「鹿嶋市郊外の空き家の話、聞いたことあるかい」
ある日、師匠がそんな話をしてくれた。
二分歩くだけで頭のてっぺんからでろでろに溶けてしまいそうなほど暑苦しい夏の真っ盛り、大学の講義を終えていつものように師匠の家に集合し、西洋美術史の課題を片づけていたときのことだった。
「いえ、全然」
大学進学を機に隣県からやってきたため、この辺りの地理に疎い俺は首を振りつつ隣に目を向ける。
隣県どころか地方も海も越えてきている巽も、本を読みながら無言で首を振った。今日読んでいるのは坂口安吾の『堕落論』らしいが、さっきから全然ページが進んでいない。
「山の中にある廃屋だそうでね。なんでも心霊スポットとしてネットでは有名らしくて、暇を持て余した地元のやんちゃ坊主や大学生が度々、肝試しに訪れるそうだ」
師匠は雑誌を捲りながらこちらを見もせずに続けた。
普段から着物姿で、女性らしい謎めいた顔立ちをしていて、近所からはお化け屋敷と呼ばれている古い洋館に住むこの師匠との出会いは一言に語りきれない。のちに『こっくりさん殺人事件』と名づけられた出会いの話はまたいずれ披露することとしておく。
ともかく師匠は、中途半端に『ヒトでないもの』を視る俺が大学時代のいっとき師事した人で、その感度は本人曰く『普通の人間の最強クラス』とのことだった。
師事していたとはいっても、教えられたことはそう多くない。
大抵は講義が終わってから洋館に集合して、俺と巽と師匠、時々姉御という女性を交えた四人で、心霊スポットを巡ったりいわくつきの呪いのビデオを見てみたり師匠の怖い話を聞いたりするばかりだった。これまでどちらかというと怖いものには近づかない派だった俺だが、うだうだ文句を言いつつも、この人の不思議な魅力と居心地のよさについつい入り浸ってしまうのだった。
「ちなみにどういう謂れがあるんです?」
「さあ。調べてみても正確な情報はいまいち出てこないね。村八分にされていたとか一家無理心中したとか惨殺事件があったとか――とりあえず、その空き家を訪れると子どもの声が聞こえるという証言だけは一致しているらしい」
つらつらと並べられる物騒なワードに俺が口の端を引き攣らせると、師匠の視線がちらり、俺の背後から中庭に面する大窓へとゆっくり移動していった。
「……『かえして』ってね」
まるで何かが俺の後ろを通り過ぎていったかのような目線。
ぱっと振り返り、部屋の中を見回すものの、特におかしなものはない。隣のソファには『堕落論』が進まない巽。テーブルを挟んだ向かい側には雑誌を持つ師匠。俺たちがいつも集まるこの一室は師匠が書斎として使っている部屋で、窓際の読書スペースであるこの一帯以外は背の高い本棚が壁に沿って並んでいる。
師匠の視線が流された中庭を見るも、そこにはよく手入れされた庭があるだけだ。
「っていう噂を、数年前、僕の師匠が近所の子どもたちに吹き込んだんだそうだ」
雑誌を閉じた師匠に思わず「は?」と声が漏れる。
師匠の師匠の話はたまに聞くことがある。この風変わりな人の姉だったそうで、話の限りではこの人以上の変人だったらしい。
「本人としては長い時間をかけての実験のつもりだったそうだよ。なんの謂れもない空き家で子どもの声が聞こえたという噂を流したらどうなるか。結果は先程話した通り」
……なんか嫌な予感してきた。
「そこにあるのはただ持ち主不在の朽ちた廃屋。周囲に民家もないので行政代執行で取り壊されることすらこの先見込まれない。あの人自身、あの廃屋がどういう理由で打ち棄てられたのかも知らない。だというのに不思議なことに、肝試しから帰ってきた人々は『子どもの声を聞いた』と証言し、全く根拠のない謂れがいくつも飛び交った」
いつの間にか課題を進める手が止まっていた俺を、師匠の右眼が見据えてくる。
この人の左眼は前髪に隠されていて、俺よりいくらか弟子歴の長い巽も見たことがないらしい。
「さっきの君と一緒だよ。私の視線が不自然に移動したのを見て、後ろを何かが通り過ぎたのだと考えた。違うかい」
違わないがうなずくのは悔しい。
師匠と俺ではあまりにも視える世界が違うから、この人が何かするたびに俺は疑ってしまう。彼の視線、独り言、僅かな仕草すら、『何か』いるのではないかと思わされるのだ。
「心霊スポットっていうのは不思議なものだよね。まず噂ありき。証言が追加され、憶測が重ねられ、確かな記録もないのに不気味な場所だと恐れられる。――さて、実際何もなかった鹿嶋市の廃屋に、果たして本当に子どもの霊はやってきたのか?」
雑誌をぱたりと閉じた師匠が立ち上がる。嫌な予感どころの話じゃない。どんな謂れがあるのかなんて聞かなきゃよかった。
「幸い我々には見鬼がある。確かめに行こうじゃないか、根拠のない噂が一体どんな心霊スポットを生み出したものか」
ああほらやっぱり――!
がくっ、と肩を落とした俺の横で巽がバカにしたような顔になる。
「秋津って、嫌々言うわりにそういうとこ突っ込んでいくよな」
「…………こんちくしょう! 師匠、演技巧すぎます、すっかり騙されました!」
堪えきれない文句を吐き出せば、師匠はうっそりと微笑んだ。
「演技だなんて誰が言った?」
車のキーを手の中で遊ばせながら書斎を出て行く。巽と顔を見合わせてもう一度背後を振り返り、師匠の視線を辿って中庭を見やるも、やはり俺たちには何も視えない。
「……巽は視えた?」
「いや、なんも」
――師匠のあの視線移動は俺を嵌めるための演技だったはずで、でも「演技だなんて誰が言った」ってことは演技じゃない可能性もあるわけで、だけど師匠より見鬼の力の劣る俺たちにはなんにも視えないわけで、でもそこには『何か』がいたかもしれない。
そこにどんなものがいたとしても、師匠と同じものを視ることのできない俺たちにはわからない。
視えることの恐ろしさ、視えないことの恐ろしさ。
あの頃はそれらの間を行ったり来たりしながら、師匠の背中を追っていた。