三十六計逃げるが勝ち!
カランカラン。
「すみません、今日はもう、へいてん…で……?」
クルリと振り返ったおれが見たものは、タンバルンの衛兵服を身にまとった見知らぬ大男であった。
開け放たれたドアから差す強烈な西日が男を照らしあげる。夕暮れの逆光で表情が読めないが、男の持つ雰囲気は剣呑として、決して良い雰囲気ではない。
「あの…何かご用でしょうか?」
「君が赤髪の白雪か。なるほどこれは見事なもんですなぁ。」
「は、あの……?」
ジロリと嫌な感じの目線でおれをねめつける男。
名を名乗ることもなく、傍若無人な態度でもって男はとんでもないことを口にした。
「タンバルン国第一王子であらせられるラジ王子が、白雪、あなたを愛妾にと望んでおられます。明日の早朝、迎えに上がりますのでそれまでに身支度を終えるように。」
男が広げる書状には、タンバルン国の紋章が蝋印されている。間違いなく、王族からの書状である。
いや、でも、今、彼はなんと言ったか……あいしょう、相性?ええ……
「はっ?えっ、あ、え?あいしょう……、え?」
「愛妾。お妾ということですな。」
「えっ…そんな、とつぜん、困ります!」
愛妾って、愛人…ってことじゃん、っていうかおれ男だし絶対に無理だし!!とはいえ、今まで女として育ってきて、都合のいいように騙くらかしていた自覚があるだけに、強く言い返すことができない。
そのうえ王子からの書状がある。下手に逆らって、不敬罪で切りつけられたら……?
男が何気なく腰に差しつけられ剣に手を添えた。
この人は国の衛兵で、かたやおれは町の薬剤師もどき。なにが起こったって勝てるはずが無いのである。
どうしよう………どうしたら…。
「では王子からのお言葉は確かに伝えたぞ。明日の早朝、また。くれぐれもおかしな真似はされぬよう。お前はもうラジ王子の物なのだからな。」
「あ…そんな、待って………!」
押し付けれるようにして渡された手触りの良い上質な書状。重さを感じないほどなのに、なぜだかとても重く苦しい。
男が出て行き、薬局に日常が戻る。ドアを隔てた向こうでは、いつも通りの夕暮れ時が流れているというのに、どうしてここはこんなにも寒く感じるのだろう……。
「はあっ……。」
大きく息を吐くと、途端に緊張がとけ、ずるりとその場にへたり込んでしまう。
手のひらでグシャリと握りつぶされた書状が、おれの気持ちを表しているようだった。
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ふと気がつけば、陽はとっぷりと暮れ、あたりは暗闇に包まれていた。随分と長い間、放心していたらしいが、記憶に無い。なんだか気分も悪い。
ああ……。
「これからどうしよう……。」
とは言え、愛妾にはなれない。
だっておれは男だ。
たぶん、ラジ王子はおれのことを女の白雪だと思っている。
のこのこと城へ向かって、男だとバレてもみろ。おれの首と体は一生離ればなれの運命となるだろう。
ううう…ぜ、ぜったいにやだ……。
グッと手を握りしめる。
覚悟を決めるしかないのだ。男にはやらねばならぬ時があるって、父さんも言ってた!(たぶん)
愛妾にはなりたくない、死にたくない。
だとすれば、おれに残された選択肢はただ一つ。
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「三十六計逃げるが勝ち!!!わーははは!」
あれから、おれは放心していた時間を取り戻すように素早く夜逃げの準備をした。日持ちして、かつ使用頻度の高い薬をかばんに詰め込み、なけなしの貯金を内ポケットにしまうと、それから常連さんたちの当面の薬を処方する。
仕様のないこととはいえ、患者を放り投げるわけにはいかない。改めて処方箋を書き起こし、隅の余白に一言走り書きを残すことにした。ヨリさんには、直接会って話をしたかったけど……それよりも今は一刻も早くこの国を発つことのほうが先だ。
いつか身辺が落ち着いたら、また来よう。
ツンと痛む鼻を堪え、おれは生まれ育った国から脱出を図ったのであった。
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