浅い眠りから覚めると、手の中の温もりが消えていた。
まさか夢だったのかと慌てて周囲を見回せば、少し離れたところで床板の継ぎ目を目印に遊んでいる少女が目に留まる。
けん、けん、ぱ、けん、けん、ぱ。
飽くことなく繰り返される動作、足音、木の床に伝わる小さな振動。黒子は微かに笑うと、ゆっくり体を起こした。
全身が熱を持って痛い。ぎぎ、と軋むような音があちこちからして、力を入れるにも一苦労する。
無茶をしたものだ。
我が事ながら呆れた気分になって、特に痛む膝辺りまでジャージの裾を捲り上げた。
折れている感じはしないが、真っ赤に腫れ上がり熱を持った膝は凹凸がほとんどなくなって、普段の1.5倍くらいあるように見える。
「いたいの?」
声とともに影が落ちてきて、黒子は静かに視線を上げた。
のぞき込んで来る少女の少し太めの眉が、不安げに下がっている。大丈夫ですよ、と穏やかに返して、裾を戻す。
「保健室いこう」
「開いていませんよ」
「あくよ」
言いながら手を引かれ、仕方なく立ち上がった。
何度も何度も試したのだから、その戸が開かないことはわかっているのだが……。
小走りに駆けては黒子が追いついてくるのを振り返って待っている、無邪気な少女の顔を曇らせるのは本意ではなかったから、余計に足が重くなる。
辿り着いた1階、職員室に並んだ保健室のドアはやはり施錠されていて、がたりとも揺らぐ気配はなかった。
どうしたものかと視線を向ければ、少女はドアに手をかけた黒子になど目もくれず、ぺったりと床に座り込んでいる。
ドアではなく足下の風通しを揺すりガタガタと言わせ始めるのに、黒子は目を丸くした。
右から二つ目、何度か縦に力を込めると、がたん、と音がして填め戸が外れる。開いた隙間に小さな体で這い入ると、いくらも待たずにドアが内側から開いた。
「ここのとこだけ外れやすいの」
「子供の目線ならではですか……盲点でしたね」
盲点と言うより、完全に落とし穴だ。『子供が出入りできる範囲』、そこには大人が気づくことのできない、子供達だけの秘密通路も含まれていたらしい。
或いは屋外へだって出られるのかも知れなかった。もう一度探索をやり直す必要がある。
「お薬どれだろう」
棚の前で困ったようにうろうろしている少女を制して戸に触れる。施錠されているかとも思ったが、ガラス戸はすんなりと開いた。 子供達の記憶で作られた何十年も前の薬品はさすがに使う気になれなかったが、傷や患部を押さえる程度の治療は出来そうだ。
現代のものとはだいぶ材質の違う、布感のある包帯と辺りにあった器具を使い器用に足を固定していく黒子の手元を、少女は興味深げに覗き込んでいた。
「いたい?」
「大丈夫ですよ。くろこちゃん、他にもどこか開くところを知っていますか?」
「あのね、理科室はちょっとあくけど入れなくて、中が見えないの」
「理科室?」
確か一階の一番端にあった教室だ。上部が窓になっている引き戸から覗いた中は、リアリティの薄い人体図が貼られいくつかの実験器具が見える程度のお粗末な設備だった。
見えないという言葉に首を傾げたが、彼女の身長では背伸びをしないと窓には届かないかと納得する。
納得して、……しかし続いた言葉に、声を失った。
「たまに声がするんだよ。だれかいるのかなぁ。くろこおーいおーいってよんでるんだけど、こたえてくれないの。おにいちゃんやおねえちゃんはなんにもきこえないっていってた」
「声……?」
「うん。あ、ほら、またきこえるよ」
言いながら、少女が軽やかに保健室を飛び出す。
慌てて追おうとして廊下に出ると同時によろめき、壁にぶつかったところで動きを止めた。
ぞわぞわとした感触が幾筋も背中を滑り落ちる。壁に伝わる振動は、明らかに、自然に起こるものではない。どこかで誰かが、内側から壁を叩いている。凄まじい勢いで。
十数メートル先で少女がしゃがみ込み、風通しの木戸を動かそうとしている。
待ってくださいと、口にしようとした言葉は、ぎぎぎ、ともあ"あ"あ"とも取れる奇怪な音にかき消された。
「ね、ちょっとだけあくけど、中は見えないんだよ」
しゃがみ込んだ姿勢で頭を更に低くして、覗き込もうとする、その隙間は確かに墨を塗り込めたように真っ黒で━━━そして、そこから真っ白い手首が這い出して来ていた。
細い、何かの液体で濡れた女性の手。爪が床を掻く。目の前のそれに、少女は気付かない。
「くろこちゃん……!!」
痛みも忘れて駆け寄り少女を抱えて、その場から飛び退いた。
ふと見た引き戸の窓には、男性のものと思われる顔がびったりと押し付けられ、苦悶に歪んでいる。窓に張り付いては消える幾つもの白い手の平。
廊下に溜まった光はその教室の周辺だけ捻じ曲がり、暗く澱んでいる。
何だこれは。
こんなもの、こんな場所、これまではなかった。
しかも女性の手も、男性の顔も、そうだ、廊下に融けた男の人も皆、ここにはいないはずの『大人』だ。
「おにいちゃん、何がいるの?」
「━━━何もいませんよ。風が吹き込んでいるみたいです。音が鳴き声みたいに聞こえたんですね。ドアも開きません」
戸口の窓を見たまま凝固している黒子に無邪気な声で尋ねながら、中を覗き込もうとぴょんぴょん飛び跳ねる出す少女を、抱き締めるようにして抑えつけた。
その間も僅かに空いた風通し窓からは女の手首が突き出したままで、奥からは『助けて……』『帰りたい……』『苦しい……』と無数の声が重なり漏れてくる。共に犠牲になったという教職員にしては、その声は多すぎた。
子供達に引きずり込まれた犠牲者か。
ぞっとする。目の前にあるのはつまり、自分が、仲間達が、この幼い少女が至るかも知れない場所ということだ。
身動き一つ取れずに見つめ続けた怪異は永遠にも感じられたが、恐らくはほんの5分程度のことだっただろう。
突然ふっと西日が当たり、霧が晴れるように教室は穏やかさを取り戻す。白い手首も、押し付けられた顔やてのひらも全て消え、これまでと変わることのない理科室の様子が目に映った。
自分を抱えたまま険しい顔で固まっている黒子に何を思ったのか、大人しくしていた少女が頬に触れてくる。
少し汗ばんだ、熱い指先。
「おにいちゃん、知ってる? 理科室にはね、ひょうほんがあるんだよ」
内緒話を打ち明けるような、突然の言葉に、黒子はぼんやりと少女を見下ろした。
ひょうほん。標本か。ああ、古い学校ならきっと幾つもあっただろう。窓からは見えないが、後ろの棚か、準備室かに。
「ヘビもトカゲも赤ちゃんも、みんなお水にはいってるの。ひょうほんにすれば、ずっとかわらないでそのまんまなんだよ」
すごいよね。
僅かに興奮したように教えてくれる少女に、黒子は微妙な面持ちになりながら頷いた。ああ、あの白い手を濡らした液体からは、どんな臭いがしていただろうか。