その願いがどれだけ無茶で無謀でも
引き取ったばかりのあの子は、悪い意味で大人しい子供だった。いつも泣きそうな顔をしている癖に、わけを訊いても怯えたように首を横に振るばかり。控えめながらも素直に欲しいものやして欲しいことを口にする分、ロシナンテの時の方がまだわかりやすかったと何度も嘆息したものだった。
「やはり男女の違いもあるのかもしれん」
「まぁそうかもしれんのぉ」
そう言って豪快に目の前で笑う男、ガープに相談したことも何度かあったが、結局まるで役には立たなかった。最終的にはおつるさんとその部下たちに定期的に様子を見てもらうことで今はどうにかやれているつもりではあるが、現状のままでいるのはあまり良いとは言えないだろう。家という一番安らげるべき場所で、いつまでもあのように警戒心を持ったままで過ごさせるのは……。
そんなことを考えているうちにも時間だけは無情にも過ぎていく。その間も海賊による民衆の被害は止まず、私も忙しない日々を送っていた。
しかし夜だけは必ず家に帰り、できる限り食事を共にすることで多少なりとも打ち解けられればと努力もした。目に見えて何かが変わることはなかったが、それでも、何をしないよりも良いだろうと信じて。
そうしているうちに、ひとつ気がついたことがある。——深夜、もうすっかり夜も更けた頃に、あの子が私の部屋の前まで来ていたのだ。それも、一日ではなく、数日に一度。時には毎日のように。
初めてそれを知ったのは書類仕事を持ち帰った日のことだった。作業もひと段落し、残りは明日にしてもう寝てしまおうと思った時、扉の向こうに何者かの気配がしたのだ。
「……? 誰かいるのか」
「——……!」
小さな足音が慌てたように走り去っていく。そして、あの子の眠る部屋の方から、扉が閉まるような音がして、辺りがまた静寂に包まれた。理由はわからなかったが、逃げるということは訊かれたくないのだろうと判断し、その日は放っておくことにした。
だが、それがここまで続くのであれば……。
「……っ!」
「ああ、まて、逃げるな……逃げないでくれ。何か私に用があるんじゃないのか」
ある夜、私は意を決してその扉を開いた。まさか私が出てくるとは思わなかったのだろう、その気配の主——あの子が、驚いた顔をしてそこで固まっていた。数秒の間の後、慌てて逃げ出そうとするその背中に声をかけると、彼女は困惑したように視線を彷徨わせる。
「こ、怖い夢を……見たので……」
難しい顔で見下ろしている私の視線に怯えたのか、彼女は震えた声を絞り出す。怖がらせるつもりは無かったのだが、と気まずさに頭を掻きながら、私はううんと唸り声をあげた。怖い夢を見たからと言って私の部屋の前に来るということは、つまり不安だから一緒にいて欲しいということなのだろうか? しかし、普段の様子からして特にそう思うような相手とは捉えられていないような……。
「……ご、ごめんなさい……」
悩み続ける私の様子をどう感じたのか、いつものように泣きそうな顔をしながら彼女は小さく謝罪の言葉を口にした。なぜ謝る、と訊けば余計に身を小さくして「ごめんなさい」を繰り返す。
「あー……いや、そうだな……これは、断ってくれても構わないんだが」
膝をつき、できる限り小さな彼女に目線を合わせ、そう前置きしてから私は言葉を続けた。
「君さえ良ければ、少しだけ私の話に付き合ってくれないか。……途中で寝てしまっても構わないから」
彼女はポカンと口を開け、しばらくの間何も言わずに黙り込んでしまった。さすがにわざとらしかったか、と次の言葉を考えているうちに、彼女は小さく首を縦に動かした。
「……いいのか?」
もう一度、首を縦に振る。それならばと部屋に招き入れた彼女の横顔は、心なしかいつもよりずっと安堵の色が滲んでいるようだった。
それからしばらくは他愛もない話をした。本当は彼女の話を聞きたかったのだが、まずは心を開いてもらうためにも自分から話をすることにした。任務で行ったことのある国や海の話の時に目を輝かせているのを見ると、きっと本来は冒険心に溢れた子供だったのだろうと思えた。どうにか、そのように振る舞えるようにしてやらなければ、とも。
「……ん、眠いのか」
ふいに、彼女が小さく欠伸をこぼす。時計を確認すればもはや夜より朝も近い時間だった。流石にこれ以上は明日にも響くだろうと、私は「そろそろ寝ようか」と彼女の身体を覆うように布団を掛け直す。
しかし、彼女は部屋の前に立っていた時のように身体をこわばらせ、ほんの少し迷った後に「もう少しだけ……」とか細い声を振るわせた。……先ほど見たという「怖い夢」が、きっと彼女をそうさせるのだろう。
「……どんな夢を見たか、聞いてもいいか」
彼女は黙って目を伏せる。
数秒の沈黙の後、言いたくないのならそれでもいいが、と言いかけた時、彼女が私の名前を呼んだ。急かしてはいけないと思った私は、ん、とだけ返事をして、また話し始めるのを待つ。どれくらいそうしていただろうか、長い沈黙の後に、彼女はようやく口を開いた
「……センゴクさんが、しんじゃうゆめ……」
そう言ったかと思うと、彼女は大粒の涙をポタポタとこぼしながら、声をしゃくりあげて泣きはじめてしまった。私はなんと声をかけて良いかわからず、ただその背中をさすっている。
私は死なないから安心しろ。……などと簡単には言えない。つい先日海兵である母親を亡くしたばかりで、そんな嘘に意味などないことは私自身もよくわかっていた。
……けれど、気休めでも、この小さな子供の心の支えになるのなら……。
「いいか? 知っているかもしれんが、私は相当強い」
ひっく、と、息も整わないまま、彼女は小さな手で涙を一生懸命拭っていた。その手をやんわりと止め、布団の端で目元を押さえると、彼女は少しだけ不服そうに鼻を啜る。
「だから——そうそう死なないし、死なないように努力する。少なくとも、お前が大人になるまでは。……約束する」
じわり、またその小さな瞳に涙が滲んだ。
「どうして、おとなになるまで?」
「ずっとは無理だ、私も人間だからな。……だが、引き取ったからには、お前が一人で立てるようになるまでは、そばに居てやるつもりだ」
それが、責任を持つということだ。今はまだわからないかもしれないが……そう言ってまた涙を拭くと、彼女は小さな手で私の袖を握りしめながら小さく頷いた。
「……よし、今日は寝るぞ。眠れそうか?」
こくり、とまた弱々しく頷く。まだ不安はあるのか表情は固いままだったが、それでも睡魔には逆らえないらしい。背中を一定の間隔で叩いていると、彼女のまぶたは次第に重くなっていった。
「……わたしが……おとなになるまで、なら……」
もうほとんど目も開いていない状態で、彼女が虚な声を出した。ん? と聞き返しても、もちろん視線は合わない。
「私が大人になるまで……死なないでくれるなら……私、ずっと大人にならないでいます……だから、もう誰も、居なくならないで……」
はた、と彼女の顔を覗き込む。もう目は完全に閉じ切って、次の瞬間には静かな寝息が聞こえてきていた。
——これが、私が記憶する限りはじめてのお願い≠セった。その後、この小さな子供が元気な姿を取り戻すまでも、取り戻してからも、私はこのことを忘れたことはない。いつか、その約束よりも優先すべき正義が訪れるまでは……それまでは、必ずこの約束を果たすと決めた。
何も求めなかった少女の、唯一の願いだから、と——
「——そんな頃もあったというのに、今ではすっかりわがまま放題か」
「あの子のわがままなんて可愛いもんじゃないか」
昔の話を肴に、おつるさんと二人湯呑みを片手に息を吐く。本当は酒でも飲めれば良いのだが、あいにく、酔っていられるほど今の海軍は暇ではない。
「だがな、おつるさん、この間はなんて言ったと思う? 『家が寒いからもっと大きな暖炉が欲しい』だと! 私もあいつもろくに家にいないくせに」
「良いじゃないか、それくらい、買っておやり。そもそもあんたの部屋に生活感がなさすぎるのが問題なんだよ」
そう言われてはもう返す言葉も無く。結局あの子の味方を増やすだけに終わってしまった。こうなると、恐らく近いうちに家に業者を呼ぶ羽目になるだろう。……管理が面倒だが、それはもう、欲しがった奴にやらせるのが一番かもしれない。
「そういえば知ってるかい、あの子の好きな男の話。この前、うちの部下たちと話してたんだけどね」
「んぐっ」
唐突に話が変わり思わず飲んでいた茶を吹きかける。なんの話だ、と上擦った声で聞き返すと、彼女は面白がるように「知りたいかい」と口の端を持ち上げた。
「あんたより強くて、絶対に死なない男がタイプだってさ。はは、良かったじゃないか——もうしばらくは、あんたの手を離れそうになくて」
「ああ、それは……なかなか、現れそうにもないな……」
はは、と渇いた笑いを返し、殆どからになっていた湯呑みを傾けた。親代わりの身としては、その手の話題はどうにも苦手だ。
——しかし、本当にそういう者が彼女のそばに居てくれればと思う。私より……とは言わずとも、私くらいには強く、海兵たちと同じくらい正義を重んじる心があり、それでも——正義よりも彼女を大事にしてくれるような、そんな男が。
(難しいことを言っている自覚は、あるが……)
それでも願わずにはいられない。彼女を一人にしないでいてくれる誰かが、
彼女の隣にいてくれないかと、願わずには……。
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