透明な海の中、赤い血を止め処なく流すものの後を追うのは簡単だった。
力なく底へ沈みゆくそれの服を辛うじて掴むと、飛び込んだのとは別の地点を目指して水を掻く。見晴らしのいい浜辺は避ける。しかし二人がひとまず上陸できる岩場へ。それでいて、グリンディエダ号の近くならなおいい。
水の中で体勢を立て直し、掴んでいた服を手繰り寄せて片腕にその体を抱いた。
意識はないようだ。
あれだけの出血の傷を負った中で海水に落ちたものだから、痛みで気絶したのかもしれない。ぐったりと力の抜けた体は重たいが、痛がったり混乱したりして余計な抵抗をしない分、意識をなくしていてくれてよかった。
もしかしたらもう死んでいるかもしれない。
ようやく船の近くの岩場に到着した頃には、拾った人間はやはり死体のように温度をなくしていた。左胸に耳をつけると弱々しいが拍動が感じられたので、アレンは急いで処置に移る。
身に纏っている黒いローブが邪魔だったので脱がせると、荒事にはそれなりに耐性のあるアレンが絶句するほど、凄まじい斬り合いの痕がそこにあった。これでよく心臓が動いているものだ。
ローブを裂いて適当に体に巻きつける。最早どこを縛れば血が止まるとかいう次元の話ではなかった。
指で輪をつくり呼び笛を吹くと、船の舳先にいた鷲がすぐさま飛んできた。見上げるほども大きなガレオン船の先端から、翼を広げて勢いよく滑空してきたその陰は、伸ばしたアレンの左腕に着地する。
「イェガ、グレイを呼んできて。大至急! 叩き起こせ!」
叩き起こすというより突いて起こすことにはなろうが、イェガは速やかに船へ戻っていった。
その間にアレンは瀕死の青年の頬を叩く。
「おい、聞こえるか!」
耳元で声をかけながら何度か叩いていると、青年は一度大きく噎せて水を吐き出した。
水の逆流がないよう顔を横に向けさせて口の中に指を突っ込むと、青年は何度か咳を繰り返す。同時に意識も戻ったらしく、アレンの方をぼんやりとした目で見やってから、口を動かした。
指を引き抜いて、「なに? 痛いって? そりゃ痛いだろうな。すぐ医者が来るからそれまで死ぬなよ」とひっきりなしに話しかけ続ける。
「……、……」
「何だ?」
青年の蒼い唇が意志を持って動く。口元に耳を寄せてやると、ほとんど吐息に近い囁きで、彼は「メアリ」と口にした。
今際の際に名を呼びたいほど愛しい女なんだろうか、と若干アレンが呆れた瞬間、青年は再び昏倒したのだった。
「あっ……おいこら! 死ぬなー! 生きろー!」
そして、イェガに突き起こされたグレイが不機嫌を隠しもせず岩場へやってきて、アレンが拾ったものの出血量を見て顔色を変え、急いで船へ連れ帰って処置を施し――現在に至る。
アレンが長い語りを終える頃、ウィルゴは項垂れて大きな溜め息をついた。
「どうしたんだよ、この世の終わりみたいな溜め息」
「いや……自分の弱さに呆れている」
「弱さっておまえ。あれだけの大人数に囲まれて瀕死の重傷を負いながら生きてる自分の悪運の強さに感謝しろよ」
「そうではなく……」
ウィルゴはしかし、そこで沈黙した。そうじゃないなら何なんだと首を傾げるが、彼はそのまま何も応えなくなったので、アレンも深く追求しないことにする。
グリンディエダ号の船体に波がぶつかる音が響く。
東海随一の規模を誇る大型帆船・グリンディエダ号は、有事における最大収容人数を一千人といわれている。
全長五十五メートル、全幅十三メートル、メインマスト高は海抜四十メートル。武装は大小合わせて三十の砲門と船体の規模に対しては少な目だが、船体接触からの白兵戦において最強を名乗るアレンたちには過ぎた武装ともいえた。
見張り台は三本の帆柱の中ほどに設えてある。夜間は六名体勢、即ちフォア・メイン・ミズン各マストにそれぞれ二名ずつがつき、三時間交代で見張りにあたる。フォアマストの見張り台にいた船員がアレンに向かって手を振ってきたので、こちらも振り返す。
その気配に振り返ったウィルゴが見張り台を仰ぎ見た。
「巨きな船だな」
「だろう。東海で最強の船だよ」
「……東海で最も強い船は、マレフィカ号ではないのか」
一々敵船の名前まで憶えていられないアレンですら、その船の名は知っている。グリンディエダ号は東海でそれなりに名を知られているが、マレフィカ号はさすがに平地でも有名なはずだった。
「キーリ帝国海軍の大型艦船だっけ。グリンディエダよりは一回り小さいよ」
「見たことがあるのか?」
「昔やり合ったことがある。さすがに強かったけど逃げ切ったよ」
「…………」
背中に触れているウィルゴの空気が厳しくなった気がした。
どうかしたのだろうかと彼の方を振り返るが、ウィルゴは相変わらず夜の海を見つめている。
「……まさか」
ぽつりと彼が呟いたその言葉に、思い当たる節があった。
「あれ、言ってなかったっけ。うち、海賊」
「…………聞いてない」
がくりと項垂れたウィルゴに笑いが零れた。意外と反応は正直な奴だ。