ずっと膝を抱えていた。
長くそうして居すぎて、時間の感覚はすっかり麻痺していた。
二時間経ったのか、三時間経ったのか。体感は曖昧で、現実感も遠のいている。
走り出しながら制汗剤を噴出して入口に向かった赤司は、まさに言葉通り、子供の影を蹴散らした。
形を揺らがせながら驚いたように転がった姿はいっそ無邪気だったが、闇に溶ける前に一瞬だけ見えた、見開かれた目の赤とむき出しにされた赤茶の歯が、彼らの怒りを端的に表していた。
3人が出て行っても電気は切れたままだったが、しばらくすると廊下の明かりが灯り、それが教室の中にまで差し込んで、『アレ』が目の前から去ったことを悟った。
支えているつもりだった青峰に、ずっと庇うような姿勢で抱きしめられていたことに、その時になってようやく気がついた。
その場において黒子は、いや、黒子だけが、完全に無力だった。
「赤司君の言ってた意味が、わかった気がします」
「━━━━何なのだよ」
携帯は開かなかったから、正確な時間の経過はわからない。
スレが頼みの綱だ。だけど今は、目の前から意識を逸らすのが怖い。
何より、ここに戻って来ない彼らが呑気にスレッドを眺めていられるとは考え難い。もしも互いの間でまで時間の齟齬が生まれてしまったらと、考えるのすら恐ろしかった。
緑間は黙々と赤司が残した手帳の文字をリングノートに写し取っている。
お札と呼ぶには余りにも雰囲気のないボールペン字の書き取りだ。それを書いては千切り、書いては千切り、床に積み上げていく。 赤司達が出て行った戸をじっと見つめる。
電気が切れたままの教室も、室内に光を落とす明るい廊下も落ち着いた様子で、電気や温度にも変化はない。
素人判断で本当に怪異を連れていけるのだから、大したものだと思った。
守りを全部こちらに託して、ほとんど丸腰で、友人の命までも預かって走っていけるのだ。コートの中以外では、永遠に勝てる気がしない。
青峰は緑間の足に額を付けるようにして眠っている。呼吸は完全に落ち着いて、今はただ体力を取り戻そうとしているように見えた。
「掲示板。みんなほんとに心配してくれてるのがわかって頼もしいんですが、やっぱり何か演技がかってて、マンガでも読んでるみたいです。ネット向こうにいる誰かにとっては、僕たちのいるココは現実じゃない」
「仕方がないのだよ。オレ達も同じ立場なら同じように他人事だろう」
「そうですね。━━━━僕の目から見たって、あそこがほんとに現実なのかわからない。曖昧で、不明瞭で、会話してるのがほんとに自分なのかもよくわからなくなります」
心配してくれてる。わかるから頼もしい。
だけど同時に思ってしまう。どうせ本当にはわかりっこない。
どんなに、僕らが、どんなに。
「怖いんです」
声が震えた。声に出しては言わないでいようと思っていた。言った瞬間に足下から崩れていってしまう気がした。
みんながいる。だから大丈夫。
まだ生きてる。だから大丈夫。
大丈夫なわけがない。帰り方どころかここがどこなのか、いつまで続くのか、なにもわからないのに。大丈夫なわけがない。
「帰りたいです」
肩を震わせてうずくまり、小さく、小さく、泣き言を漏らした。
崩れそうになった、その瞬間だった。
か え ろ
唐突に、耳のそばすぐ近くで声が踊った。
言葉にするのが難しい、遠く近く反響するような、老人のような子供のような、ぞっとする声だった。
一気に血が下がって指一本動かせなくなる。毛穴という毛穴から嫌な汗が吹き出して、呼吸が止まる。耳元で聞こえる息づかいは、仲間のものじゃない。
ひゅー…、ひゅー…、びゅー…と、隙間から細い風が吹き込むような不気味な音だった。喉から呼気が逃げるような。
凍てつきそうな冷たい空気が一気に体を包み、がちがちと歯が鳴って頭の奥まで反響する。
傍らに座る緑間は気づかないのか、気になるが動けない。振り向けない。生臭いような臭気が体に纏わりつきながら立ちこめていく。
バキリと何かが割れる音がした。手に握りしめていたそれは……ああ、借り物だったのに。
怖い。
怖い。
怖い。
床にすり付けるように何とか動かした指先で緑間の手を掴み、必死の強さで握った。驚いたように緑間が振り返る。顔の角度一つも動かせないまま、見開いた目だけで視線を返す。動けない。金縛りとかそんなものじゃない。純粋な恐怖からだ。
左手は緑間の手を握っている。右には誰もいない。誰もいないはずなのに。
じゃあ。
這い上るように腕を辿ってくる、この、小さい手の感触は。
顔のすぐ脇に感じる、この息の生ぬるさは。
ヒッ、と喉を引き釣らせた緑間の手がきつく黒子の腕を掴み、引き寄せると同時に、自分のものとは思えない声が喉から迸った。 恐怖に強ばり這い蹲りながら振り返ったそこで、小さく丸くなった幼い子供がへらへらと笑っている。
か え ろ
茶色くくすんだ体。左腕は肩からもげかけ、残りの四肢はあり得ない方向に曲がり、歪み、泥にまみれた顔の中で張り付く髪に隠れない片目だけがこちらを見ていた。
こぼれ落ちそうなほど真っ赤に腫れ上がり充血した、異形の目が。
真っ直ぐに、黒子だけを。
「うわあああああああああっああああああああああああぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁ!!!!!」
見ていた。