犬も喰わない

「はは、今日は随分と可愛らしい、別嬪さんだねえ」

 すれ違うどこかの中将が彼女にそう声をかける。ありがとうございます、と返すその声はどこかよそ行きで、どこか不思議と居心地の悪そうなものを感じながら彼女の足音を頼りに長い廊下を進んだ。

「すいやせんね、あまりこの辺りは歩き慣れてねぇもんで……」
「仕方ないですよ、特別用事がなければ私も来ることないですからね」

 次は右です、と。案内にもすっかり慣れた少女は少しでも自分を困惑させないよう声に出して行き先を告げる。手間をかけさせて申し訳ないとも思いつつ、しかし単純なようで複雑な間取りに「こりゃあ見えてても辿り着けるか怪しいな」と思わず苦笑いをこぼした。

「そうですか? まぁ、私は慣れていますが……」
「流石でござんす、頼りにしていやす」

 足音を弾ませ、彼女は照れたように笑う。その時ちょうど通りかかった聞き覚えのある声が、挨拶と共にまた彼女に何か二、三言褒めるような言葉を口にして、豪快な笑い声と共に通り過ぎていった。
 本部に長くいる者たちがこの幼気な子供を可愛がることはよくあることだが、今日のは何処か違うらしい。彼女は、向けられた言葉の内容に反してどこか不服そうなため息を吐き、再度自分の前を歩き始める。

「……今日は、なんだ——皆さん、よくあんたに声をかけんだね」
「え、ああ、そうですね……その、ほら、今日は式典があるから、ちょっとおめかししてるというか……」

 ああ、なるほど、と得心がいく。そりゃあ、小さい頃から少女を見ている者からすれば、他所行きの顔してめかし込んだ様は微笑ましいだろう。声のひとつもかけたくなる。反対に、そう見られている方は恥ずかしいやら子供扱いが気に入らないやらで、挨拶の数だけため息も出るだろう。そう納得に頷く自分の方の横で、彼女はもうひとつ息をついた。

「しかしあれだ、そいつぁ……ちょいと勿体ねェなぁ」
「何がです?」
「せっかく可愛くしたってのに、視えねェあっしの側にばかりじゃあ……」

 普段、彼女と二人の時によくそうするように、その顔にそっと手を伸ばした。頬を軽く撫でようとしたところで、彼女は跳ねるように一歩後ろへ退く。まさか触れることを拒否されるとは思っていなかったもので、思わず小さく声を漏らすと、彼女は少し焦ったような声色でこう続けた。

「か……顔はだめです、今日は」
「……あァ! すいやせん、気が付かねェもんで……あんまり変に触って、台無しになっちまうといけねェ」
「いえ、そんなのはどうだっていいんですけど、イッショウさんの手が、汚れてしまうので……」
「ん」

 そんなこと、と彼女は言う。通りすがりに声をかけられるくらいにしっかりと整えたかんばせより、まるで無骨なだけのこの手の方が大事であるかのように。

「洗えばいいだけでしょう」
「顔だってすぐ直せばいいだけです」
「かかる手間が違いやす」
「言うほど変わらないですよ、それに、そんなにすぐダメになったりしません」
「じゃああっしの手が汚れることもないんじゃねぇですかい」
「……万が一でも付いたら嫌じゃないですか!」

 互いが互いに譲らず、半ば意地のようになりながら「いやいや、そちらの方が」と口争う。どんな結論が出ようが何が変わるわけでもないとのに。
 そんな不毛なやり取りを繰り返していると、今度は揶揄うような声で「相変わらず、仲がいい」と笑う声が通り過ぎた。それを聞いた自分と少女はほとんど同時に口を噤んで——それがなんともおかしくて、またほとんど同時に、笑い声を溢した。

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