君の声を待ち侘びて

 別働隊を率いていた彼女が、怪我をして運ばれたらしい——

 それを聴いたのがほんの数刻前。本当はすぐにでも駆けつけたい気持ちを抑え、任務だけはきちっと終わらせるのに、それだけ数刻の時間がかかってしまった。
 後始末や細かな報告などは後回しにして、見聞色の覇気を使うことも厭わないまま早足で救護用のテントを目指す。道中、二、三人の誰かを轢いた気もするが、今は気にしている場合ではなかった。

「——ああ、すいやせん……すいやせんね、ちょいと、通りますよ——」

 テントの入り口をくぐり、肩で息をしながら彼女の名前を呼ぶ。しかし、いつもの元気な返事はない。代わりに戸惑うような数人の息遣いと、「少将殿ですが……」と、自分に・・・向けて何かを説明しようとする海兵の声だけがあった。

 そんなに悪いのか——返事もできないくらいだ、意識もないのだろう、そう思うと指の先から冷たくなるような心地がした。容体は、と絞り出した自分の声に重なるように、医療班らしき海兵が「少将殿!」「まだ起き上がっては……」と慌てたように言うのが聞こえ、ああ、身体を起こせるのであれば意識はあるのか、と少しだけ肩から力が抜ける。それ以外はまだ、何もわからないというのに。

 ——その気配がゆっくりと一人でこちらへ近づき、おもむろに裾に手が伸ばされ、軽く引かれる。促されるままに片手を差し出せば、手の甲に左手の感触と、平には、右手が添えられるような温かさがあった。
 その間、自分は彼女の一挙手一投足からその無事を確認し、ほっと胸を撫で下ろしていた。血の匂いもない、おそらく、心配していたよりはずっと、軽傷ではあったようだ。そう考えて、ようやく、冷たいままの身体に血が巡るようであった。
 しかし——ここまで近くに寄ってなお、歌うように軽やかに……共すればうんざりもしそうなほどに自分の名を呼んでいた彼女の声が聴こえない。まさか、と息を呑んだ自分の手のひらを、小さく細い指がゆっくりとなぞる。

「す」「い」「ま」「せ」「ん」……——

 ——のどをやられて、はなせません。

 数十秒ほどかけて、手に書かれたのはそんな言葉だった。
 それは……、と、自分もまた声を失ったかのように黙り込んでしまう。それを見かねてか機を見てか、そばに控えていた他の海兵が「僭越ながら……」と何やら紙のようなものを広げたようだった。

「少将殿が先ほど書き上げた手紙の方を、私が読み上げさせていただきます。えぇと——『海賊の襲撃に遭い、喉をやられてしまいました。しばらくは療養のため声を出すことができません。この状態では大将であるイッショウさんとの連携に問題が出るため、しばらく出撃は難しいでしょう。帰港後、休暇をいただきたく思います』——……と」
「そ……れは、勿論……構いやせんが……」

 小さな指がまたトントンと手の上を叩く。まだ何やら伝えたいことがあるのか、とそのまま待っていると、今度は何だか頼りない弱々しい感触が「ごめんなさい」という六文字を綴る。

「……あんたが謝ることでもないでしょうに」

 ふるふると彼女の指が左右に揺れた、おそらく首を振っているのだろう。そんなに動いても大丈夫なのか、と彼女の頬、首元に手を伸ばすと、肌……ではなく、おそらく巻かれているだろう包帯の乾いた感触が指に触れた。

「他に怪我は」

 また、首を左右に振る。

「……本当ですかい?」

 一瞬、ぴくりと体を震わせて、また、微かに首を振った。

「…………そうですか」

 恐らく嘘を吐いているのだろうとは思いつつ、大事ないと本人が言うのであれば、今はそういうことで良いだろうと手を引いた。ともかく、マリンフォードに戻るまでの間もしっかり船室で休むようにとことづけて、自分はその場を後にする。——その後ろから、いつものように自分を呼ぶ声が聴こえないことに、何か無性に後ろ髪を引かれるようなものを感じながら。
 
 
 
 その夜、不寝番以外の誰も彼もが、自室の寝具に体を横たえる頃。

「…………起きてやすか?」

 コンコン、と軽くその扉をノックする。返事はない……と、考えてすぐに、そういえば彼女は今声が出せないのだったなと思い出し、自身の浅慮さに顔が熱くなった。それでは目の見えない自分は彼女の返答などどう受け取るつもりだったのか、などと恥じながら一歩下がり、「何でもない、忘れてくれ」と。そう告げようとしたところで、何処かから小さく笛の音のようなものが聴こえてくる。

 ぴっ、ぴっ、ぴー……、ぴっ、ぴっ……

「…………『ど、う、ぞ』……?」

 モールス信号だろう。トン、ツー、の組み合わせで鳴るその音は、彼女の部屋から聴こえているようだった。促されるまま恐る恐るドアノブに手をかけると、鍵は開いていたのか、何の抵抗もなく扉は動く。その不用心さに顔を顰めながら、「入りやすよ」と一声かけて彼女のいる船室へと足を踏み入れた。

 ぴー、ぴー、ぴー、ぴー……

 やはりというか、その笛の音は彼女が寝ているらしい寝台から聞こえてくる。今度は、「こんばんわ」という短いメッセージを鳴らしていた。淀みのないその音に、随分と慣れているものだと感心しながら、二、三歩その音の方へ近づいて「それは?」と笛の音について訊ねてみる。

『ふえ、もってる、こういうときのため』

 なるほど、と思わず頷いた。そもそも彼女の能力は偵察向き、自分に何かあっても味方に情報を伝えるため、あらゆる対策をしているのだろう。自分が知る限りでも、彼女はそのような努力ができる人だった、得心と感心に、ほう、と淡く息が漏れる。

『なにか、ごよう』
「あァ……怪我の具合はどうかと思いやして」
『ひると、かわらず』
「まぁ、そうでしょうね……、いや、それだけのために来たわけでもねェんですが」

 彼女の疑問を表すように、ふぃー、と鳴りきれない抜けた音が溢れた。言うか、言うまいか……少し迷ったものの、黙っているのも性に合わず、観念して正直なところを口に出す。

「……笑わねェで聞いて欲しいんですがね、今日は随分と静かだったもんで、少し……——あんたと二人で話がしたくなったんだが。……あっしは目が見えねェ、あんたは声が出せねェんじゃ、話なんて出来ねェことを、忘れていやした。……すいやせん、こいつァ、うっかりしてたなァ……」

 本当のところを言えば。
 意思疎通自体はできなくもないのだ。見聞色でもなんでも使って、彼女の心を覗き見れば良い。
 しかしそれを彼女が嫌がっているのも知っている。それをどうして、自分の欲のためだけにできるというのか。そんなことしなくたって良いほどに、彼女はいつも自分の名を呼んでくれているというのに。

「困ったなァ……、いつも、どれだけあんたに助けられてたか、身につまされる思いがする」
「——、……!」

 彼女が微かに息を呑む。それ以上の返事を望みようもない中、もぞもぞと何かが動く音に耳を傾けた。寝返りでも打ったのかとも思ったが、次いで聴こえてきた、ぺた、ペた、という肌と床の当たる音で、どうやら彼女がこちらへ歩いてきているらしいことに気がつく。しかも、なぜか素足のまま。
 怪我が悪化してもいけない、とそれを止めるために手を伸ばそうとするも、腕が心なしか重い。どうやら既に足元まできていた彼女が袖口を引いていたようで、いつの間にこんなに近くに、と少々驚いた。「どうかしやしたか」と声をかけるも他に何をするでもなく、ただ、しきりに袖を引き、彼女は何か伝えたいような素振りを見せていた。

「……あァ、なるほど」

 昼間のように、何か言葉を書くつもりなのだと思い至り、勢いで彼女をはたいてしまわないようゆっくりと腕を下す。平を天に向け、そこにまたあの小さな指が文字を紡ぐことを想像して——なぜか、そうではない感覚が腕全体を包み込んだことで、驚きに思わず声が漏れた。

「なん……、なんですかい」

 ぎゅう、と。腕に抱きつかれているのだと気づくまでに、数秒ほどがかかる。気づいてからも、少しの間は、何を言っていいのかわからずあたふたするばかりだった。
 そのうち彼女の方から少しだけ身体を離し、今度は手を取って、そこに自身の頬を押し付けるようにまたすり寄る。その一連の行動が小さな動物のようで愛らしく……ああ、なるほど・・・・なるほど、とその行動の理由に気がつくのと同時に、彼女はその体勢のまま手の甲の上を指でなぞり始めた。

 ——つたわる?

「……! ふふ、ええ……充分に」

 同じ気持ちを伝えたくて、頬を伝うようにして彼女の頭をゆっくりと撫でる。抵抗もなくされるがまま、彼女は甘えるようにコートの裾に手を伸ばし、体を引き寄せるようにぎゅうと力を入れていた。……本人にいえば恐らく不況を買うだろうが、こういうところは子供のようでひどく可愛らしい。怪我をした彼女には悪いが、たまにはこういう時間も悪くはないという気持ちになってくる。
 とはいえ——

「……言いてェことは伝わるが、なんだ……あんたの可愛い声が聴けねェのはやっぱり寂しいもんですねぇ……早く良くなってくれるといいが」
「……っ! っ、——っ、!」

 たしん、たしん、と腰のあたりをはたかれて、そのささやかさに思わず口の端が弛む。きっと、治る頃には今の分を取り返すほどにお喋りな彼女に会えるだろう。それまでは、この淋しさも堪えていよう。そうすれば——きっと、次に名前を呼ばれた時は、また、今と同じ気持ちを彼女に返したくなるはずだから。

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