少女が最初に言った通り、怪異は時を置いて気まぐれに、くり返しくり返し訪れた。
事が起こるのは理科室だけで、直接的な被害は何もない。
恐ろしくはあったが、もっと恐ろしいことに、黒子はその現象に慣れ始めていた。
毎回ではなかったが、事は決まって、2人が理科室から離れ近づかなったしばらく後に起きる。
助けを呼ぶ声がして、部屋の前を澱んだ陰が覆い、窓や隙間から犠牲者らしき人影が訴えかけてくるのだ。
恐ろしくはあったが、手が触れるほどに近づかなければそれ以上何もないのも事実だった。
探検だと言って、少女と共に3度ほど校舎を巡った。
『穴』は保健室と理科室のみだったが、ずっといると言うだけあり、少女は校舎の中を知り尽くしていた。黒子達が見落としていた場所も少女が簡単に掘り起こしてみせた。
物の置き場所。屋根裏から入る中二階倉庫。子供達のためのタオルや衣類の予備。
少女は特に汚れや何かを気にするわけでもなく、幾度かの着替えを行っているのだと言った。つまらないからと。
髪は少し前まで一緒にいた女性にやってもらったのだそうだ。
ばさばさの長い髪を哀れんだのだろう。自分では結い直せないから崩れてきてしまったと悲しそうにするから、黒子が丁寧に結い直してあげた。ツインテールは左右の高さが微妙に違ってしまったが、少女は嬉しそうだった。
時間は刻々と過ぎていたが、以前とは違い、待てど暮らせど、何度浅い眠りを漂ってみても、夜はやって来なかった。
以前いたところとは別な空間と思うべきなのかもしれないと諦めが芽生えたのは、5度ほど少女を抱えて眠った後だ。
体感で三日四日は経っているだろうと思えた。それだけ経つと、もうやれることが何もなくなっていた。
無茶をすることをやめてじっとしている時間が増えると、足の腫れや痛みも引き始めた。ぎゅっと押さえつけていたから、感覚が麻痺していただけかも知れないが。それでも痛み続けるよりはずっと過ごしやすい。
少女は飽くことなく黒子に話しかけ、喋ることがなくなると絵本の童話をそらんじて聞かせてくれた。
弱った黒子が心配なのだろう。うとうとしていると足首や膝をそっと撫でていてくれることもあった。
少女の拙い優しさが、八方塞がりの黒子の心を癒していた。
「おにいちゃん、声がきこえるよ」
そうして、何度目か少女が言いだしたのは、階段でグリコをしていた時だった。
彼女はその遊びを知らなかったけれど黒子が教えるとすぐに気に入って、二人で延々ゴールのない遊びをしていた。
「そうですか……」
正直に言えば黒子は怪異には近づきたくない。恐怖は記憶から消えることがなかったし、仲間の安否を思っては不安で胸が潰れそうになるのだ。
しかし少女はそれが気になって仕方がないようで、声が聞こえ始めると必ず理科室の前へ行き、穴を覗き込もうとしたり、ドアに手をかけて窓を覗き込もうとしたりしていた。
最初は必死に止めていた黒子も、怪異が彼女に触れられないと気づくと好きにさせていた。止める体力がなくなっていたとも言う。
この時も少女はすぐに遊びを切りやめて、階段下の廊下の、逆の端にある理科室へ向かった。仕方なく後を追った黒子は、昇降口の辺りで首を傾げる。
「くろこちゃん」
呼ぶと少女はすぐに振り返り、少し先から走って戻ってきた。手を取って引っ張られ、しかしやはりすぐに、黒子は足を止める。
「おにいちゃん?」
「はい……」
尋ねられたが、その理由は自分でもよくわからなかった。何故か足が止まる。ガタガタと戸を揺する音や微かな声が響いていて、怪異が続いているのはわかるが、それが理由ではない。
やがて腕を引かれても動こうとしなくなった黒子を、少女の不思議そうな顔が見上げて来る。操作できない汗の粒が顎から幾つも滴り落ち、止まらない震えが2人の手を揺らした。
何かがおかしい。
理科室の戸はもう見える位置にある。陽が当たっているはずなのに、部屋の前には不自然な暗がり。そう、不自然な━━━
「……誰、ですか」
暗がりの、その中に、立ち尽くす長い影があった。部屋の外だ。これまでなかった事態に目を見開き、黒子は慌てて少女を抱え込む。
子供ではありえないそのシルエット。動き出すならばすぐに逃げられるよう足に力を込め、目を凝らして。
そして、気づいた。
泣きそうな顔をして何かを訴えかけようとする彼に、黒子は激昂した。
「戻ってください!!」
思わず駆け寄りかけた足を気力で止める。袖口に捕まる少女の手を、自分を抑えるために握る。
「何をしているんですか、君は、こんなところに、そんな姿で、いたら駄目だ……!!」
「……おにいちゃん? 誰かいるの?」
不審気に尋ねてくる少女に応えることも出来ないまま、再び会うことを諦めていた青年の姿を目に焼き付ける。
生身を持たないその姿で、こんなところで、迷っては駄目なのだ。叶うならば体に戻って。出来ないのならば、ちゃんと穏やかな場所へ。
不自然な影の中、色もなく輪郭を浮き立たせる存在を、恐ろしいとは少しも思わなかった。彼はきれいに整った顔を歪め、何事かを囁き続けている。いつもの輝きなど欠片もない姿で、けれど瞳に浮いた慕わしさだけはそのままに。
「僕は大丈夫です。君が護ってくれたから、大丈夫なんです。きっと帰ります。みんなの元へ帰ります。だから君は先に戻ってください。お願いだから体に━━━」
訴える黒子に、彼はただ何かを呟いて、そしてどこかを指し示す。伝わらない言葉に焦れながら黒子はその指先の向かう先を追う。
つないだ手に縋るようにして身を寄せてくる、幼い少女に。
もう一度顔を上げて彼を見る。
この小さな迷い子が何なのか。差す指は変わらない。少女の姿。いや、その足元。
もう一度、もう一度。幾度か彼と少女の間で視線を彷徨わせ、そして最後に僅かに方向を変えた彼の指先を辿って、黒子はようやくその意味に気が付いた。
どうして気づかなかったのだろう。或いは、気づかないようにされていたのか?
「おにいちゃん?」
不安そうに、ぎゅっと小さな手に力を込めて。
呼びかけてくるその子の足元には、あるべきものがなかった。足元から伸び、壁に映し出されているはずのものが。
もう一度正面を見る。
ようやく顔を綻ばせた彼は色のない姿でいつものように朗らかに笑って、少女の足元に向けていた指先を自分の口元に向けた。 ゆっくりと、ゆっくりと、形を変え何かを訴える唇。
正確にその言葉を受け止めて、黒子はきつく唇を噛み締めた。涙を堪えながら何度も頷いて、ぐっと握った拳をまっすぐに突き出す。
同じように拳を上げて応えた彼が弾けるような笑顔で薄闇に溶けるのを、黒子はじっと見送った。彼が消えるのを待つように、幾度目かの怪異も去っていた。
廊下には薄曇りの隙間から、淡い日だまりが落ちている。
天井を仰ぎ、荒い呼吸を整えながら涙を飲み込む。ああ、泣いている場合じゃない。
「おにい……」
「大丈夫ですよ」
応えて、ゆっくりと少女を見下ろした。
大きくはない黒子の、腰程までしかない小さな背。
辛いことも、怖いことも、何も起こらない穏やかな学校で。
だけど独りきりの学校で。
寂しいから誰かを連れてきて、その誰かの心が死んでしまったら、あとは標本にして永遠に閉じ込める。大丈夫、ここにいればいつでも会える。呼んでくれれば会いに来る。
そんなふうに。
「大丈夫です。きっとみんなに会えます。探しましょう……絢子ちゃん」
そんなふうにしても、寂しいままなのに。何度も何度も、失い続けるだけなのに。
未来を奪われ、帰る場所を見失った少女は微笑みかける黒子をじっと見上げる。
そうして、言葉もないまま腰にしがみつくと、肩を震わせて少し泣いた。