三つの大陸と、大小二〇〇の島々から成る諸島。それらを一〇一に分けた国家のうち、特に権力の強大な六国を六大国と呼ぶ。
キーリ帝国はそのうちの一国として名を連ねていた。
帝都を中心に東西南北それぞれに頑強な砦をもつ都を構え、国の東側には広大な東海を抱き、西側には雄大なギガン山脈を戴く。東と北の都が海、西と南の都が山に恵まれた資源を持ち、それらを統帥する帝都が平地から国々を見守りながら、約二千年の歴史を刻んできた。
イェルガ海賊団は、東海の大部分を縄張りとしてその名を轟かせている。
不落の艦船グリンディエダ号を家とし、船員およそ五〇〇名、配下とする海賊船の数は二〇を超える。船長のイリヤを母と仰ぐ船員たちの不屈の忠誠心と、帝国海軍が感服するほどの操舵技術、そして何よりも縄張りの海域に住まう人々からの根強い支持を得て、三〇年の長きに渡り最強の名を恣にしている海賊団だ。
さてこの海の荒くれ者どもを統率する船長のイリヤとは、齢七〇を超えた老女である。
昔はイリヤ直々に拳をふるい指導をしていたが、ここ数年はそれを副船長のグレイに任せて、船員に対しても見守る姿勢をとっている。アレンがこの船に乗り込んだ時はまだ現役だったので、彼女の恐ろしさは身に染みて知っていた。
一週間の昏睡状態を経て、もう一週間の安静期間と四日間の療養期間を過ごし、ようやくまともに動けるようになったウィルゴを連れてアレンは船長のもとを訪れた。
船長室のドアをノックする。三度、二度、二度。これ以外のノックでは船長室のドアは開かないことになっていた。
「何だい」
分厚い扉の向こうから低く滑らかな声が返ってくる。
深呼吸をして、アレンは答えた。
「アレンです。ウィルゴの処遇について相談が」
静かにドアが開いてグレイが顔を覗かせた。ウィルゴとともに、船長室へ足を踏み入れる。
甲板に現れるイリヤは皆の母であり姉であり祖母であった。だけれどこの部屋にいる彼女はいつだって痛いほどの緊張感を漂わせている。一員となってはや八年を迎えるアレンは、今でも必要以上にここに来たくなかった。
船長室の壁には東海周辺の海図や世界地図が張ってある。壁沿いの本棚に並んでいるのは五〇年を越える長い航海の日誌だ。部屋の中心にあるテーブルには海図が広げてあって、それを囲うように航海士長と操舵士長が立っていた。グレイもその二人に並ぶ。
イリヤはテーブルの傍らの椅子に腰かけていた。
七〇を超えたとはとても思えない若々しい風貌の老女が、海賊船の船長とは思えない上品な踝丈のワンピースに身を包み、海図を見つめている。灰色の髪の毛は隙なく整えられていて、一見すると暖炉の脇で編み物をしていそうな普通のおばあちゃんだ。
――ただしその、鋭い常葉色の眼光を除いて。
厳かな空気を纏う老女その人が、グリンディエダ号船長、五〇〇人もの海の男を統べる女海賊だ。
横に立つウィルゴが強張ったのを感じる。
「……それについてはアレン、一任するとグレイに伝えた筈だが」
深い海のようなこの声が好きだった。
アレンは緊張を解きながら「そうなんですけど」と頭を掻く。
「船長の意見だけほしくて。ウィルゴはどうしたいって言わないし、グレイは海に放り込めって言うし、でもおれはせっかく助けたのにまた放り込むのもなぁって思って」
正直困ってしまった。
今後どうしようか、そう尋ねるとウィルゴは静かに「救われた命だから、お前の好きに使うといい」なんて人任せなことを言う。アレンとしてはそこまで恩義に感じられるのも困るし、彼が厄介な事情を抱えているらしいことはわかっているので、迂闊に船に乗れとも提案できない。
イリヤの静謐な双眸が、ウィルゴを見据えた。
彼の黒髪、漆黒の瞳、彫刻のようなかんばせ、右頬に伸びる刀傷、少し華奢だが均整のとれた体躯を順に見下ろしていく。身長はアレンより少し高い。年齢は同じくらいだろう。けれど、年齢に釣り合わない諦観した物言いや表情が、やたら老獪に見せる。
「死にたいのかい」
短い問いかけにウィルゴは目を伏せて、それでも首を横に振った。
「だが生きようとは思わない」
「ふん……死にたくないが生きたくもないか、贅沢な悩みだ」
「いや」嘲笑を浮かべたイリヤへ再び首を振ったウィルゴは、両の拳をぎゅっと握りしめて低く呻いた。
「……死ねない。殺されるまで」
イリヤを前にして緊張していた隣の青年は、引き続きの緊張かその一言に対する執念の深さか、恐ろしく険しい表情をしていた。
まるで手負いの獣のような殺意だ。
船長は何かしら思うところがあったようで、しばらく沈黙して厄介なアレンの拾いものを見ていた。
グレイたちは黙して何も語らず、ただ船長の意思を待っている。
やがて彼女は瞬きを三度すると、軽い吐息を零した。
「命を拾ってもらった代金くらいはアレンに返してから死にな」
「船長――」
眉を寄せて抗議しようとしたグレイをイリヤは右手の一振りで止めた。
その婉曲な言い回しにウィルゴへの乗船許可を読み取り、アレンはそっと安堵する。
「ただしアレン。その厄介な拾い物の責任はおまえがとるんだよ」
「了解」右手の拳を胸にトンと当ててアレンは破顔する。何を言われているのかわかっていない彼の頭を引っ掴んで、強引に下げさせた。
「ほらウィルゴもお礼。船に乗ってもいいってさ」
「……、有難う、ございます」
ぎこちないお礼だ。
この先どうしたいという望みさえはっきりとないウィルゴにとって、乗船を許されるということが、礼に値するかどうかわからない。もしかしたら余計に彼の事情がこじれるかもしれないが、とにかく放っておいたらふらりと消えてしまいそうなこの拾いものを、しっかりと掴んでおかなければならない。
こういうところが面倒を持ちこむ天才といわれる所以なんだろうが、性格なんだから仕方ない。
「まったく相変わらずぎこちない挨拶だなあ。おまえはまずまともに人と会話するとこからだな。よし甲板行くぞ、今ならみんないるだろ!」
怒涛のようにウィルゴの手を取って船長室を出て行くアレンの後ろ姿へ、
「おーい、まだ無理させるなよー、傷が開いたら死ぬぞー」
とやる気なさげなグレイの忠告が投げつけられたが、二人には聞こえなかった。