夜の海は暗い。
近くに灯台や陸地が見えていればまた違うかもしれないが、新月の夜は、見張り台の明かりがなければ足元さえ覚束ない。
だが月が出ない分、夜の帳に針を刺したような星々は美しい。
生温い風の吹き抜ける船上を散歩していたアレンは、船首楼の一番端っこに、先日拾った不思議な青年を見つけた。
彼が目を覚ましてから明日で一週間を数える。まだ安静期間にあるはずのウィルゴがここにいるのがグレイに見つかったら、アレンともどもどやされるのは確実だ。
「どうしたんだよ、ウィルゴ」
まだ傷の治りきらないその身体に夜風はよくない。部屋に戻るよう促すべく声をかけたが、反応は返ってこなかった。
ウィルゴはこちらを振り返りもせず闇を見つめている。
聞えていないわけがないだろうから、無視しているか言葉を探っているかのどちらかだろう。しばらく待っていると、ややあって彼が答えを寄越した。
「夜を見ていた」
「……夜を?」
アレンは小首を傾げながら反芻する。海を、とか夜空を、とかならまだわかるのだが、夜ときた。
とりあえずウィルゴの背後に立って彼と同じ方向を眺めてみるものの、いつも見ている暗い海が広がっているだけで、特に変わったことはない。
頬を撫でる潮風はべたべたする。灯りのない夜の海は空の星を美しく見せるが、近付く不審船の影が捉えにくい。今日は新月だから余計に、見張り番は警戒しなければならないだろう。
アレンの感想としてはそんなものだった。
「忘れていたんだ。長い間」
ウィルゴがこうして会話をつなぐことは珍しい。
夜の闇にも溶け込んでしまいそうな彼の黒髪を見下ろしながら、「うん」と小さく相槌を打つ。
この船にこうやって誰かが拾われるのは、実はよくあることだった。
アレンだってそうして乗船したくちだ。グレイもそうだし、船員のおよそ四割はそんな感じでここにいる。そしてこうして拾われる人々は高確率で何らかの厄介な事情を抱えているのだった。
往々にしてそういう奴らはその事情を語りたがる。
しかしウィルゴは真反対だった。事情どころか、傷口が痛いとかお腹がすいたとかそういうことすら自発的に喋らない。見舞いに訪れても会話が弾まないからアレンもちょっと困っているところだった。
「あの頃は、夜空がこんなにも暗いことすら、うまく思い出せなかった……」
遠い思い出に耽るようなその物言いには、かけがえのない記憶を慈しむような、それでいて血を吐くほど呪い尽くすような何かがあった。
アレンは無言で彼と背中合わせに腰を下ろす。
聳え立つフォアマストを何となしに見上げながら、ウィルゴの背中に体重を預けた。
三本の帆柱を持つガレオン船であるグリンディエダ号は、風のない夜間、帆を畳んで眠りに落ちている。
この船がアレンの家となって久しいが、ウィルゴにとっては落ち着かない空間なのだろう。彼はここ数日眠りが浅く、隈をつくってはグレイに心配されていた。
もしかしてアレンが気付いていないだけで、彼はずっとこうして夜風を浴びていたのかもしれない。
自分が乗船した頃に抱いていた孤独や寂寞がふつふつと思い返された。
知らない人ばかりの巨きな船。自分の居場所もまだない。地面に足をつくことさえ叶わない。とんでもなく広い迷路のような船の中を彷徨って、迷子になっては、船員に見つけ出されて頭を撫でられた。
「……あの日、おれ、崖の下に生えるっていう薬草を取ってこいってパシられたんだ。前日の飲み比べでグレイに負けてさ」
ウィルゴから相槌はない。
想定の範囲内なので構わず続けることにする。
「崖下で薬草を摘んでたら、上の方で戦闘の気配がした。何を怒鳴ってんのかはわからなかったけど、とりあえず物騒な感じだったんで、いなくなるまで待ってようと思ったんだ。それでしばらくじっとしてたんだけど――」
アレンは頬杖をつき目を閉じた。二週間前のことをゆっくりと思い出す。
厄介ごとは、御免だった。
ただでさえ面倒ごとを持ちこむのが得技だと船長に揶揄されているのに、また何かやらかすわけにはいかない。幸いアレンのいるところは崖を抉り取ったような地形になっているから、上にいる人間から見えることはないだろう。いくらかかるか知れないが、大人しくしていればそのうち去るはずだ。
そう判断して無心で薬草を引っこ抜いていると、頭上の人々がざわめいた。
一瞬のことだった。
黒い何かが目の前を落ちていった。遅れて、アレンの頬に飛沫がかかる。最後に海中へ何かが落ちる音が聞こえた。
頬を拭うとそれは血だった。
アレンが息を飲んで眼下を見下ろすと、先程まで澄み渡っていた海水がどす黒い血の色に染まっている。
反射的に海の中へ飛び込みそうになる足をぐっと堪えて、頭上の複数名の気配が立ち去るのを待った。今あとを追って飛び込めばアレンの入水音が聞こえてしまう。
崖の上の数名はしばらくアレンと同じように水面を観察していたが、やがて人も死体も浮いてこないと判断をつけると、物々しい気配だけを残したまま立ち去っていった。
完全に人気がなくなったのを確認してから、薬草を入れた麻袋の口をぎゅっと縛って腰紐にきつく結びつける。上にいた物騒な連中がこの場所を知っているかはわからないが、海へ落っこちたものの生死を徹底的に確かめに来ないとも限らないので、アレンは注意深く自分の痕跡を消してから海に飛び込んだ。