断続的に襲い来る揺れは、次第にその激しさを増していた。
揺れが襲う度、校舎の端のほうが弾け飛んでいる気配がする。喩えて言うならば大きな包丁で端から叩き切られているようだ。もちろん近づいて状況を確かめようなんて者はいない。
何度目かの揺れで足を取られ窓枠に突っ込んだ腰を、青峰は走りながら強く押さえつけた。
マジで痛い。腰骨にヒビでも入ったんじゃないか、これ。足を突く度に重い痺れが脳まで突き上げてくる。
「うわっ……ッ」
気をつけろよ、と赤司が言ったそばから床板が波打ち、変なタイミングで付いた足からバランスを崩して黄瀬が転げた。
もうぐちゃぐちゃだ。
「しっかり走るのだよ!」
イライラと言いながら黄瀬の腕を引っ張り上げる緑間も、振動の度にバランスを取ろうとして膝が揺らいでいる。
大した距離でもないのになかなかたどり着かない昇降口を視界に捉え、赤司は壁にすがったまま小さく舌打ちした。すぐそこにゴールが見えているのに。
「這って歩いたほうが早そうだな」
「これじゃ這っても床に潰れるだけじゃないのー?」
「まったく冗談じゃないのだよ……っ」
体の大きな紫原が揺れが収まるごとに大股で数歩進んで、少し後ろから追う赤司を一気に引き寄せる。最も効率的かつ安全な進み方だが、追いかける残りの3人は必死だ。
ようやく辿り着いた昇降口はまだ原型を留めていて、それぞれほっとしながらドアに飛びついた。
外は暗いが、先程までのような完全な闇ではない。夜のそれだ。
うっすらと石畳のアプローチが見える。先には明るいうちに見た階段があるだろう。
誰ともなく息を吐く。
「外あんまよく見えないけど、今度は割れそー?」
「結構グラグラ言うっスよ。多分行けるっス」
木戸をガタガタと揺すりながら紫原と黄瀬が言い合い、転がされたままだった傘立てを持った。転がされたままだったが、打ち付けられてひしゃげた形は元に戻っている。
振動に体ごと揺らされながら振りかぶる紫原を避けて4人は一旦後ろへ下がる。
気が急いて、早く早くと思うその隙間に、淡い色が揺らぐ。ガシャンッと派手な音を立てて傘立てが木戸の嵌めガラスにめり込むのを、それぞれ嬉しいとは違う、たまらないような気持ちで見つめた。
行くぞ、ではなく、テツヤ、と。赤司の声が小さく呟く。
青峰の目が諦め切れないように何度も背後を振り返る。
振り向けない緑間も、考えることを投げ出している紫原も、結局同じで。
黄瀬は体ごと振り返って、崩壊の衝撃が近づく廊下に何歩か駆け戻った。赤司の強い声に止められる。だけど。でも。わかっているけど。だけど。
「黒子っち!!」
悲鳴みたいな金切り声で、廊下に向けて叫んだ。
「どこっスか、黒子っち!! 帰るっスよ!!!」
左側の廊下の奥はもう何も見えない。ただの闇だ。これだけ壊れてるんだから、違う次元とだって、一箇所くらい繋がっているんじゃないか。諦め切れない頭で思う。
スレの人達だって言っていた。きっと帰るために一人になっても頑張ったんだろう。みんな一緒に帰るために。だからきっと、黒子だってここに向かっているに違いなくて。
強い横揺れに膝をつく。バリンッと派手な音を立てて三つ先の窓が弾け飛ぶ。
「涼太! 駄目だ、来い!!」
「だって、だって赤司っち、だってさ、どこにいんの、帰ろうよ、帰ろうよ黒子っち……!!」
「そうですね。いい加減マジバのバニラシェイクが恋しいです」
崩壊する廊下に向かって叫んでいた。
その真逆から、声が届く。振り向く前に、横を見る。赤司が、青峰が、緑間が、紫原が、固まったままこちらを見ていて、幻聴じゃないと知る。
ゆっくり、ゆっくり振り返った先で、いつもの飄々とした無表情のまま、黒子は立っていた。
「く……」
言葉が出て来ない。膝をついたままの黄瀬の前まで揺れなど知らぬげに歩いて来る。伸ばされた手が穏やかに乱れた髪を撫で付けて、お待たせしましたと緊迫感のない声が降ってきて、黄瀬はぐしゃりと顔を歪めた。
「━━━━黒子っち、無事だったぁ…!!」
ぷわーっと泣き出す黄瀬を力づくで押しのけ飛びついた青峰が、足元をぐらつかせた勢いで黒子を押し潰す。文句を言う間も惜しんで黄瀬もしがみつく。苦しいです、痛いです、暑苦しいです、やめろ、と淡々と訴える声など誰も聞かず、伸ばされた赤司と緑間の手が頭をぐしゃぐしゃに掻き混ぜて、最後に紫原が潰れた体を高々と持ち上げた。
らいおんきんぐ的に。
「おっせーよ、テツ!」
「全く、こんなところでまで迷子になるんじゃじゃないのだよ……!」
「もう俺担いでおく〜」
「そうしろ。下ろさなくていいぞ、敦」
「ご心配をおかけしました。速やかに帰りましょう。紫原君、降ろしてください。出口へ案内します」
「黒子っち、帰り道わかるんスか!?」
「わかります。行きましょう」
脇を持って黒子を持ち上げる紫原の手をぽんぽんと叩き、降ろすよう促す。床に足をついた黒子は迷うことなく来た道を戻ろうとして、近づく揺れに真っ直ぐ立てずにいるキセキ達は目を丸くした。
「テツヤ?」
「行きましょうって、おい、テツ!お前どこ行く気……ッ おい! 待て、止まれ!!」
悲鳴のような青峰の声が轟音の中で響き、その視線の先へ皆が目をやる。
階段の暗がりに、小さな少女が立ち、手招いていた。
半ば伏せた顔に濃い影を落として。ボロボロの服と、土色の肌と、乾いた血の色の宙を掻く指先と。
「う、うわっ、まだ出……!! く、黒子っち、黒子っち正気に戻って、ダメだって……!!!」
「心配いりませんよ」
「黒子、お前自分が何を言っているのか理解しているのか!?」
「はい。してますが」
「ふざけんな! お前そいつにあの世まで連れて行かれるとこだったんだぞ……!!」
「そんなことはありません。僕らは話をしただけです」
「黒……」
「絢子ちゃんは、僕の友達です。火神君や、監督や、桃井さんと同じように」
澄んだ声が、恐れる様子もなく静かに告げる。
「もう、友達なんです」
一つの迷いもない強い眼差しは、決して折れることのないいつもの黒子のもので。
廊下が軋む。二つ先の窓が闇に吸い込まれるように弾け飛ぶ。赤司の手が携帯のキーの上を幾つか滑り、少し迷う素振りを見せてから緑間を見た。
どう思う。
聞くまでもなく決まっているだろう答えを、同意を得るためだけに差し出して。
溜め息を一つ落とし、緑間は頷いた。
「止まってる暇はない。行くのだよ」
「おい! 緑間、お前まで何考えてんだ……!!」
「黒子の"友達"なのだろう。なら、信じるべきなのだよ。ここはそういう場所のはずだ」
「赤司っち!」
「いいじゃないか。ここまできたら一蓮托生だ。どちらに進んでも先が見えないなら、信じるものがあるほうに賭けてみるのもいい」
「あー、もう知らねっスよ!!」
「あらら、どっちにしてももうこっちだめじゃん? 昇降口崩れてきたよー」
「走れ!!」
青峰が叫んで黄瀬の背を押した。
一瞬置いて、2人のいた足元が破裂するように闇に溶ける。あの冥い場所へ落ちたら終わりなのだと、スレッドの先の協力者は言った。衝撃で転びながら背中に落ちた冷たいものを払う。
「スレ」
立ち上がり崩壊から逃れながら青峰が口を開き、先にいた赤司が振り返った。
「何か情報あったかよ」
「暖かい応援に満ちていたよ。テツヤと合流したことだけ落としたが」
「聞けよ、テツの判断に従って大丈夫なのか」
「お前にしては珍しく懐疑的じゃないか。テツヤだぞ?」
「だからだろ」
間違えれば背負うのはあいつ一人だ。苦い響きはしかしずいぶん甘ったるい内容で、よろめきながら「無茶を言うよ」と赤司は笑う。自分で聞けばいいのにと言えば、打つ速度が違うだろ、ともっともな答えが帰ってきた。
黒子は少女の少し手前で、振り返って仲間が追いつくのを待っている。判断を惑わせた彼だけが揺れの影響を受けていないことを、正しいからと見ればいいのか、間違っているからと見ればいいのか、正直赤司にだってわからない。
書き込もうとして壁に半ば倒れ込みながらリロードを押し、表示された言葉に首を傾げた。
『もう書き込んでる余裕はないだろうけど、カラーズ、見てるか!?
画面開いてるなら一言でいい、無言でもいいから書き込み落とせ。全員いるな!?』
見てる。落として、他の者にも余裕があれば画面を開くようにと声を張った。
それは最大の協力者の言葉だ。わざわざ確認するのならば、何かの意味があるだろうと。
殆どは困惑したように、青峰だけはありありと不快の表情を浮かべて、携帯を開く。
「見てる余裕もねえっつーの。腰いってえ」
「いちいち足を止めずに進みながら見るのだよ」
「ああもううっせえなあ!」
近づくと少女は消え、見上げれば踊り場でまた手招く。ついていく黒子に恐々と従う。
階段を登り始めると揺れは少し遠ざかって、ほんの僅か、全員の意識がスレッドに落ちた。
リロードを押す。ほとんど同時に。そしてやはりほとんど同時に、息を飲む。
『黒子に従え。いいか、待ってるからな、仲間なら疑うな、信じろ。
俺が待ってる、見てるよな、真ちゃん!!』
「━━━た…!?」
『桃と火と黒のとこの監督もいる。みんな信じてるから帰ってこい
迷ったら思い出せ、俺らが呼んでるから思い出せ
お前らはまだこっちとつながってるんだからな!!』
息を飲んで、そしてほとんど同時に、みんな足が止まった。
どういうロジックなのか。彼らと、ここに閉じ込められていたはずの、名乗ることすらできないはずの黒子が、どうやって何を交わしたのか。
わからない。わからないけれど。
「超ウケる」
この状況下では長すぎるほどの空白を置いて、最初に吹き出したのは青峰だった。別におかしくはなかったが、釣られて黄瀬も笑う。
複雑な顔をした緑間は盛大な溜め息をついて、二段抜かしで黒子に追いついた。
紫原は首をかしげて、どういうこと? と赤司に尋ねている。
「ネタばらしのタイミング完璧じゃねえ? お前の相方、なかなかだな」
「うるさいのだよ」
「高尾君、いいとこどりですね……」
「そういう奴なのだよ」
でも僕のところは相棒と監督なので、僕の勝ちです。
よくわからないところで対抗心を燃やして宣言した黒子は、2階から6人を見下ろす少女に真っ直ぐな視線を向けて、そしてキセキを振り返った。
「僕を、信じてくれますか」
黒子のことだけではなく。自分を傷つけ、彼らを傷つけた子供達をも混ぜ合わせて。
灯火のような命ごと預けるほどに。
少しの間があった。
それが迷いの間ではないことを感じていたから、黒子はただ静かに待った。
遠くで崩壊の音がする。消えようとする安穏の場所。誰もいないから誰にも傷つけられない、真綿だけが詰まった、何も入っていない彼女の宝箱。
「ばーか、ここまで連れてきて、今更何言ってんだお前」
ため息や、笑顔や、投げられる呆れた声や、そういうものの意味を全部ちゃんと受け止めて。
ですね、と、黒子は一つの教室の戸を開けた。
教室の中は明るくて、キセキ達の闇に慣れた目が少し眩む。
雨が降っているのに、雲の隙間からは僅かな光が差していた。
窓の前にぼんやりと浮かび上がった逆光の小さな背中は、ここへ導いたその子と相違ないのに、少しも恐ろしいものではない。
窓の外に広がるのは雄大な自然。子供たちを簡単に飲み込んだそれだ。
それでも景色は優しく、そして彼女の視線の先にある道は、穏やかな場所へ繋がっている。
『ほんとはね』
声がする。小さな少女の無邪気さと、大人になろうとする少女の儚さを混ぜ合わせて手のひらの上に開いたような、柔らかな声だった。
『みえてたんだよ。みんながくるの』
少女は振り向かない。ただじっと、窓の外を見ている。
『くろこのこと、むかえにくるの。みえてたんだよ』
遠くから声がする。誰にも代わることの出来ない、たった一人の"くろこ"を呼ぶ声。
黒子は少し息を吸って、僕も見つけましたよ、と笑いかけた。お揃いですね、と。
彼女が帰りたかった場所を、黒子は知っていた。
ただみんなで笑い合っていられた場所。
楽しくて、幸せで、他には何も必要なかった。キラキラした、夢みたいな場所。
でも違うのだ。帰るべき場所は、もう違うのだ。
違うけど、でも、変わらないものもある。何があっても、どれだけ時を経ても変えられないものだって、きっとある。
「帰りましょう。……みんなで」
『うん、みんなと、かえる』
振り返った逆光の少女が、すっと窓の外を指差した。笑って、そして、消える。
唐突に訪れた薄闇と崩壊の衝撃に、誰ともなく「うわ!」と声が上がった。
「やべえ、床崩れるぞ……!!」
「黒ちん、こっからどうすんの!?」
「飛び込んでください! 窓へ!」
「窓〜!?」
うええ、と声を上げる紫原を「下はわたあめと思って」と無理矢理窓の方へ押し出す。
ほんの僅かだけ迷う間を見せて、先行くぞ、と青峰が窓枠を跨いだ。ためらいのなさは彼なりのメッセージとわかったから、黒子は目を細める。
何かを感じ取ったのか、黒子っちも早くね!と息巻いて黄瀬が続き、一度だけ振り向いた緑間が窓枠に足をかけ飛び降りた。
黒子や赤司よりも先に行く気がないのかうろうろと迷う紫原に目をやって、赤司が黒子を振り返る。
「何してる。黒子、お前も━━」
「赤ちん?」
呼びかけようとしたまま止まる赤司に紫原は首を傾げたが、振り向かないまま追いやるように手を振られた。
「いい、先に行け」
彼に命じられてしまえば逆らえないのはもはや本能だ。崩壊の振動は今にも教室を潰さんばかりで、迷う暇もない。
早くね!と後ろ髪引かれるように声をかけ、紫原もその巨体を窓の外へ躍らせた。
そして赤司は、黒子と向き合う。
「黒子……お前、影を、どうした」
「君にはどうにもごまかしが効きませんね。追いかけますよ。……必ず」
言葉を濁して笑う。崩壊の衝撃を受けることのない彼の足元には、あるべきものがない。
「約束するんだな」
「はい。約束です」
滅多にないほど晴れやかに笑う黒子に呆れたように溜め息をついて、波打つ床の上、窓枠に掴まったまま動くことの出来ない赤司は、指先で黒子を手招いた。
信じるのかと確認してからこれだ。一番小さくて大した力もないくせに、全く侮れない。
「……一度くらい、僕もやってみたかったんだ」
窓枠に片足をかけ突き出される拳に、黒子は口許を押さえて笑いを堪える。
近づいて、もはや触れることの叶わないその拳に、そっと拳を合わせた。
「5対1だったな。コートで待っている」
「はい」
真っ直ぐに目を見て。
「僕は気が長いほうじゃない。急げよ、シックスマン」
最後まで僅かにも目を逸らさないまま、何があるのかわからない闇の中へ、赤司は後ろ向きに飛んだ。
見上げた窓で手を振る友から、目を逸らさないままで。