黄瀬が消えてからも、その場所が変わることはなかった。
雲の隙間から零れた淡い西日の差す校舎。
幼い少女が一人。そして存在感の薄い少年が一人。静かだ。
少女の学んだ教室で、少女が学んだ席の隣で、お世辞にも大きいと言えない自分でも低いと感じる椅子に足を伸ばして、黒子は座っていた。
正体が暴かれてからも変わらず、絢子は大人しい。
ぽつぽつと話をして、事情の全ては把握できないまでも、自分達の認識の幾つかの間違いを知った。
彼女は自分が既に生きていないことを知っていた。そのくらいには大人だった。
彼女は死者と生者が相容れない関係であることを知らなかった。そのくらいには子供だった。
そして彼女は、独りだった。
子供は六人ではなく、分かたれて独りと五人。黒子は彼女に、他の子供達と会ったことを言えなかった。優しい子だと知ったからだ。
友人達が彼女を探していると言えば、彼女のために帰ることも昇ることも出来ずに彷徨っていると言えば、単純にその事実だけを知らせてしまえば。この子は喜ぶどころか自分を責めて、責めて、責めて、今度こそどこへも行けなくなってしまうだろう。
他の人がどこから来たのか知っていましたか、と聞いた。
彼女は首を振って、叱られるのを恐るように俯いた。
寂しいと必死に呼べば誰かが来てくれた。
その誰かがここに囚われたことで何を失うのかを、誰が悲しみ、腐ちた彼らが何処へ逝くのかを、彼女は知らなかった。
教え諭してくれる大人は、友人は、彼女のそばにはいなかった。
彼女が犯したのは許されない罪だ。決して奪ってはいけないものを幾つも、幾つも、無邪気に千切り取っては蹂躙した。無意識でも、悪意がなくとも、決して、決して赦すとは言えない。
だけど彼女を責める言葉もまた、黒子は持たない。
だから黒子はただ、お友達のところに行きましょうと、そう言った。
「きっと皆さんも、君に会えなくて寂しい思いをしていますよ。学校のどこかにいるかも知れません。探してあげましょう?」
「や」
「絢子ちゃん」
「いや」
目にうっすらと涙を溜めて、スカートを両手でぎゅっと握り締めて、ぶんぶんと首を振る。
どうしてと問えば、どうせもう誰もいないと言う。
くろこはいらないの。
みんなは先にいっちゃったの。
一人校舎に置いて行かれた少女の頑なな声は、黒子の胸までも締め付けた。もう黒子は気づいている。子供達が自分と彼女を間違えた訳に。
名前だけじゃない。彼女が口にするその言葉が。きっと彼女がそう思っているだろうと、子供達も感じていたに違いない、その思いが。
時を置いて薄れても、乗り越えて塗り潰しても、きっと完全には消えないまま、どこかに焼きついて残っていたはずだった。
寂しかった。痛かった。悔しかった。哀しかった。辛かった。
幼い少女ならば尚更に、それはどれほど重く伸し掛ったことだろう。
でも黒子は知っているのだ。それでも諦められなくて、追いつきたくて、もう一度笑って欲しくて。再び拳を合わせる、そのためだけに人は走れることを。
「大切な仲間だったんでしょう? お友達もきっと君を探していますよ。泣かないで、頑張ってみませんか。見つかるまで、僕も一緒にいますから」
「……みんな帰っちゃったもん。くろこがいないことになんかきっと気づいてないよ。もういい。おにいちゃんがいてくれるならもういい」
もういいと言いながら、ぼたぼたと大粒の涙を零す。少女の傍らに膝をついて、黒子はそのくしゃくしゃの泣き顔をそっと覗き込んだ。
「良くありません。大切な友人だったなら、手を伸ばすことを諦めては駄目です。探すんです。きっとどこかにみんなのいる場所へとつながる出口があるはずですから」
「いや」
「どうして?」
「ケンカしたの。くろこのせいでみんなまでケンカしちゃった。いなくなって良かったって思ってるよ……」
「喧嘩するのは友達だからでしょう? 僕だって友人達と長い間ぎくしゃくしたままでした。同じものを求めて同じ場所で頑張った仲間なのに、バラバラになって、誰とも信じ合えなくなってた。辛かったです」
とつとつと紡ぐ、それは黒子にとって過去の痛みだ。自分の力で、新しい仲間と共に過去にしてみせた痛みだ。未来のない少女にとっては、過去も今もありはしない他人の痛みだ。
それでも、同じ色をしたその傷を、少女は瞬きながらじっと見ていた。
小さな子供の手が涙の跡を探すように頬に伸ばされる。黒子はやんわりと微笑んで、でも、と続ける。
「でも、ずっとそのままじゃない」
叶うことならば、未来をあげたい。でもそれはできないから、せめて抱えた痛みを優しい色に塗り替えてあげたい。
「やっと仲直りができそうだったんです。みんながそれぞれに違う場所でがんばって、初めてちゃんと向き合えると思ったところだったんです。僕は、こんなところで諦めません。絢子ちゃんも諦めちゃだめだ」
頬に添えられた手を取って、立ち上がるように促した。彼女の席の回りに、五つの机。誰が座っていたのかを一つずつ尋ねる。
その名前を、存在を思い出させるように、一人ずつ、どんな子だったのかを尋ねる。
少女はためらいがちに、それでも慕わしげに、友達の話をしてくれた。
足が速いのも、みんなを笑わせるのが上手いのも、動物に好かれやすいのも、花や野草の名前をたくさん知っているのも、甘え上手で愛らしいのも、彼女のことではなかったけれど、語る言葉は誇らしげだった。
何十年経っても何一つ褪せることなく、思い出は彼女の心に生きていた。
「君と僕は違うけど全然違うけど、似てる。自分にがっかりする気持ちはわかる気がします。向き合うのが怖い気持ちも。でも、自分を劣った存在にしておくためにお友達まで貶めるのはだめですよ」
そっと言い聞かせれば、少女は黒子の顔を見上げ不安げに首を傾げた。
僕の友人達は、と。
離れた場所で、あんな状況で別れても諦めようともせず自分を探し続けているだろう、かつての仲間を思う。
「僕の友人達はまるで強い光みたいです。眩しくて、とても遠い。鬱々と下を向く僕になんか構いもせず先へ先へ行ってしまうから、僕は必死に追いかけるしかありません。でも、だからこそ僕の絶望にもお構いなしだ。僕が諦めたってあの人達は諦めない。僕が足を止めない限り、追いついて来ると当たり前に思っている。だから僕は、自分の代わりに彼らを信じるんです」
その信頼が、自分はまだ走れるのだと、必ず追いつけるのだと、教えてくれるから。
劣等感から逃げ出した黒子を、もはや必要としていなかっただろう黒子を、それでも彼らは侮らず、対等に戦う相手として見てくれた。
無意識に突き放し、無意識に掬い上げる。勝手な、と思わなかったと言えば嘘になる。
それでも嬉しくて、それでも誇らしくて、恥じない自分でありたかった。
君達のライバルは荷が重いです。正直今だってどこかで思っている。だけどどうしても、自分の願いの向く先を認めるところから始めるしかなかった。
痛くても、辛くても、彼女だって結局、そこから始めるしかないのだ。
「君の友達は、一人で泣いてる君に気づかず君を置いていってしまうような人達ですか? 君がそう思うなら僕と一緒にいればいいです。でももし君を探していたら、見つからない君をずっと探し続けることになってしまいます。君は本当に、ここで諦めてもいいんですか?」
君が諦めようとしているのは自分のことですか、それとも相手のことですか。
生きていればいつか自分で行き着けたのだろう問いかけを、黒子は彼女の前にそっと提示する。
一緒だからわかる。本当は彼女が、どんなに、どんなに諦めたくないと願っているか。どんなに信じたいと願っているか。
自分でそれを認められなければ、どこへだって歩き出せはしないのだ。
「山登りで」
微かな声が、小さく、小さく語り出す。
いっぱいに涙の溜まった目が、自分のものではない机をじっと見る。
「くろこがつかれて動けなくなったら、健太君がおぶってくれたんだよ。鬼ごっこでころんだら、くろこよりも先にゆかりちゃんが泣いちゃった」
声は穏やかだけど、息を継ぐ度、細い喉が大きく波打つ。
「くろこがぜんそくで体育見学してたら、みんな近くにくるたびにくろこのとこまで走ってきてくれるんだよ。やす君とユウ君はすぐケンカするけど、次の日は競争しながらいっしょに学校にきて、ふたりでおはよってくろこの背中たたくの。ぐあいがわるくてあそべない日は、くろこが言うまえにテツオ君が今日はご本をよんでって言ってくれた」
「……そうですか、いいお友達なんですね」
静かに相槌を打ち、頭を撫でる。
深く俯いた絢子は、肩を震わせてしゃくり上げると、うええ、と大きな声を漏らして泣き出した。
「みんなに会いたい」
小さな肩を抱き寄せて、頷く。
知っています。
「みんなに会いたいよお」
僕も会いたいです。必死に僕を探しているだろう仲間達に。待っているだろう家族に。心配しているだろうチームメイト達に。諦めたくない。ここで終わりたくない。
君は可哀想だけれど。ずっと一緒にいてあげたい気持ちだって確かにあるけれど。
釣られた涙が視界を歪ませる。
どこかで、穏やかな教室が軋みを上げる音がした。