第三章

「本当に好きになって欲しいって言うなら、少しは言うこと聞いてください」
「ふーん、いいよ」

 半ばやけくそ気味でそう言った私に、彼は事も無げにそう返した。「えー」とか「うーん」とか、ほんの少しくらいは渋るものだと考えていたので、その時ひどく驚いたのを覚えている。

「いうこと聞いたら、ちゃんとご褒美はくれんだろ?」
「いや……そもそも、仕事ですから、きちんとこなすのが当然なんですが」
「それでもだって。ほら、おれって褒められた方が伸びるタイプよ?」

 らはは、と笑う声は未だ不快で、私は「考えておきます」とだけ告げてその日はこれで終わった。その翌日からだった、彼が目に見えて仕事にやる気を出し始めたのと——何かの作業がひと段落するたび、デート≠ニいう単語を口にするようになったのは。


 
「ちゃんと言われた通り書いたぜ? 合ってる? じゃ、デート一回、良いだろ?」
「………………あぁ」

 差し出された書類に目を通しながら、彼のにやけた顔を意図的に視界から外す。端から端までじっくりと文章を目で追って、特に問題がないことを確認してからそのまま彼に突き返した。

「……結構です、よくできていると思います。次からは直接元帥に提出していただいて問題ないかと」

 褒められた方が伸びるタイプ——そのように言っていたことだけは考慮して、自分なりの褒め言葉を羅列する。彼はそれに満足そうに口角を上げてから「んじゃ、デートは?」と世迷いごとをまた口にした。

「しません。そんな暇はないと言っています、いつも。……そもそも、大将殿は中将の私では想像もつかないほど忙しいのでは?」
「らはは、あん時は悪かったって! ま、忙しいのは嘘じゃねえけど、アンタのためなら時間くらい作れるよ、今のおれァ」

 作らなくていい、結構です。と伝え新しく追加された書類の束を渡す。彼は「今終わったばっかなのに」と嫌そうな顔をしながらも、渋々受け取ったそれを一枚、二枚とめくって内容を確認していた。

「……それ、案件ごとに付箋で区切っています。初めの方は内容を確認して、問題なければサインをしていただければ結構ですから」
「! へぇ……そりゃ助かるな」
「一応、今日の午後までにはお願いします。書類自体は急ぎでもないですが、本日は出航の予定がありますので」

 返事は特になく、彼は立ったまま持っていた束の最後の一枚を読み終えると、デスクに手を伸ばしペンを手に取った。本当にきちんと読んで理解したのか? と疑う気持ちがなくはないが、言ったところで彼が内容を読み返す事がないのはわかっていたため、私は彼がサインを書き終えるのをじっと黙って待っていた。

「はい、んじゃ今日の事務作業は終わりでいいわけ?」
「そうですね、それでは出航まで準備と適宜休憩をとってもらって結構です」
「じゃあ出来たよな、時間」

 私は忙しいんですけど。自分でも顔が引き攣るのがわかった。彼もそれには気づいているはずなのに、何事もなかったかのように話し続ける。

「にしてもさ、アンタ随分優しくなったよなァ、前は分けて渡してくれるなんてしなかったじゃん」
「あぁ……以前、貴方が、『わからないから、やりようがない』と言っていましたので……わかりやすくしてあれば、ミスも減るのか、と」
「らはは! アンタやっぱ良いやつだよな」

 優しさではなく、効率を考えただけなのだが。

「んで、このあと時間あるだろ? 街まで飯食いに行くくらいは」
「ありません、出航に向けて積み荷の準備などもありますので」
「そんなの、もっと下の奴らがやってるだろ」
「私も船員ですので、手伝います。……これは私の信条ですので、階級は関係ありません。そういうことですので」

 では、と踵を返そうとした時、彼が不服そうな声で「じゃあ」と私の足を止めさせた。まだ何かあるのか、と呆れ半分に彼の顔を見上げると、拗ねた子供のような顔で彼が続ける。

「じゃあ、キスならいいだろ、今すぐできるし」
「…………は」

 ——なに、何を言っているんだ? この男は。
 時間もかからないし、準備も必要ないし、とぼやくように言いながら、彼がその体躯を縮めるようにしてしゃがみ込む。それでも私より少し高い位置にある顔を凝視しながら、私は彼の言葉を頭の中で、ただ、反芻していた。

「きいてる?」
「ああ、いえ……幻聴かもしれないのでもう一度言ってもらっても?」
「だから、キスならすぐできるし、いいだろって」

 幻聴ではなかったらしい。
 そうであるならば答えはノーだ。何が悲しくて好きでもない男とそんなことをしなければならないのか、と嫌悪感もそのままに言い含めるも、彼は眉間に皺を寄せたまま、思案でもするかのように顎を手で触り、微かに首を傾げてみせる。

「ふーん、でもさぁ、アンタさっき言ったよな、忙しいからって」
「そうですね」
「おれァてっきり、忙しくないなら付き合ってくれんのかと思ってたんだけどよォ」
「……——」

 ——詭弁だ。そうわかってはいるものの、彼が「期待してたんだけど」「そのために頑張ったんだけど」と言葉を重ねるたびに、なんだかまるで自分が悪いことをしているような気になってくる。

「あ〜あ、おれ、もう頑張れねえかもなァ」

 その上そんなことまで言われてしまうと……——

「——…………わ、かりました。一回、だけなら……」

 罪悪感に押され、渋々、そのように返事をすると、何故か言い出したのはアラマキのはずなのに、彼が驚いたように二つの目をぱちくりと瞬かせた。

「言っておきますが、これきりですからね。……目、閉じてください」

 誰にというわけでもなく弁明しておくと。
 この男も腐っても大将、そんなことはまずあり得ないと思うが、もし、もし万が一、本当に仕事をフケるようになれば、一番困るのは現元帥のサカズキさんだ。まさか本当にそんなことは——この男もサカズキさんのことを慕っているはずだし——ないと思うが、それでも、限りなくゼロに近くとも可能性があるのであれば回避するべきなのだ。
 だから、であって、別に無理に迫ることもなく健気にタスクをこなし続ける姿に多少なりとも絆されたなどという事は——

「……あの、アラマキさん? 早く目ェ閉じてもらえます?」
「あー……うん、了解」

 やけにぼうっとしたままの彼がようやく瞼を下ろしたのを確認し、私は身を乗り出し彼の肩に手をかける。背伸びのための支えにしてやろうと思ってのことだったが、改めて触れるその体躯は、巨人族でもないくせに、と妬ましく思うほどの力強さがあった。

「ん」

 息を止め、押し付けるようにして唇同士を触れさせる。それは、わずか一秒にも満たない程の間だったように思う。早々に身体を離し口元を拭う私を見下ろしながら、彼はまたきょとんとした顔をし、かと思えば、全てを理解した上でなにやら吹き出した。

「らはは……! なんだ今の、鳥にでも突かれたかと思ったぜ」
「知りません、一回は一回です、これであなたのお願いは聞きましたので」

 不快な表情を隠しもせず睨みつける私の視線をなんとも思っていないのか、彼はその後も上機嫌で笑い続ける。ひとしきり笑い終えた、というところで、彼は目尻の涙を拭いながら言った。

「別に、マジでしてくれるなんて思ってなかったからよ、いやぁ、得したぜ」
「…………っはぁ!?」

 声が震える。反射的に大声でそう返した私の形相が面白かったのか、彼はまた「らはは」と笑ってから伸びをするように立ち上がった。

「アンタ、チョロいっつーか……あー、あれだ、真面目過ぎるんだろうなァ。やってけないだろそんなんじゃ、死ぬより先に潰れちまいそ〜」

 うるさい、余計なお世話だ。それよりお前、今私を謀ったのか。そう言い返したいのに、あまりの衝撃で私は言葉を失ったようで、うまく声が出せない。はくはくと口を開けたり閉じたりするだけの私の横を、彼は手をひらひらさせながらすり抜けて、「また後で」なんて言いながら執務室を出て行った。

「あ、そうだ——次からは食事とかでいいよ。おれァ、それも楽しみだからさ」

 その言葉を聞き終えたあと、ようやく身体が動くようになり振り向いた時にはすでに遅く、ぴしゃりと閉まった襖だけがそこにあった。彼以外はまず訪れないだろうこの執務室に取り残された私は、一人どうしようもない憤りに身を任せ、声も無く叫ぶことしかできなかった。



clap! /


prevbacknext