そして運命は分岐する

幽霊がいれば温度は下がるもの。
 スレッドに表示された文字に、温度計を見ていた赤司が「なるほど」と呟いた直後だった。
 変化はあまりにも急激だった。

「赤司」

 硬い緑間の声に、ああ、と頷きだけを返す。
 荷物のベルトを握り、一気に冷え込んだ室内に忙しなく視線を走らせる。先ほどのようなわかりやすい変化はない。電気はついたまま、何の気配もなく、廊下も静まったままだ。
 ただ、呆れるような速度で温度だけが下がっていく。
 吐いた息が真っ白に踊るのを見ながら、そろそろと腰を上げ、寝ている仲間の元ににじり寄ると、紫原の肩を数度叩いた。

「お前達、起きろ。休憩は終わりだ」

 潜めた声で赤司が言うのに、バネが切れたような勢いで黄瀬が起き上がり、起きた瞬間「さむ!!」と吐き出す。
 赤司の呼びかけよりもその声の大きさにぎょっとして、黒子と紫原も目を覚ます。

「なんですか、これ……」
「わからない。突然温度が下がり始めた。前を閉じろ。凍えるぞ」
「冷蔵庫じゃないんだからさー」
「冷蔵庫どころかこれじゃ冷凍庫っスよ」

 身支度を整える三人を見ながら、緑間は最後の書き込みを済ませ携帯を閉じた。
 青峰の声が聞こえてこない。気になって近づくが、良い状態でないのは目に明らかだ。
 目は開けている。呼吸も落ち着いてきているが、目が虚ろで話しかけられても微かに頷く程度だった。
 体を起こそうとするが、引き上げた黒子の肩にそのまま倒れ込んでしまう。

「峰ちん〜……」
「動かすのは無理そうです」
「悪い……力入らねー……」
「吐き気は? まだ苦しいですか?」
「それはへー……ウワ……ッ」
「青峰君!?」

 支えた肩がビクリと跳ね上がり逃げを打つのを、倒れる前に黄瀬が支え、黒子のほうへ押し戻す。

「どうしたんスか!?」
「どうしたって、聞こえないのかよ……!?」

 引き攣った声で青峰が吐き出したその瞬間、空気が凍りついた。

 ……ずる……ず……ずる……

 何かを引きずるような重たい音に混じって、微かに声が聞こえてくる。泣き声だ。小さな子供が泣きながら、何かを探している。どこ?と時折交じる声でそうと悟る。
 声が近づくにつれ廊下の電気が不安定に点滅し始め、やがてヴ…という微かな音を立てて闇に閉ざされた。
 誰も声を上げない。ごくりと、唾を飲み込む音だけが重たく頭に響く。
 点いていた教室内の電球も点いたり消えたりと不規則な変動を見せ始めたところで、赤司は全員の顔をぐるりと見渡した。

「陽動に出よう」

 低く、抑えた声言う。

「涼太、敦、走れるか」
「━━━━大丈夫ー」
「ちょっと寝たらすっきりしたっスよ」
「何を……」
「敦、悪いがさっきのロザリオをテツヤに貸してやってくれ。真太郎、効果のほどは知らないが効きそうな札を模写しておいた。暇だったら量産しておけ」
「何を考えてるんですか!」
「言っただろう。陽動作戦だ。やつらの興味をこちらに移す。足の状態を考えれば涼太も残してやりたいところだが、動けないのを三人固めても不安が残る。この組み合わせがベターだ」

 彼が言わんとしていることを正確に理解して、黒子は顔色を失った。すぐそこまで迫ったあの恐怖を引き受けていくと、そう言っているのだ。
 話ができるわけでもない、常識の通じない相手にどうしてそんな駆け引きをしようなどと思えるのか。意味がわからない。

「やめて下さい、離れちゃ駄目だ、そうだ、助けを求めましょう、きっと誰かが」

 言いながら携帯を開き、文字を打ち込もうとするが、状況を説明する余裕はない。助けてという言葉しか浮かんで来ない。スレに落ちている文字も理解できない。
 頭の中がぐちゃぐちゃに掻き回されている。

「テツヤ、ごねるな。全員で動ける状態か、考えればわかるだろう」
「ごねていません!! 君達は一人も欠けずに帰らなきゃいけないんです、君達は……!!」
「当たり前だ。だからみすみす大輝をくれてやるわけにはいかない。この小さな学校の中だ。すぐにまた合流できる」
「相手は生きた人間じゃないんです! 君は自分が万能じゃない、ただの高校生だということを知るべきだ!!」

 叫んだ瞬間だった。バンッと音を立てて片側の引き戸が開き、全員の肩が跳ね上がる。
 しかしそこには何もない。
 何もないと思い、不安ながらも力を抜きかけた、その次の瞬間。

  ド  ォ    コ    ォ    ?

 重い、重い響きで、子供とは思えないおぞましい声が空間にのし掛かり、そして全ての明かりが消えた。
 何も見えない。何も見えないはずなのに、見える。
 開いた戸の向こうに、小さな塊があった。ずる…ずる…と、焦らすかのようにほんの僅かずつ、近づいてくる。
 入口をまたぎこす瞬間に何かがジュッと煙を上げた。むずがるようにその場で転がる塊が、やがてむくりと面を上げる。
 体は俯せたままで、ありえない角度で、まるで浮き上がるかのように顔だけが上がり、ぽっかりと浮いたような眼球がぐるりと回った。何かを探すように。
 一人じゃない。這いずる小さな影の奥に、もう一対の目が見える。高く、高く、高く、遠くで笑う声がする。

「う…あ……」

 言葉にならない声を上げて、黒子は上げかけた腰を落とした。落ちた、というのが正しい。完全に腰が抜けていた。
 青峰を支えていた腕からも力が抜ける。
 どうしてこんな時に。足手纏いになるのか? こんな時まで、一人無力なままなのか?

「━━━━赤司」
「何だ、お前も反対なのか、大輝」
「癪に障るが、お前の言うことに間違いはねーよ……すぐ動けるようになる。少しだけ、時間くれ……」

 彼らにはどこまでが見えているのか。自分と同じ光景を見ながらこんなに落ち着いているなら、同じ人間とは思い難い。
 言葉もなく首を振る黒子には構わず、膝をついていた三人は立ち上がり、緑間は持っていた制汗剤を赤司に投げ渡した。
 腰を屈めた紫原が黒子の手を取り、ポケットから取り出したロザリオの小袋を握らせてくる。
 声も無く首を振り続ける黒子の頭に大きな手を落として、いつになく優しい仕草で掻き回す。

「黒ちん、何見える?」
「こ、こど、子供です、なんで、みんな、み、みえ、みえて、」
「うん、オレはなんか、手足生えた黒いのがもぞもぞ動いてるくらいしかわかんない。だからそんな怖くねーし、大丈夫。声うるさいけど黒ちんがぐちゃぐちゃ言うのよりはまし」

 言いながら、紫原はいつも通りのゆるさでへらりと笑って、よいしょーと場違いな声を上げつつ腰を伸ばした。
 「黒子っち、青峰っち、緑間っち、また後でっス!」と殊更に明るく言いながら、黄瀬が拳を突き出してくる。ほんの数日前に同じ仕草をして見せてくれた、その時の信頼を思い出せない。

「それじゃあ、行こうか」

 コートへ向かうのと同じ声で、同じ抑揚で言って、赤司は笑った。何よりも頼もしいと思っていた、かつてのままの不敵な顔で。
 置いていかないでと、誰のものかわからない声が頭の中で反響する。
 先ほどのように逆のドアではなく、怪異の淀めくその場所へ躊躇いもなく向かう背中に、黒子は声もなく悲鳴を上げた。