第五章

 失礼します。と、ただの挨拶にうわずる声を咳払いで誤魔化して、緊張に固くなる両手足をせかせかと前後させてあの人の執務室へ足を踏み入れた。恐怖ではない、ただ、憧憬のために、私の手の平はじっとりと汗に濡れている。もう何度目の呼び出しかもわからないほどここに訪れているはずなのに、恥ずかしながらいまだにこのような体たらく……流石に不甲斐無さが、少しある。

「来たか」
「はっ! お待たせして申し訳ありません」
「えい、言うほどは待っちょらん」

 元帥は葉巻をふかしながらそう言った。手元には先ほどアラマキから提出されたであろう報告書がいくつか束ねられていて、どうやら彼はちょうどそれに目を通し終えたところのようだった。

「……あの、もしかして、まだ不足がありましたか」
「いや……アラマキのことじゃァねぇ……まぁ、関係なくはないがのう」

 こっちはようできちょる、と彼が書類を軽く叩く。そのことにひとまずはホッとして、改めて背を正し私は沙汰を待つ。何か問題を起こしたのだろうか、であれば一体なんの件だろうと記憶の限りを手繰り寄せながら、そんなことは微塵も顔に出さないようにして。
 報告書の不備でなければ先日の任務先で怪我人が多く出た件か、もしくは、彼の普段の態度の件か……。あるいは私が気づいていないうちに、始末書の必要なナニかでも起こったのだろうか。考えれば考えるほど心当たりばかりがあって、私は先に言い訳をしてしまいたい気持ちに駆られるのをぐっと押し留める。「あれは事情がありまして」なんて、サカズキさんが一番嫌う文句に違いない。

「次の出航は、いつじゃ」
「はっ、はい、急務がなければ三日後の予定です」
「ほうか——なら、その前にアラマキと別の隊として出てもらうが、構わんな?」
「は——」

 はい、と条件反射的に頷きそうになった顔をはたとあげ、私は彼の顔を見る。怒るでも笑うでもなく、ただ淡々と、彼は言ったのだ。つまりはそう、これは、辞令ということで……——

「その……つまり先の件は、大将緑牛の隊から離れる、ということになりますが」
「そうじゃ、……さすがにアラマキもお前に頼りすぎちょる、そろそろ一人でなんでもさしんさい」

 思わずぎくりとして目を逸らす、もしかして、彼は気づいているのだろうか……いや、気づいているに決まっている。先ほどまで彼が確認していた書類の一部、アラマキの大様な筆跡の中に紛れた、彼にしては小さく神経質そうな文字、あるいは注釈の跡、それが、私によるものだということに。
 別に、何もかも説明しているわけでもないし、もうそんなことしなくたってあの人は報告書の一つや二つ、一人で書けるだろう、けど。
 ……けれど、私がそうすることで彼が少しでも早く終わらせられるなら、良いかと思うのだ。彼のためなどではなく、あくまで円滑な職務のためにも……

「お前はあいつを甘やかしすぎるけぇの」
「そ、のようなつもりは……、……いえ、すみません、おっしゃる通り……です」

 反論の余地もなく、私はもう一度「すみません」と繰り返す。彼はそんな私に何をいうでもなく、変わらない声の調子で淡々と、私に任せるつもりだという任務について何かを説明しているようだった。

「まぁ、お前の能力なら難しくない仕事じゃ、兵もアラマキの隊から好きなもんを連れて行け」
「はい、では、名簿を作って大将に許可を……」
「アラマキにはもう返事をもらっちょる。好きにして良い、と……なんじゃ、都合の悪いことでもあるんか」

 戸惑いが出ていただろうか、顔に。私は口では「いいえ」と答えながら、不満でもあるかのように顔を伏せた。伏せてしまった。ハッとして彼の表情を窺うもすでに遅く、彼は、酷く冷たい目をしたまま「話は以上じゃ」と言いつけて、別の書類を手に取ってしまっている。そうなれば私はもう何を言うこともできず、静かに彼の元を離れる他なかった。
 ……結局、思うところがあれど何も言うこともできず、あまつさえ真っ直ぐ彼の目を見て頷くこともできないような私では、何もかもが及ばない。口でどれだけ立派なことを言ってみたって、彼の隣に立つには、覚悟も、強さも、何もかも——

「お、ちょうど良いところにいたなァ!」

 元帥の執務室を離れしばらく歩いているうちに、もう聞き慣れた笑い声が背中越しに聞こえて私は慌てて目元を拭う。振り向けばお気楽そうな顔で笑うアラマキがそこに立っていた。

「……ええ、私もちょうど、探すところでした」

 実は先ほどサカズキさんから——と、隊を離れる事を伝えようとして、ふと、違和感のようなものを感じて彼の顔を見上げる。なんてことはない、いつも通りのニヤケ顔だ。——ほんとうに、いつも通りの。
 彼も、私の辞令は聞いているはずなのに。

「どうした?」
「いえ、私、今度の任務からは緑牛さんの隊から離れることになりましたので、ご連絡を、と……」
「あァ、それね、きいたよ。だから俺もアンタを探してたんだって……引き継ぎ? とかも多分あるんだろうし」
「そう、ですか」

 ——そうだよな。ああ、そうだ。この人は結局そういう人だ。好きだのなんだの言っておきながら、こうなったら簡単に手を離す。惜しむフリも引き止めるようなことも言わず、はいさよならをする人なんだ。
 わかる。正しいよそれが。大人ですものわたしたちは……だけど、普段あんなに子供のようなわがままを振り回しておいて、こんな時ばかり聞き分けがいいなんてそんなの、そんなこと、——あって欲しくないと思うのは、今度は私がわがままなんでしょうか。

「…………では、私の隊へ一緒に連れて行きたい方々についてですけど、まだ当人たちに話はできていませんが本日中には候補を上げておきますので——」
「あ? いいよそんなのは後で。それよりさァ……——今日こそいいだろ、デート。昼でも夜でも空けとくから」
「は」

 仕事の話を「そんなの」とは何事だ! ——と、いつもなら怒鳴りつけるところ、そんな元気は今の私にはなく。彼の発言に困惑したまま黙っていると、その戸惑いを察した彼が「だって今日が最後かもしれねぇだろ?」と、いつもより、ほんの少しだけ寂しそうな——ように見える——顔で言う。

「べ、つに、軍を辞めるわけではないんですが」
「わかってるって、だけどアンタ、おれの部下じゃなくなったら、おれのとこには来てくれねェだろ」

 正直驚いた。あまりにもいつもしつこく声をかけてくるものだから、てっきり好かれている自信があるのだろうと思っていたから。

「わかってたんですか」
「そりゃ、まあな」

 彼は柄にもなく不服そうに唇を尖らせる。見たこともない表情で、「アンタ、やっぱりおれのこと馬鹿かなんかだと思ってるだろ」と珍しい不平を口にして嘆息した。

「よくそこまで脈がないとわかっている相手を口説けましたね。どういう気持ちだったんです」
「早く好きになってくれねェかなって」
「はぁ」

 今度は私もため息を吐く。互いが互いに呆れながら眉間に皺を寄せる様は、いっそ可笑しくもあった。今、自分はどんな顔で彼を見上げているのだろう、鏡でも見なければ、分かりそうにない。それくらい、私は今の気持ちには覚えがなかった。……だらしのない顔を晒していなければいいが。

「で、今日の夜は? 空いてる?」

 空いている——とは言えないだろう。突然の異動だ、時間も準備もなく、やることは山のように積み上がっている。
 けれど、決して、たった一回の食事を断らなければならないほど逼迫しているわけでもなく——

「時間があるなら、後でおれのとこ来てくれよ。あー、多分、いつもと同じように適当にぶらついてるからさァ……」
「……ええ、そう、ですね。時間が、あれば……」

 何処を? とは聞かなかった。彼の誘いに乗る気はなかったから。……別に、最後だというのなら付き合ったって良いと思ったし、認めるつもりもなかったがそうしても良いと思うくらいには彼への情もあった。けれどそうしなかったのは、今更どんな顔で彼と正面から向き合えばいいのかわからなかったのと——もし、今日ここで彼の誘いに乗れば、本当にこれが最後になってしまう気がして、臆したのだ。

「——ん」

 待っているとは言わず、彼は私の横を通り過ぎた。コートの袖がかすかに触れ合うのが、余計な淋しさすら感じさせるようだった。
 結局、私は彼のところへ行くことはないまま……——そして最後まで彼が、私に指一本触れることもないまま、忙しなく苛立たしかったはずの日々は、終わりを告げる。


clap! /


prevbacknext