短くはない時間が、穏やかに過ぎていった。
黒子は浅い眠りを幾度かくり返していたが、状況が落ち着いているせいか精神的な乱れはほとんどなくなっていた。眠って起きる度、体のどこかに友人達の体温を感じていたせいかも知れない。
暑い、寒い、といった感覚は薄く、時折背筋にぞっとした感覚があることで発熱していることを自覚した。
体は重いというよりもふわふわして、自分の体ではないように力が入らない。
身じろぐと頭部で凝った熱が揺らいで、足の先から痛みが突き上げてくる。
状態がいいとは決して言えなかったが、黒子を不安にさせないためだろう、誰もそれを指摘しなかったし、自分から不調を訴えることもなかった。
不安は確かに心のどこかに巣食っていたが、昨夜の恐怖から逃げ通せた安堵は幻のような淡い自信をもたらしていたし、何より話は尽きなかった。空気を凍らせてしまうのが惜しかった。
陽の当たる廊下に座り込んで、離れていた時間を埋めるように、たくさんの話をした。
部活のこと。学校のこと。授業の進み具合。友人達との笑い話。何より、それぞれが得た新しいバスケのことを。
大会で見せた進歩を称え合い、称えるだけで済まずに散々に駄目出しをし合い、半ば喧嘩になって、最終的には笑い転げた。
それはまるで。
「赤司君」
緑間に掴まれた手をそのまま、複雑な文字を書き続ける赤司に、邪魔をしないようそっともたれかかる。
視線一つ向けては来なかったが、「何だ?」と鷹揚に返した赤司は黒子が体を預けやすいよう僅かに角度を変えてくれて、変わらないな、と思った。
「僕らは今、どこにいるんでしょう」
それはまるで。
全てがまるで。
失った日々の、続きのようで。
あの日どこかに埋めてきた、キラキラした何かを、時を置いて掘り起こしているようで。
「……それは感傷か?」
「━━━はい。感傷です。ただの」
もう一度、みんなでバスケがしたい。
なんの澱もない澄んだ場所でそう思った。
ボールを追って全力でコートを走り、そうして最後に拳を合わせて。晴れやかに笑い合って。
そんな風に思える日がまた来るなんて、あの頃は思えなかった。二度と取り戻せないだろうと覚悟して、それでもせめて彼らに思い出して欲しくて、縋るような思いで新しい光を、居場所を求めた。
だけど、それでも本当は、どこかに捨てられないものを抱え続けていたのだ。
言葉にすれば未練と言うしかない、けれど多分もう少し、切実で大切な願いを。
「欲が出てしまいますね」
「いいじゃないか。欲というのは希望だよ。お前が今、明日が来ることを信じられているということだ」
「そうですか」
「そうさ」
囁き合うような小さな会話が耳に届いているのだろう、緑間の手に僅かに力が込もる。
青峰と黄瀬は紫原の今冬の新作菓子論評に食いついていたが、夢中なように見えて3人とも時折黒子を気にしているのがわかった。
一度無用なものとして切り捨てられているからこそ、━━━少なくとも黒子はそう感じていたからこそ、胸の奥が微かに締め付けられる。
帰りたいという願いは昨日よりも遥かに強く胸に渦巻いていた。こんなあやふやな場所ではなく確かな現実で、今度こそ何の凝りも残さずに、新しい関係を始めるのだ。彼らと。
その思いは確かに、希望として黒子の胸を暖める。
全員の財布から掻き集めたレシートの最後の一枚に赤い文字列をしたためて、一つ息を吐いた赤司は静かにペンにキャップをはめた。
終わったのかと目で訪ねてくる5人に首肯を返し、もたれかかる黒子を片手で支えながら姿勢を正す。
「さて。お前達、雑談は一旦終了だ」
「作戦会議っスね!」
「どんくらい出来た?」
「紙という紙を捌いたが、100枚には満たないな。まとめて投げ付けるという使い方は控えたいところだ。真太郎、スレッドは?」
「大きな進展はないのだよ。移動調査班も戻っていない」
「3時半か……。事が動く前に戻ってくることを祈りたいところだが」
「昨日は何時くらいに日没でしたっけ?」
「スレ立ってから日が暮れたから5時過ぎじゃない〜?」
思うように動けない黒子を中心に半円を作り、各々携帯を開く。
札の準備が出来たことを住人達に報告し夜への備えを相談すると、幾つかの好戦的、消極的な意見の後に、風合いの違った意見が落ちてきた。
個々の適性という話が出て以降、スレの中でも助言の色合いが変化してきている。より専門的な、つまりは非現実な手段を用いた方向へ。なるほど、オカルト板の本領発揮といったところだろう。
「結界か……」
「お札もだけど、こういうのって素人がやってもちゃんとしたのできるんスかね。多少の効果があるのはわかったっスけど、なーんか信じ込んじゃうのもちょっと不安」
「籠城ってさァ、効果ありゃいいけど、なかった場合袋の鼠なんじゃねーの」
「しかし、黒子を動かさずに対処できるならそれに越したことはないのだよ」
「いざとなったら俺が黒ちん担いで逃げるしー」
「まあ、大輝より扱いやすいサイズなのは確かだね」
「屈辱です」
「この場合においては褒め言葉だよ」
「屈辱です」
申し訳ない、とは言わない。言ったところでかえって負担に思わせるだけだし、足枷がなくなればどこかへ逃げられるというわけでもない。
全員で次の朝を迎えるために最良の手段を探すと言うのなら、怪我をしている黒子の存在は考慮せざるを得ないのだ。
足手まといとなってしまった詑びは、現実の世界に戻ってからする。そう腹を括った。
「……やってみよう。方角というのはこの場では関係ないだろうが……」
「一応でも気にするなら壁に方角貼ってある教室あったっスよ」
「そんなところあったか? 気付かなかったのだよ」
「ありましたよ、二階に。四方かはわかりませんが、天井近くに方角の書いた紙が貼ってありました。授業で使ったんじゃないでしょうか」
「なるほど。階段を使用するのは少々気が引けるが……」
「さすがにもう日が暮れるまで出て来ないんじゃねえ? 走って登りゃーすぐだろ」
言いながら5人はもう立ち上がっている。
よろめきながら続こうとする黒子を、緑間と赤司が両側から引き上げて、程よく空いた脇に「え」と思う間もなく紫原の手が差し込まれた。
ひょいと子供のように抱き上げられ、尻の下を持たれる。
ひどい。どう考えてもこれはない。おとうさんか。
「黒ちんほんとわたあめだよね〜」
「屈辱のあまり憤死寸前です」
「この場においては褒め言葉〜」
「屈辱です。血管が暴動寸前です」
わなわなと震える黒子の頭をにこにこと黄瀬が撫でて来るのを、八つ当たりで力の限り叩き落とした。
絶対に礼など言うものか。絶対にだ。
全員揃って廊下の端まで行き、影になった階段の手前で止まる。
影と言っても、階段の踊り場には明かり取りの窓があり、暗いわけではない。
廊下の窓から落ちる光が途切れる線をしばし見やり、赤司は腕時計の気温表示を確認する。24度。
「行こう」
「走るか?」
「変化があればでいいさ」
気負いもなく言ってためらいなく日陰へ足を踏み入れる赤司を、顔を見合わせながら慌てて追った。
先ほど女児が立っていたその場所だ。
緑間が赤司のすぐ後に続く。黄瀬は紫原に抱き上げられた黒子の足首を掴み、落ち着き無くきょろきょろと周囲を見回している。末尾の青峰は背後を気にしながら、半分横向きの状態で階段を上がり切った。
ほんの何秒かの移動だったが、二階の日だまりに立つと赤司以外の全員が息を乱している。かいた汗は気温ではなく緊張によるものだ。
「何だ、情けないな」
「お前が異常なんだっつーの! 心臓に毛でも生えてんじゃねーのか」
「残念ながら、体毛は薄いほうだよ。内蔵にまで生えているとは思えないな」
軽口を叩きながら、黄瀬が示す教室の引き戸を引いた。
見回せば確かに、天井のすぐ下に半紙に筆で書かれた方位が見えた。
「北がそこ……位置からすると真っ直ぐではないですよね、多分。廊下側は南西ですか。どうりで日当たりがいいはずです」
「っスね」
「なかなかいい"城"じゃないか。準備を始めようか」
位置を確認し、指示された通りの方角から、時計回りに即席の札を貼っていく。
レシートの裏に書いた御札を、テーピング用のテープで貼って作る結界。遊びのようだが皆真剣だった。
各方角を意識して壁に五ヶ所。抱き上げられたついでに黒子が天井まで手を伸ばし、更に四ヶ所。床の四隅と、中央にも。
スレで指示を受けた緑間が印を切りながら貼っていった結界は30分程度で完成したが、完成した、と言われたところでそこにいる者達には何がどう出来上がったのか、さっぱりわからなかった。
「……何か全然わかんないんっスけど! これほんとに効果あるんスか!?」
「信じるしかないのだよ」
「効果なきゃ逃げるだけだろ。あと何だって?」
「障壁だな。入口の前に障害物を……棚を動かして重ねるか」
「子供の目線から中が見えなきゃいいんだよね〜?」
「ああ。間違っても入口を塞ぐなよ」
「おっけー」
役目を終えた黒子を床の中央付近に下ろし、腕まくりをしながら紫原が教室後方のロッカーへ向かう。荷物を置くためだけの、戸のない木製棚だ。今は何も置かれていない。
少し前へ倒してみて固定されていないことを確認し、それを持ち上げようとした瞬間、ピクリと背中が波打った。
彼の行動を目で追っていた黒子と赤司だけが、その異変に気がつく。
「敦?」
「紫原君?」
声をかける先で、紫原がきょろりと周囲を見渡す。
2人の声に残りの3人が振り向こうとした時だった。
空気が震える。何事かと思考する前に、全員が一斉に黒子の周囲に駆け寄って来る。
踏み出した数歩目で、全員が気がついた。
大きく。
大きく。
耳に響くそれは、体の中までを震わすように響くそれは、全ての始まりに聞いた━━━。
「……なるほど、これが始まりの合図か」
「うえー、チャイムってもっと控えめな音だった気がするんスけど!」
「主張が激しすぎなのだよ」
吐き出される幾つかの文句にかき消されるような小さな声で、青峰が「大丈夫だ」と呟く。背中を何度か叩かれ、黒子は自身が息を止めていたことに気がついた。
ゆっくりと吐き出し、額に浮いた嫌な汗を拭う。
「びっくりしました」
「胸糞悪ィな。準備整うまで待てっての。おいテツ、スレに報告し……?」
言いかけた青峰が途中で言葉を途切れさせる。同時に紫原の肩がビクリと跳ね上がり、2人の反応に気づいた黄瀬がすごい力で黒子を引き寄せた。
激突するような勢いで顔から肩口に突っ込み、痛みを訴えようとするがそれも叶わない。
窒息するほどきつく抱きしめられ、腰を手繰り寄せるようにして膝の上に抱え上げられた。
半ば引き摺られる形になった黒子がもがくが、気にする様子もない。余裕がない、というべきか。
「き、黄瀬君、大丈夫ですから、ちょっと緩めて下さい、苦し……」
「あ、ご、ごめんっス」
謝っては来るが、僅かに姿勢を改めただけで力は緩まない。仕方なく腹に肘を叩き込もうとした黒子は、しかし動く前に黄瀬ごと姿勢を崩した。
何が起こったのかと考える前に、ものすごい衝撃を受けて全員が床に沈み込む。悲鳴は凄まじい轟音にかき消され、教室内のあらゆるものが転倒し床を滑る。建物が揺れているのだと気づいたのは数秒後で、気づいた瞬間には何もかもが手遅れだった。
日暮れなどではありえない唐突さで全ての光が失われる。
しばしの余韻を残して揺れが収まると同時に、赤司が壁に向けて走った。
何も見えていないはずなのに、迷いのない足音が数歩を進み、すぐに教室の中が明るくなる。教室の中だけが、明るくなる。
「……なるほど、こう来ることも予測はしておくべきだった」
息を切らせながら呟いた赤司の顔には、尋常でない汗が浮かんでいた。後ずさりながら戻ってくる彼の視線は廊下に面したドアに向かっている。
指示に従い開かれたままのドアの向こうは、窓の外と同じような重い闇に閉ざされていた。
本当はその闇と教室内の間に、障害を設けているはずだった。子供達の視線から室内を隠すための壁を。
それが、ないまま。
辺りを見れば確かに倒れたはずの棚や机は整然としている。この教室だけが無事に保たれた状態だ。外からはきっと、明るい中の様子がよく見えることだろう。
「どうすんの、赤ちん〜…」
「さて、どうしようか」
「結界は機能しているようなのだよ」
「今はなー」
「と、とりあえず黄瀬くん、ほんとに、苦しいです。幽霊が来る前に僕が幽霊になってしまいますから、」
「あああごめん……!!」
手を緩めてもらって、ようやく大きく息を吸う。吐き出すと同時に自分以外の呼吸音を聞いた気がして、背筋に冷たいものが走った。
そっと視線だけで周囲を見回し、異変がないことを確認する。
今のうちに障壁を立てるかと紫原が言い出したが、腕時計を顔の前まで持ち上げた赤司は静かに首を振った。
13度。手遅れと思うべきだろう。大きな音を立てることも、入口の側に寄ることもこうなっては控えたい。
「とりあえず札を分けておく。使い方は覚えたな」
「構えて九字切って投げる〜」
「横から切るっス!」
「やべえな、俺らの知識オカルトマニア並になってきたぞオイ」
「ここ以外では役に立ちそうもないのだよ」
軽口を叩き合うが、誰の目も入口から離れない。スレに報告すべきかとも思ったが、どうしても視線を携帯に集中させられない。
誰の身にも、昨夜の恐怖がありありと刻み込まれていた。
それでも恐慌状態になる者はいない。
誰の中にも、昨夜よりは落ち着いて対処できるという自信があった。
昨夜の自分達の行動の中に対抗手段が隠されていたことを知ったからかも知れない。明るい中とは言え、実際に子供を退けたところを目の当たりにしたからかも知れない。
けれど、得体の知れない、理解不能の相手を前にしたささやかな"自信"は"油断"と同義であることまで、彼らは自覚できていなかった。
昔のように心が近付いたことで、こいつらと一緒なら大丈夫、なんて、甘い気持ちが芽生えてしまったのだ。
だから。
後に訪れる長い、長い別離に、彼らはまだ気付いていなかった。
気付けていなかった。
誰一人として。