別れ路

教室の中には子供の丈に見合った小さな机がいくつか並んでいる。
 全校生徒6人。学年に関わらず、全員が同じ教室で学ぶ事を考慮した机の数だ。
 体の大きなキセキ達では机を椅子にしてもまだ低めという高さだったが、誰も机に腰を掛けようとはしなかった。ここで学び、今や化物となって校内を彷徨う哀れな子供達への、それはせめてもの弔意だった。
 座る代わり、バリケードにと中央よりやや入口寄りに机を並べる。
 後は窓に寄り過ぎない場所に全員固まり座り込んで、言葉もなく入口を見つめ続けた。
 教室の中のものは揺れの後全て元に戻っていたが、壁の時計だけが壊れたようにその時間を止めている。16時42分。彼らの命がこの世から永遠に失われた、恐らくはその時間だろう。

「出るならいっそ早くしてくれって感じっスね……」
「本気かよ」
「ごめん、嘘っス。出て来られるくらいならずっとこのままでいいっス」

 頼りなく言いながら、肩に顔を擦り寄せてくる。
 事が起こってからずっと黒子を膝の上に乗せて抱え込んでいる黄瀬は、もはやその役を他の者に代わるつもりはないらしく、何度も姿勢を変えては触れ合う場所を増やしていた。黒子を護ろうとしているというより、一人で座っていると不安で仕方がないのだろう。
 恐らく同じ理由で替わりたがる相手を自分の役目と突っ張ね続けたせいで、終いには紫原が拗ね始めた。
 代わりに縋ろうにも赤司は気を張り過ぎて、寄らば斬ると言わんばかりの殺気を放っている。仕方なく青峰の背中に背中を付け、頬を膨らませながら膝を抱えてしまっている状態だ。
 可哀想だとは思うが、寒くて抱え込まれた腕の中から抜け出す気にはなれなかった。
 赤司は何も言わないが、時計を見る度に舌打ちしているところを見ると気温は下がり続けているのだろう。
 時間の経過はよくわからない。携帯は開いているが、誰もスレッドを見ていないから時間がずれて来ている可能性は大いにある。時計はもはや信用できないだろう。

「どうして何も起こらないんでしょうか……中、丸見えですよね……?」

 誰にともなく呟く。多分、と口にしたのは不機嫌そうな顔をした青峰だった。

「多分、結界だけでもある程度の目隠しにはなってんだ。何度か変な気配してっけど止まらずに行き過ぎてる。俺ら探してその辺ウロウロしてんだろ」
「俺らっていうか、黒ちんだよね〜。人型ニセモノだってやっぱバレたんじゃないの」
「得られる感覚に差異がありすぎるというのは心底不便だな……。敦、お前にもわかるのか?」
「ずるずる音して、何か来たなーって感じは何回かしてるー」
「黒子はどうなのだよ」
「わかりません。時折すぐ近くで呼吸の音が聞こえる気はします。気配が近過ぎて、僕には距離感が掴めません」
「ちょ、やめて黒子っち!」

 やめてと言いながら更に腕に力を込めてくる彼は、子供達の標的が黒子だと本当にわかっているのだろうか。つかの間の安心感は得られるかも知れないが、事が起これば最も危険な位置なのに。
 今のうちに離れていた方がいいのかも知れない。
 昨夜の事を思う。それが最後の最後になっての判断だとしても、いざと言うときには手を離す心積もりを求めておいたほうがいいのではないか。怒られるとしても、頭にあるのとないのとでは咄嗟の行動が変わってくる。
 意を決し、口を開こうとした、その瞬間だった。

 かたん

 これまでの自分達が立てる微かな物音とは明らかに異質な、乾いた音が鳴り、全員が呼吸を止めた。
 誰も入口から目は離していない。何も見えない。だけど。

 がた

 がたがたがたがたがたがたがたがた

 開かれた引き戸が不自然な振動を始め、誰かが唾を飲み込む音が大きく耳についた。
 まずい、と赤司が小さく呟く。僅かに上向いた顔の、恐らく視線が向いているだろう先を追うと、揺れる戸の上、天井の角近くに貼られた札が僅かに黒ずみ始めていた。

「早すぎるのだよ」
「即席の素人仕事でここまでもった事が奇跡と思うべきかも知れないな……」
「んなのどうでもいいんだよ。どうすんだ!」
「さて、どうしようか。完全に結界が破られるまではこのままかな」
「黄瀬ちん、黒ちん渡しちゃダメだよ〜」
「当たり前っス!」

 頭上で交わされる会話を、黙したまま聞く。
 離してください、いざとなったときに動き難いです、くっついていると危険です。
 頭を巡る言葉は、しかし喉に張り付いて一つも声にならない。
 胸に置いた手にこもった力をどう捉えたのか、黄瀬は笑顔になると「大丈夫っスよ!」と背中を叩いてきた。ぽん、ぽん、と宥めるような一定のリズムが、どうしてだろう、たまらなく不安を煽る。

 黒子は揺れる戸を見つめ続ける。ああ、きっとまだ誰も気づいていない。戸の淵にかけられた、ニ対の小さな手に。
 震えの大きくなった黒子を見下ろし、黄瀬は僅かに首を傾げる。その目が凝視する先を丁寧に追って目を凝らし、そして全身を凍らせた。

「……赤司っち」
「何だ」
「見えてる?」
「何が」
「━━━!! テツ、お前何を見てる!? 黄瀬、見えてるなら口にしろ、オレたちには見えねえんだよ!」
「な、何でオレ」
「黒子がそこにいるせいなのだよ。オレ達も黒子に触れているときだけは見えていた」
「子供……が、います」
「何人」

 尋ねられ続けようとするのに、体が、喉が凍って、音を作れない。こんなに遠いのに、耳元で荒い呼吸音がする。
 くり返しくり返しくり返し、名前を呼ばれている。ここに来て感じたこともないほどに怒っている。求めるものが隠されたことに。見知らぬ者の手によって故意に引き離されたことに。手の届かない場所へ逃げようとしたことに。
 視線を向けなくても黒子の様子がわかったのだろう、ごくりと大きく唾を飲み込んでから、2人、と答えたのは黄瀬だった。

「多分、2人っス。ドアに手をかけてこっち覗き込んでる。目と頭と指先だけ見えてる状態っス。やばい何アレ、黒子っちあんなんずっと見てたの? ごめん、オレ黒子っちが怖がってるの全然理解できてなかったかも」

 言いながらそっと、しかし強い力で、彼らの目から黒子を隠すように体を反転させる。
 ああ、駄目だ。駄目です黄瀬君。それは━━━。
 黒子の体が完全に彼らの視界から消える。消えると同時に。

  バァン!!!!

 戸が激しい音を立てて吹き飛んだ。
 全員の肩が跳ね上がる。粉々になった戸が床に散らばり凄まじい音を立てたが、全ての木屑が床に落ちた、次の瞬間にはもう引き戸は元通りの形で入り口に収まっている。
 復元する寸前、境界の向こうの闇の中から鬱々とした目を向けていた少年の姿が、黄瀬の目にくっきりと焼き付いた。
 血と土で汚れたボロボロの服。ところどころがありえない方向に折れ曲がった四肢。頭皮、瞼、半分の唇が損失し皮膚の下の組織が斑らに見えている。剥き出しになった歯をきつく噛み締め、真っ赤に充血し腫れ上がった目で室内を睨んでいた。
 怨霊、というものをそのまま形にしたようなおぞましい姿に、恐怖を突き抜け吐き気が襲う。

 立っていたのは1人だったが、覗き込んでいた子供とは違った。
 3人目が見えた。多分全員いる。
 乾いた声で伝えると、赤司の口かららしくもない舌打ちが漏れる。
 壁に貼られた札にも染みが浮き始めていた。明らかに入口側から負荷がかかっている。他の札の状況を素早く目で確認したリーダーが迷うことなく攻撃へと意識を転じたのを悟り、皆姿勢を正す。
 赤司は懐から出した札を指に挟んで構えると、スレッドで教えられた通りの所作で素早く九字を切り、呪を唱えた。
 札を相手に触れさせる必要はない、との言葉通り、離れた場所だと言うのに『ぎゃおっ』と動物じみた悲鳴が場に響き、戸に張り付いていた骨の覗く一組の指が消える。投げたはずの札はどこにも見えない。
 ピタリと止んだ戸を震わす音に、何が起こったのかと、試した本人ですら少々唖然としていた。

「子供一人、ふっ飛んだっス、多分……」
「赤ちんすげ〜!」
「まさかの効果なのだよ……」
「お前マジ拝み屋になれよ。儲かるぜ、多分」

 予期せぬ攻撃力の発露に場の空気が和らぐが、黄瀬と、体を捻り入り口を覗き見た黒子は顔色を失う。
 何もかもが、効き過ぎていた。そう、効き『過ぎて』いたのだ。
 入り口の向こうに這いずり現れた子供の顔は、幾度か見たそれとは一線を画す形相になっていた。
 怒りに歪み切った醜悪な口元から、煙のように煤けた呼気が立ち昇る。呼応するように壁や天井、床に貼られた札が灰色に染め上げられていく。
 入り口の線を這い越えようとした子供が何かに遮られ止まる。無理矢理体をねじ込もうとするが、境界に触れる肩が泡立ち、火傷のような炎症が広がっていくのが見える。
 その光景と室内に充満していく腐臭に、黒子を抱えたまま黄瀬は口元を押さえ俯いた。堪えてはいるが、嘔吐く度怖いくらいの勢いで胸部が波打つ。
 触れているから見えてしまうのだ。慌てて離れようとするのに、意固地な腕は更なる力を込めて黒子の体を押さえつけた。

「黄瀬君!」
「ダメ、ダメ黒子っち。くっついてて。さっき揺れた時みたいに誰も動けない状態になったらどうすんの。自力じゃ逃げられないっしょ!」
「でも……!」

 言い合う声に、更なる攻撃を加えようとしていた赤司と緑間が振り向く。
 目が合った瞬間激しく首を振る黒子に、再度入り口に目をやった赤司は構えていた札をポケットに戻した。緑間のことも手で制止する。

「大人しくしとけ、テツ。おい、赤司、紫原、テツに触れ」
「青峰君!? 何を言って━━━」
「自分達が何を相手にしているのか、一度見とけっつってんだ。オレらにはあの黒いのと血走った目の様子だけであいつらの状態想像できっけど、赤司なんか奴らがやべえレベルで怒り狂ってんのもわかってねーだろ」
「━━━なるほど、正論だな。大輝に鈍いと言われるのは心外にも程があるが」
「ていうか黒ちん俺が持つってば〜」

 流石にもう、全員の目に何者かが侵入しようとしている様子は見えていた。一体ではない異形の影が結界を破ろうとしていることもわかる。しかし個々の感じ方、見え方はまるでまちまちだ。
 はっきりと視認できている黒子や黄瀬、感情の波を感じ取れる青峰や紫原にはこれ以上彼らを刺激することの危険性が見えるし、彼らをはっきりと見た緑間にはその様子が想像出来たが、赤司には恐らく攻撃の手応えしか感じられていない。
 今更ながらその恐ろしさに気がついて、黒子は無意識に肩を震わせた。
 そんな状態の彼らを、昨夜は囮にしてしまったのだ。今全員が無事に揃っているのは奇跡としか言い様がない。
 入り口から目を離さないまま小走りに下がってきた赤司が、黄瀬の腕から黒子の上半身を奪い取る。と同時に、紫原に頭を鷲掴まれる。
 これ後で思い出したら黒歴史だな、と呟きながら、代わりに青峰が前に立ち塞がり、札を手にして身構えた。

「うへ……」

 紫原が緊迫感のない、心底うんざりしたような声を上げる。赤司は無言のまま、表情一つ変えず、ただ静かに口許に手を当てていた。
 今黒子の目にはっきりと映っている子供は3人。前の戸の奥にも1人分の影。逃げ道は完全に塞がれている。
 そのどこまでが彼らにも伝わっているのかわからないが、少なくとも入り口に這い蹲り憎悪の目を室内に向けるあの子の姿ははっきりと見えているに違いない。
 床に伏しのたうち回る、慣れようもない凄惨な姿。戸に手をかけて覗き込み、悪意の塊のような表情でニタニタと笑っているのは、先ほど紫原の前に立っていた少女だ。

 彼らが蠢き、結界に接触するごとに、札は灰色を濃くし黒へ近づいていく。赤いインクの色が沈んでいかないことでまだ効力が生きていることが知れるが、このままでは幾らももたないだろう。

  ど うして よん で く れない の?

 突然耳に届いた幼い子供の囁き声に、黒子はぎょっと身を竦ませ、体を離そうとする赤司の制服にしがみついた。

「黒子?」

 怪訝そうに尋ねられるが、忙しなく周囲を見渡す黒子の耳には届かない。

  もう き らいに なった の?

 胸の中の何かをえぐるような言葉。幾つもの声が重なり合って頭の中に直接流れ込んでくる。

  いっしょだったのに

  たのしかったのに

  うれしかったのに

  もういらないの?

  どうして?
  どうして?
  どうして?

  どうしておいていこうとするの?

 わからない。これは誰の言葉だ? 誰の声だ?
 凍りつく黒子を再び黄瀬の腕の中に押し付け、赤司が立ち上がる。



  ね え   そ こ  に    よ   ん で  よ ぉ



「……く、は」
「黒ちん、答えちゃだめ」

 同じ声を聞いているのだろう紫原が、どこかが痛むような顔をして口を塞いで来て、言葉の代わりに意識しない涙が溢れた。
 胸の奥が引き攣れる。頭の中がぐちゃぐちゃに掻き回される。どこか遠くに置いてきたはずの痛みが、切なさが、苦しさが、力ずくで目の前に引きずり戻される。
 そばにいるよと。手を伸ばしてと。迎えに行くから、そこに呼んでと。
 いつかの幼い自分が求めたままの言葉で。

「真太郎、来い」
「赤司! どうすんだ!?」
「結界を修復する。大輝、敦、何があっても少しの間は耐えろ。涼太、絶対にテツヤを渡すなよ」
「へーい」
「りょーかい」
「黒子っちはオレが護るっス!」

 子供達の意識が全く自分達に向いていないことを早々に悟り、赤司はポケットから再び札を取り出す。
 入り口と黒子達の間に青峰が、僅かに後ろ、2人の姿を視認できる位置に紫原が立つ。
 躊躇いなく子供達のいる戸のそばまで歩み寄る背中を、緑間は驚愕しながら追った。"わかっていないこと"はわかってはいたが、彼の精神構造は正しく理解し難い。
 しかし実際のところ、赤司の精神は何の複雑さも持たない単純な焦りと怒りの中にあった。
 目の前に見えるのは人の形をうっすらと映す黒い固まりだ。蠢くそれの正体を、赤司はもう知っている。
 しかし闇の中の異形より、自分の服を掴んだ黒子の震える手の方が恐ろしかった。その姿を見たからこそ、奪われることの恐ろしさを意識した。奪われようとする黒子の恐怖を痛感した。
 赤司はこの不可思議な空間に連れ込まれて初めて、真実の意味で恐怖を覚えていた。怯えていた、と言ってもいい。これでは鈍いと哂われても文句など言えない。

「影響を受けた一部だけではだめなのか。時間がないのだよ!」
「駄目だ。せめて壁だけでも時計回りに。逆順では逆に呼び込むとまで言っていた。下手な省略をすればどうなるかわからない━━━が、札の数は増やしてみよう。増量が効果を増幅するのか知らないが」

 赤司が素早く貼り付けた複数枚の札の前で、緑間が手印を切りながら呪を唱える。
 何が起こった訳でもないのに子供がむずがるような仕草を見せて、ある程度の効果が見込めることを悟る。
 まだ結界は完全には破られていない。無理矢理押し入ろうとされているだけの状態だ。補強は叶う。
 微かな希望が、赤司達の中にも、黒子を庇う形で構える3人の中にも芽生えた。
 それでも決して、彼らは調子に乗っていたわけじゃなかった。
 己の力を過信していたわけでもないし、敵を侮ったわけでもない。できる限りのことを必死にやろうとした。
 だからそれは、明確に、『限界』だったのだ。
 人の子の力が及ぶ範囲の向こうで、どうやっても手の届かない場所で、全ては動いていた。
 だから、認めたくなくとも確かにそれは、仕方がないことだったのだ。

 ぱりん、と。

 薄い氷が割れるような微かな、ほんの微かな音を耳に留めた。
 手の中で焦げるのではなく凍てつき、白い煙を上げながら崩れ落ちたオモチャのような札に、その痛いまでの冷気に、赤司は一瞬気を取られ、事の中心から視線を外してしまった。
 隣に立つ緑間は位置が近かったが故に、その動作に意識を引きずられた。
 紫原は確かに護るべき存在に意識を向けていたが、座した2人の元へ駆け寄ろうとして足を滑らせ、姿勢の崩れた青峰に目が向いていた。
 青峰と黄瀬はまず敵の目標たる黒子を隠すこと、それだけに意識を集中させていた。

 どこかに落ち度があったかと言われれば、そんなことはなかった。ただ、あまりに当たり前で、最も残酷な事実を、その瞬間全員が平等に、失念していたのだ。
 事態を正しく理解していたのは、音を聞くと同時に暴れ出した黒子、ただ一人。


  ど   い  て    よ ぉ


 頭に響いたのは、じれた子供が駄々をこねるような、聞きようによっては無邪気とすら思える言葉だった。
 黒子を庇うように抱え込んでいた黄瀬は、「え?」と無意識の声を漏らす。

 失念していたのだ。幾度となく目の前に現れる子供達には今、黒子を連れていくという単純明快な目的しかない。見えているのは黒子だけ。欲しいのは黒子だけ。
 だから庇おうとした。自らを盾にすることも厭わずに彼を逃がそうとした。
 だが、そうであるならばつまり、同時に。

 彼と自分達の間に立ちはだかる存在など、彼を隠そうとする者など、何の価値もない、ただの障害物でしかないのだ。

「━━━━━━」

 その瞬間、場も、絶望を前にした本人すらも、一切の動きを失った。
 何の脈絡もなく、立ち塞がってはずの仲間達をすり抜けて、目の前に子供が座り込んでいた。
 呆気に取られながらも、黄瀬は無意識にその目から黒子を隠そうとした。吐息すらも漏らさないよう、深く、深く懐に抱き込んで。
 それは深淵を見つめる真っ赤な双眸には、どのように映っていたのだろう。自分達から求めるものを奪おうとしているようにでも見えていただろうか。

 最初に聞こえたのは、ぼきり、という炭を折るような音だった。
 真っ白になった黄瀬の頭の中で、ぼきり、ぼきり、という不気味な音だけが木霊する。
 三回目の鈍い音と共に凄まじい衝撃と激痛が襲いかかり、黄瀬は喉が裂けるような悲鳴を上げた。
 慌てて見下ろしたものを自分の左腕と認識できずに、ヒ、ヒ、と空気の漏れるような高い音を断続的に零し続ける。
 ありえない場所でありえない方向に折れ曲がり、がたがたになって縮んだその固まりは、自分のものどころか人の腕だと思えない。

 痛みの元を認識もできないのに、ゴッ ゴキッ ゴゴッ と小刻みな衝撃が来る度に脳天まで激痛が突き抜ける。
 新たな重圧とともに五本の指がばらばらと反り返り、バキンッと細い音を立てたところで「ギャッ」と喉の潰れたような声が漏れ、黄瀬の体は糸が切れたように崩れ落ちた。
 うっすらと白目を剥いて倒れた口元から、白い泡がこぼれ落ちる。
 晒された黒子の腕をとっさに掴み自身の背後に押しやりながら、青峰は身を乗り出した。力の入らない体が、途方もなく重い。
 腰を引きずるようにしながら這い寄ったその目の前で、黄瀬の脱力した左腕が肩から捻り上がる。
 余りの勢いにブチブチブチッと布の千切れるような不快な音が鳴り、慌ててしがみついた青峰はそれを押し止めた。
 ぬるりとした感触に下を向くとどす黒い赤が黄瀬の服と自分の両腕を染め上げていて、息を飲む。
 千切れていたのは生地ではなく、皮膚と筋肉だった。取れかけた腕を声も出ないまま必死に体へつなぎ直そうとする青峰の前で、押さえたのと逆の腕がゆらりと持ち上がる。

 持ち上がった腕のその向こうに、余りにも近い位置に、土色にひび割れた子供の顔と、真っ赤に腫れ上がった目があった。
 笑うでもなく、怒るでもなく、ただじっと、黄瀬を見ている。
 黄瀬の健康な右腕を。
 そして自分の骨の突き出た腕をちらりと見て、もう一度黄瀬の腕を見た直後。凄まじい勢いで、同じ場所が折れ曲がった。
 ゴギャッと壮絶な音を立てて、その腕から白いものが突き出す。
 赤い液体が一筋、床に向かって勢い良く噴出する。
 同時に子供が手をついた右足が、服の上からでもわかるほどひしゃげ、陥没した。
 何をされているわけでもないのに、子供が触れた、視線を向けた先から、簡単に壊されていく。

 やめろ、と微かな声が聞こえたが、青峰の脳はそれを言葉として捉えられなかった。
 認識できなかったが故に、反応が遅れた。紫原も、緑間も、赤司すらも同じだった。頭が真っ白になるというのはこういうことだろう。
 何も考えられず、指先一つ動かせず、命が尽きようとする友人を前に、絶望する間すら与えられず。
 庇っていたはずの彼を止めることすら、できずに。

「やめろおおおおぉぉォォォォォォォ!!!!」

 二度三度崩れ落ち膝を打ちつけながら、黒子の体が黄瀬に乗り上げた子供の体に飛びかかり、押さえつける。

「それはボールを持つ手なんだ、コートを走る足なんだ、お前等が、お前達なんかが壊していいものじゃないんだ、やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめて」

 最後に「ころさないで」と絞り出した黒子の手の中で脆くなった子供の腕が他愛なく潰され、茶色いような黒いような液体がプシャッと僅かに吹き出した。
 黒子の病的な震えが大きくなる。怒りか、恐怖か、嫌悪か。しかしガタガタと震えるその手は、子供の腕を、肩を、握り潰したまま離れない。
 子供が身動きするごとにひどい腐臭が沸き上がる。

 押さえつけた子供を、そしてその向こうから更に近づいてくる影を睨みつけ口を開こうとした黒子に、最初に反応したのは赤司だった。
 一歩を踏み出しながら、呆然とする緑間の体を力の入らない腕で押し退ける。息を吸うごとに込み上げる吐き気で胸が引き攣って、生理的な反応に発声が一瞬遅れた。
 たった一瞬の、取り返しのつかない遅れだった。

「お前達がほしいのは僕だろう! みんなに手を出すな! 黒子は━━━」

 やめろと、残った四人の口が同時に動く。しかし誰の声も音にはならず、その言葉をかき消さない。

「黒子は、僕だ!!!」

 叫んだ瞬間、子供達が一斉に動きを止めた。
 ぎょろぎょろと蠢いていたその目が、視線が、引き寄せられるように一点に向かい集約されていく。


   く     ろ        こ


 頭の中に音が轟いた。
 子供達の手が一斉に黒子に向かって伸ばされるのを見た。
 黒子の目が絶望に見開かれ、そして一瞬縋るように振り向くのを見た。

「く」

 誰かの声が彼の名を呼ぼうとした。
 しかしそれが音となる前に。
 彼に届く前に。
 全部、最初からそこには何もなかったかのように。




「━━━━━テツヤ!!!」




 消えた。