第六章
夜というものは、長くあって欲しい時ほどあっという間に明ける。残していけないいくつかの仕事と必要な書類、他を引き継ぐためのあれこれを準備して、ほんの少しだけ空を見上げて想いに耽るなどしていたら、いつの間にかもう太陽は随分と高い位置に登っていた。
時計を確認し、そろそろ元帥に呼ばれている時間となることに気づき、手元のコーヒーを一気に煽る。本日何杯目かのカフェインは、眠気覚ましにちょうど良いはずだったのに、飲みすぎたのか少々頭が痛かった。
「失礼しま——アラマキさん?」
元帥の執務室の襖を開けて、見慣れた背の高い後ろ姿に一瞬気を取られる。しかしその背中越しに元帥がこちらを伺っているのが見えて、私は慌てて姿勢を正した。
「少し待っとれ、アラマキの話とやらが終わってからそっちの——」
「あァ、ちょうど良いや、俺の話ってのはこいつのことなんだけどさ」
サカズキさんの話を遮って、彼は軽薄そうな顔で笑う。上官の言葉を遮るとは何事か! と彼の無礼を押し止めようにも、彼らの体躯に合わせて作られたとでもいうような広さのこの執務室では、その袖を引くには三歩分足りなかった。
「あのさァサカズキさん……——やっぱこいつの異動、ナシにならねぇ?」
「……あァ?」
彼のコートに指が触れる直前、空気がピリつく。その言葉の意味を咀嚼し、彼が元帥に向かって、何を、どうして欲しいと言ったのか。それを理解した瞬間、自分でもわかるほどに血の気が引いた。
「な、何を……っ」
「そしたらおれも、もっとちゃんとするし……まァ、元々やってるつもりなんだけど」
らはは、といつも通りに笑いながら彼は続ける。そんな彼を見るサカズキさんの視線は勿論、たいそう冷たいものだった。私などは横に立っているだけで、それこそ次の瞬間には殺されるのではないかと錯覚するほどに。
——この男、サカズキさんに余計な口出しを……!
なにもイエスマンでいろとは言わないまでも、上官からの……しかも自分ではない人間への指令にケチをつけるなどというのは、私からしてみれば考えられないことだった。なにより、相手はあのサカズキさんだ。海賊たちだけではなく、一部の海兵からも恐れられている、あの……!
一触即発とでもいうような雰囲気の中、私はどうするべきかを必死に考える。サカズキさんを怒らせるのは本意じゃないのに! どちらをフォローすべきなのか? どうして今になって、そんな……。
もはやぐるぐる回る思考は正常とは言えず、同じことを何度も考えては答えの出ないままどうすることもできなかった。そもそも……——
そもそも、私自身は、どうしたい——?
「あ……」
もし、もしこのまま彼が態度や発言を改めず、異動を拒否するだけの根拠も述べられなければ、その時こそ私の辞令は決定的なものになるだろう。そうすれば、きっと、彼に悩まされることもない、以前のような生活に戻れて……
彼が居ないだけの、あの頃に?
——それは、嫌だな。
「お……お言葉ですが、元帥。私も、この異動には反対です」
一歩、私は彼らの間へと進み出る。私が元帥であるサカズキさんに異を唱えるのは、実に初めてのことだった。他ならぬ彼もそのことに大層驚いているのだろう、見たこともない表情で固まったまま、私が話し続けるのを聞いていた。
「これは決して私的な意見ではありませんが……私たちの能力は相性が良く、個々の隊として分けるよりも行動を共にする方が結果、良い結果を残せるものと自負しています。そ、それに、海軍大将としての仕事も振る舞いも、一朝一夕で身につくものではありません。まだ、歴の長い誰かが彼につくべきかと存じあげます。なら、私が、その力になれればと……」
正直、たった今即興で考えた言い訳に過ぎなかった。それらもすべて考慮したうえで、サカズキさんだって「そのほうがいい」と考えて私たちを別隊にすると決めているはずだ。それに、きっとこれがその場しのぎの方便でしかないことにも気づくだろう。彼は人が思うよりずっと、そういった機微には鋭い人だ。
それでも。
「……ふん、お前がええなら、ええわい」
そう一言だけ告げて、手にしていた恐らく私へ渡すはずだった任務の書類をくしゃりと握りつぶし、深く、ゆっくりと、葉巻の煙を吹かした。
「アラマキ」
「ん——」
「言ったからにはしゃんとせえよ」
彼の返答はおおよそ上官に対するものではないにも関わらず、気にする様子もないままサカズキさんは続ける。サカズキさんにとって、アラマキの態度や言動は、私が思うよりも問題ではなかったのだろう、きっと、行動やその中身が問題なだけで。
「……できんかったら、すぐにでもそいつは別のやつにつかせるけぇのォ」
——なら、どうして。先ほど彼が私の辞令を渋った時、理由も聞く前にあれほど怒りをあらわにしたのか、それだけは、最後までわからなかった。
「……意外だな、庇うなんてよ」
「まぁ……」
別に庇ったつもりはないが、結果的にそう見えるのだろう。特に訂正する必要も感じなかったので、私は曖昧な返事でその場を濁しておくことにした。
元帥の執務室を後にし、少し歩いた先で彼はどこからか一本の煙草を取り出して火を付ける。先ほどまではさすがに元帥の手前、仕事の話である以上控えていたのだろう。そんな殊勝な男には思っていなかったが、彼なりの、真っ当な向き合い方なのかもしれないと、そう考えた。
「つーことはさ」
ひとまずの役目を終えたライターごとポケットに手を突っ込んで、彼はほんの少し表情を和らげた。嬉しそう……というよりも、どこか照れたようにはにかんだ、そんな印象のある顔で、こう続ける。
「アンタも——俺のこと、好きになってくれたってこと?」
「——、」
相変わらず、能天気なやつ——! 怒りとはまた違う熱さを頬に感じながら、私は黙って彼を睨みつけた。そんな私を見下ろして笑う、彼の「らはは」という笑い声は、もういうほどには不快ではなくなっていた。
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