目じゃないと嬉しそうにしているが、自分の個性さえ満足に扱えずヒーローになどなれるのだろうか。明確な目標もなくヒーロー科を受験して、もし合格でもしたらどうすればいいのだろう。学校としては今後の入学希望者確保のために、あの名門校への入学者を輩出したという実績が欲しいのだ。わたしの意思など関係ないらしい。いや、今やヒーローを目指す子どもが大半なのだから、わたしの考えの方が一般的ではないのか。別にヒーローに憧れないわけではない。ただヒーローになった自分が想像できないだけだ。

「苗字、とうとう雄英の入試だな!合格が決まったら連絡してこいよ」
「記念受験だと思って、気楽に行きます」
「うちがもっと良い中学なら推薦で入れてやれたんだけどなぁ。ま、おまえなら大丈夫だろ」

簡単そうに言ってくれるが、偏差値79の国立校への入学試験は非常に狭き門なのだ。試験の内容等を尋ねても、前例がないため不明とだけ返されるような母校では何の役にも立たない。わたしは目の前でへらへらと笑う先生とは対照的に、どんよりとした面持ちで深く溜息を吐いた。何れにせよ、個性が発現してからというもののやたらとわたしのことを持ち上げる周囲の声に逆らうのも面倒だし、落ちたら落ちたとき考えよう。何もヒーローになるだけが人生ではないはずだ。暗い顔をしているわたしの頭を筒で小突きながら先生は続ける。

「普段より、ちょっとだけ気を張っとけばそれでいいさ。ほら大事な卒業証書だ。受け取れ」
「すみません、こんなもの忘れていくとは思いませんでした」
「ほんとにな。そういえば知ってるか?偉大なヒーローは、学生時代から逸話を残してるんだってよ。おまえの忘れ物の多さはもはや逸話物だから未来は明るいな!」

その言葉が冗談なのか本気なのかはかりかね、暗い顔のまま愛想笑いを浮かべる。明日が入試だというのにわざわざ今日取りに来たわたしも悪いが、変なプレッシャーしか感じない。妙な居心地の悪さから逃げ出すために、いびつな笑みを浮かべたまま後ろ手に職員室の扉を開く。軽く頭を下げ、振り向きざまに走り出す。出来ることなら、結果の報告は電話でしたいものだ。





重い足取りで帰ってきた受験を控えた娘のためにと両親はトンカツにはじまり、タコや納豆、果てはキットカットまで用意して待っていてくれた。早く寝ろと急かされ、自室のベッドに入ったのは午後6時。早すぎて、夜中に目が覚めてしまって寝付けなくなった。無事に寝不足確定である。スマホを確認するとまだ午前3時。しかしここで、リビングへ行ってしまえばわたし以上に神経を尖らせた母も起きて来ることだろう。かといって今更勉強したところで身に入らないし、一体どうしようか。締め切っていたカーテンを開き、窓から夜空を見上げればちらほらと星が見えた。この様子なら今日はきっと晴天だ。

「海でも見に行こうかな」

ふと思い立って、万が一に備えて制服に着替えそろりそろりと階段を降りる。しきりに両親の寝室を気にしつつ玄関までたどり着いたが、2人が起きてくる様子はない。玄関に用意してあったリュックを背負い、静かに家を出た。海の近くに自宅があるせいもあってか、夜風は心地よい冷たさだ。

歩いて15分ほどの距離にある多古場海浜公園は地域の住民の悩みのタネだった。地形的な問題なのかゴミが流れ込んできやすいらしく、大小様々な物体が砂浜を埋め尽くし、それを良いことに堂々と不法投棄をする輩まで増えていた。年に何度かは近隣住民の有志を募って清掃活動をするが、山ほどのゴミの前ではわたしたちは無力で、その活動はもはや形骸化していたのだ。それがここもと、少しずつではあるが本来の姿を取り戻しつつあると話題であった。「潮の流れでも変わったのかねぇ」などとのんきなことをいう年配の方もいたようだが、近所の奥様からのタレコミによると誰かしらがゴミの処理をしているらしい。

「…本当に誰かいる」

半信半疑ではあった。しかしこんな時間なのに砂浜を忙しなく走り回る人を見つけた。その形相があまりにも必死なので声をかけるのもためらわれ、その人をちょうど見下ろせる位置にあったベンチへと腰掛ける。しばらく見守ってみることにした。





ビビビッというけたたましい音に肩を揺らす。ハッとして周りを見渡してみるが、あたりには何もなく、綺麗な水平線が目の前に広がっていた。そうだ、海に来たんだった。寝惚けた頭で考えて、すぐにもう一度砂浜へと視線を戻す。そこには塵一つ落ちてはいなかった。思わず感嘆の声が漏れると同時に嫌な汗が額を伝う。そういうことはどういうことだ?もしかしてわたし寝すぎた?ていうか寝るつもりは無かったのに!多少パニックになりながら、未だに大きな音で主張してくるスマホへ目をやれば「お母さん」との文字。画面の上で指をスライドさせれば、焦ったような聞きなれた声が聞こえてきた。

「名前ちゃん今どこなの!!あと1時間以内に家を出ないと雄英の入試に間に合わないよ!!」
「ごめんお母さん、海に来てた。荷物とか持ってるから直接行くね」
「え、う、うみ?まぁ、間に合いそうならいいんだけど。車出さなくて大丈夫?」

さっきまでの焦りはどこへやら、わたしはひどく落ち着いていた。このあまりに綺麗になった砂浜を見て、ここで何時間も無駄にしたのかと思ったが、まだ2時間ほどしか経っていないようだ。これならば少し急ぐくらいで余裕を持って雄英高校に到着できそうだ。昨日までのざわついていた心は、目の前にある海のように穏やかになっていた。どこの誰だか知らないけれど、世の中には立派な人がいるものだ。目立ったことはしなくても、わたしもこんな風にわずかでも誰かの為になることができたらいいな。自分の行動で、誰かの心を動かせたならそれで十分な気がした。もうここにはいない誰かにわたしはそっと呟いた。

「ありがとう。あなたのおかげで頑張れる気がします」

朝日を背に走り出す。どうなるかはまだわからないけれど、この一歩がわたしを成長させてくれると信じて。