出逢い

「…多いな……」


 月の光が、辺りの景色を照らし出す。その日は特に、眩い夜だった。
 煙草を咥え、夜空を見上げた白い短髪を持つ男が思わず呟いた。
 月光。僅かな風。……漂う蟲たち。
 目に入る全ての景色、空一面に漂うのは、柔らかな光を湛える蟲の群れ。


(……、光脈筋とはいえ…この数は異常だ…)


 無論、確かに自分は蟲を寄せる体質だが……この土地に入ったのは、つい先刻のこと。明らかに自分がこの地に干渉を及ぼしたことではない。
 それに……ここは光脈筋だ。
 にも関わらず、甘いような、苦いような、あの独特の匂いが……薄い。


「…こりゃ一体どうしたもんかね…」


 やはり体質か、自分にも群がり始めた蟲達に煙草の煙を吹きかける。蟲を掃う効果のある煙草の白煙に、蟲達は一斉に彼の周りから退散した。
 彼の名は【ギンコ】
 一つ処に留まることを許されない、蟲を寄せてしまう体質を持った人間。
 しかし、彼は【蟲師】
 その体質の為に、蟲を払う術を必然に身につけた【蟲師】
 あてもなき旅路が彼の居所だ。


「…何か…蟲を寄せる原因がこの山にあるってことか…」


 ギンコは背中の薬箱を一度地面に下ろすと、山道の脇にある大きな岩に腰を下ろす。白い髪が風に揺れ、眇を彩るのは不思議な光を放つ緑の満月。その瞳で円を象る月を見上げた。
 咥えた煙草の煙を燻らせれば、それが風に乗り、筋となり大気を巡り流れていく。


「…ん?」


 空に漂う蟲達をぼんやりと見上げていたギンコだが、それらに法則を見いだして、岩から立ち上がった。


「こいつらどっかに向かってんのか?」


 一つ一つ、ただただ流れているだけかと思ったが、よくよく見れば、蟲達は何かを目指しているのか、あるものは風に逆らい身をくねらせ、あるものは紐のような足をばたつかせ、あるものは虫と見分けのつかぬ羽をはばたかせ、山の奥へと向かっている。


「…えぇと」


 ギンコは懐から折り畳まれた地図を取り出し、それを拡げて方角を照らし合わせた。


「…山しか、ねぇよな……何だってんだ…」


 月の光を頼りに地図を見るが、蟲の行き先は果てない山を示すばかりで。人里でもあれば村人や家畜に蟲を寄せる原因があるものでもいるかもしれないと思ったのだが。


「…ま、こうしてても埒があかんか……」


 地面に置いた荷を肩に担ぎ、地図を畳み懐にそれをしまうと、ギンコは煙の細くなった蟲煙草を地に落とし足で踏み付け、新しい煙草を口に運び火をつけた。
 動きの早い、大きめの海月のような蟲に目星をつけて、ギンコはその蟲の後について歩き出す。


「…こんな山の中に、一体何があるってんだ…っ」


 あれから蟲の後をついて歩くギンコは山道の険しさと、光脈筋の恩恵を受けて精一杯に枝葉を伸ばす木々たちによる歩きづらさについ声を荒げてしまう。
 蟲達は、山の奥へ奥へと進む程、数を増し、種類を増し、その動きも、漂うようなゆったりとした流れではなくなり、明らかに何かを目指して飛んでいた。
 もう先程の海月のような蟲一匹に狙いを定めずとも、自分も群れに加わればいい。
 歩きづらさはしょうがないが、あと少し辛抱すれば原因に辿り着くだろう。
 仕事道具の入った薬箱を背負い直し、ギンコは額の汗を拭った。


「…匂いは…しない…よな」


 てっきり光脈筋の恩恵でこんなにも葉が生い茂っているのかと思ったが、ふと思う。甘いような苦いような、あの匂いはどちらかというと薄い気がする。


「確かにここは光脈筋だが…それとはまた違う」


 ならば、なんだ。
 この蟲たちは何に引き寄せられている?
 もう随分と山奥深くへ入ったが、青々と茂る枝を掻き分けて、ギンコは更に蟲と共に歩を進めた。
 しかし、


「!」


 これからの長い道中を覚悟した矢先だったが、目指すものはあっけなく目の前に現れる。
 それは、朽ち果てた古寺だった。
 今は誰もいなくなったであろう寺院がそこにあった。
 人の手で作られた瓦屋根までが植物の命の糧となり、森と一体化してしまっていた。


「あー…、こりゃ地図にも記されん訳だわ…」


 蟲達はまるでその寺院を囲むように群がっていた。


「それにしてもこりゃあ酷い…」


 寺院の屋根は大きく穴を開け、その周りの瓦は崩れ、剥がれ落ち、寺院の周りは苔で覆われていた。
 月明かりを感じて上を見れば、木々を枠に丸くぽっかりと空が見えて、そこから差し込む月明かりが寺院を照らしている。
 昔手入れをされていた名残だろうか。


「宿を借りるにしても、床が抜けなけりゃいいがね…」


 山道を辿り、それからは蟲と共に道無き道を歩いてきたからできれば躰を休めたい。


(目的地には着いたようだが…本格的に夜だな。とりあえず一休みして…原因は明日、日が昇った時にでも調べりゃいいか)


 ギンコは小さくとため息をついて、廃墟と化した古寺に足を踏み入れた。


「ん…?」


 歩を進めていくと、人などとうにいないはずの寺院の奥から淡い光を認める。
 ひょいと顔を覗かせ入り込んだ部屋は、外からこの古寺を見た時、屋根に大穴を開けていた場所らしく、天井から降り注ぐ青白い月の光が広い床を照らし、寺院の本堂と見て取れた。
 しかし、目の前に飛び込んで来たその光景に、ギンコはそれらに目を向けることもなく目を見開いて固まった。
 人などとうに居ないはずの古寺の中に居たのは、人だった。いや、人であるかどうかはわからない。


 ──ト、…


 支えを無くした蟲煙草が、ギンコの口から滑り落ちる。落ちた蟲煙草は細い煙を一瞬ふわりと巻き上げてから、床へと転がった。しかしそれが起きたことにすら気付かないほどの、幻想的な光景に…


「…、」


 ぞくりと、震えた。
 ギンコが見たのは、氷のような、水晶のような花草。
 花は本堂いっぱいに広がり、花畑を連想させた。
 その花は淡く、蒼く、碧く、青く、白く、時には紺青に、青紫に、月明かりを浴びて輝いていた。
 けれどそれより目を引くものがあった。本堂の中央、そこに眠る一人の女。
 大きな結晶の柱が上へと伸び、女は蔓のような結晶でそこへ縛り付けられていた。
 その周りを床を這うように結晶の花が咲き乱れている。
 けれど、その光景よりも、眠る女に目がいった。
 生きているのか疑問に思う状況。けれど、とても死んでいるようには見えなかった。
 異様な光景だった。しかし、それでもなお、いやそれ故か、見とれてしまうほどに、その女は、美しかった。


「これは…」


 しばし見惚れていたが、床から煙が上がり、我に返って慌てて足で踏み、熱を消す。
 あまりの美しさに頭が働かなかったが、今自分がやるべきは惚けていることではない。
 ギンコは懐から蟲煙草を取り出した。
 花畑の縁まで足を進め腰を下ろす。
 ギンコは蟲煙草をくわえ火をつけた。それからその煙を吸い込み床に硬質な根を張る花に向かってフゥッと煙を吹きかける。しかし花に何の変化も見られない。


 ──パキン…


 花畑に足を踏み入れれば、生えていた花は容易く砕けた。
 折れてしまった結晶の花に手を伸ばし拾い上げる。しかし触れた瞬間、躰の中に何かが流れ込んで来た感覚に、反射的に手を離した。
 自身の手を覗く。
 その感覚は、乾いた咽喉に勢いよく水を取り込む時のような、躰にじわじわと染みわたるかのような、充足感。
 触れた指先から、それが一息に流れ込んで来た。
 周りを見れば、蟲たちが花に群がっているのが見て取れた。
 蟲たちの群がる原因はこれだ。
 今度は注意をしながら結晶に触れる。硬くて冷たくて、不思議な手触りの結晶。
 進むたびに花は折れていくが、ギンコは本堂の中央に眠る女の前まで進んだ。
 床から足が離れている女をギンコは見上げた。


「おい、あんた」


(蟲か…人の子か…)


 それで起きれば訳はないとわかっていながらも、そう声をかけた。


 ──スゥ…


「!」


 その目が開かれた。
 匂い立つような、ぞくりとするような、美しい女が自分を見下ろした。


「おまえ…蟲か…?」


 ギンコが声をかければ女は緩慢な動きで小さく首を傾げ、それに乗じて揺れ動く花と花が触れ合い何とも涼しい音を立てた。
 女の細い腕を握れば、人間の温もりがそこにはあった。


「それとも…人の子か…?」


 低すぎることも、高すぎることも無い、人肌の普通の温度だ。
 とりあえず、生きてはいるようだ。透き通るような白い肌に、一瞬、温度があるかどうか不安になっていたのだ。
 その肌はきめ細かく、柔らかい。僅かに胸元が上下している。呼吸も確かだ。
 どうしたものか。
 ギンコは女と、女を支えている花草の接触部分をよく観察した。もし女から生えていたなら、無理に引き剥がすのは危険かもしれない。














 ──ピシッ…パキッ…


 結晶が動き出した。割れるように、増殖するように、結晶は開いた。


「おっ…とと」


 支えを失った女の躰が倒れてくるのでそれを受け止める。


(……しかし、)


 女はギンコにもたれたまま動かない。躰に力が入っていない様子で、ギンコは女の肩を掴んで少し距離をとり顔を覗く。


「───…、」



















 一息ついて、寺の外を見る。蟲たちは寺の周りを飛んでいる。
 娘がそこから動けない様子を見ると、ギンコは大木の近くに腰を下ろし、木や蔦に触れる。娘に触れた時と同じ感覚がする。


(これは、娘から木に。木から山に流れ込んでいるのか)


 木に僅かに切り込みを入れてみた。すると、そこから枝葉が伸びてきた。
 蟲煙草の煙を吹きかけてみるも、木にも娘にも反応はなかった。
 ならばと蔦に手をかけて、力を込めて引き千切る。すぐさま伸びてくる枝葉に捕らわれる前に娘の躰を引っ張り出す。



 誘われるままに大木に目を向ければ、目を見開くこととなった。
 はらりはらり。豊かな緑は色を失い、枝は萎れ枯れてゆく。
 見る見るうちに、大木が枯れていった。枯れたというよりは、消えていったと言う方が正しいか。最後には、散りも残らなかった。
 茫然と、その様を見ていた。
 まるで、この娘を抱くためだけにそこにあったかのような…


(そうだ。よく考えりゃ、おかしい)


 寺の屋根を突き破っていたということは、寺が作られた当初、そこに木は無かったということになる。
 あの木は六、七百年は生きていたはず。
 樹齢と、文明が一致しない。


(あの木が突然成長し、突然枯れたとでも?)


 とりあえず、依然として眠り続ける娘の躰を支え、床に横たえさせる。結構な勢いで引っ張ったにも関わらず、娘は目を覚まさなかった。


「いったい…どういうこった…」


 ギンコはその夜、娘の様子を見続けた。しかし、心まで癒していくような柔らかな気に包まれて、いつのまにか眠りについていた。