# 01
好きや、って、声に出ていたと気が付いたのは、いっぱいに頬張る日向の頬が止まったからだった。閉店間際のカウンター越し、まん丸の瞳がきょとんと揺れる。月に何度か侑に連れられて、時には一人でも来てくれるこの腹ペコが満足そうに腹を満たしていく様を、浮ついた気持ちで眺めるようになったのはいつからだったか。好きやなあって、炊飯器の中でふつふつと米が踊るみたいに身体が煮立つ。それはあまりにも馴染んだ感情で、治の生活の中にありふれたものだった。だから気が付かなかったのだ。突然その蓋が開いてしまったことに。
取り繕う暇なんていくらでもあったのに、やっぱりいつもみたいに、日向の顔から眼が離せない。もぐもぐと口を動かしてしっかり飲み込んでから、日向が呟く。
「おれも好きですよ」
「ええ……?」
――絶対分かってないやん。例えばほら、さっきみたいに、ちゃあんと食い終わってから考え事するんが好き。飯の時間を邪魔してええもんなんて何にも無いんや。元気を体現したみたいなその声と身体が好き。食うのにわくわくしとるって、店に入った瞬間に分かるから。頬張る顔も、腹いっぱいの顔も、全部好き。そんで、好きやなって思うと、その口はどんな味すんねやろ、とか、最後まで食ってもうたらどんなに美味いんかな、とか、そんな悪いことまで考えて。
「俺の好きって、食いたいとか思うとる好きやで」
「お、おれを……?!」
ぎょっとした日向に、治は内心おいおいとつっこみを入れた。成人男性に、この手の比喩が伝わらないことがあるだろうか? いや、あまりにも対象の外側にいたから結びつかなかっただけなのだろう。でもほんま、もちもちのほっぺとか、齧り甲斐のありそうな腹筋とか、食ったら美味そうやな。
「……おれの好きは、手繋ぎたいとか、えっと、そういう、好き……です」
しんと部屋が静まった気がした。元よりテレビは消えていて、時折、日向の後ろの壁のまた向こうから車が通る音がするだけだ。それでも確かにあった日常の音が消えて、心音だけがどくどくと響いた。視線から逸れた日向の瞳が、少しの後悔を含むように揺れる。いつも前だけを、常に上を見て走る彼が、下を向くこともあるのだと気が付いて、胸がきゅうっと鳴いた。だって、治の遠回りな告白なんか日向には届いてなんていなくて、それなのに、それでも、日向は。
置かれた箸の奥、手持ち無沙汰に組まれた指に、そっと手を伸ばす。ふにふにと肉厚なようで、表面はかたい、バレーの手。数年前までは周りに居る人のほとんどが、こんな手をしていた。でもその誰とも違う。あったかいなあ。おにぎり、握ってるみたいや。
「あっあの、治さん」
「なん?」
繋がった手から視線を上げると、漬かった梅みたいな真っ赤な顔。日向の言葉が嘘じゃないって嬉しくなって、同時に、気付いてもらえなかった告白が少し悔しい。指先を日向のそれにくぐらせて、絡んだ指ですりすりと撫でた。好きだって伝えるみたいに。心臓がうるさくて、胸から遠いこの先端までどくどくしている。こんなに全身で叫んだって、きっとこの子には、まっすぐな言葉しか届かないから。
「翔陽くん、好きや」
「ふふっ、手、繋いじゃいましたね」
「はは、せやな」
じんわりと温い熱を、ぎゅっと握り込む。同じ強さで返ってきた力が嬉しくて、気が付いたらカウンターの反対側に向かって腰を屈めていた。あんなに食べてみたかった桃色は無味無臭で、感触は思っていたよりも柔らかい。中まで舐めたら、さすがに味がするんやろうか。さっき渡したのは、ツナマヨ。美味いんやろうな。美味いわ、俺が作ったんやもん。好奇心は擽られるけれど、湯立つ顔が今はこれが精一杯だと告げていた。唇を柔く噛んで楽しんでから腰を持ち上げると、治よりも赤い顔をした日向がぷるぷると震えていた。いや、俺もおんなしくらい赤いのかも分からんけど。わななく日向を見ていると、ぴんと張った緊張よりも笑みが勝って、堪えかねた声がくつくつと出た。
「食ってもうた」
「ハッ、ハイ……」
カラン、とグラスから音がした。顔を見るのに夢中でお冷を切らしたままでいたなんて、自分の盲目ぶりに笑える。好きな子である以前に、客なのに。あれ、でももう、客以前に恋人、っちゅうことになるんかな。考えながらもグラスに水を注ぐのは、もはや体に刷り込まれた条件反射だった。熱い顔を冷ますように、日向がグラスを仰ぐ。濡れた唇が色っぽいなあ、なんて思いながら、わくわくと身を乗り出した。
「今度休みいつ? デートせん?」
「デート!! 初デートですね!」
「……俺はこの前の買いもんも、デートやと思っとったんやけど」
「エッじゃあ二回、三……? 四回目……」
懸命に記憶を辿るのがかわいくて、ハハハと笑うと不思議そうな顔を向けられた。多少は大人になったと思ったのに、好きな子には意地悪をしてしまうし、耐え性もなくてどうしようもない。飾らないこの子に、自分もありのままで接しようと思った。うんと意地悪をして、うんと優しくすると決めた。今決めた。
「付き合うてからは初デートになるなあ」
ふにゃりと笑った顔が目に入って、治の頬も緩むのが分かった。さっき注いだの、酒やないよな? って疑いたくなるくらい、柔らかい顔も火照った頬も、全部にキスをしたいくらいかわいい。
「楽しみやなあ、全部食うの」
「くう……?」
「さっきみたいなん、身体中」
「はぇっ……?!」
冗談や、なんて笑ったけれど、そうやってほっとした顔にさせてから狩りをするのだって、肉食動物の常套手段だ。コート上で静かな獰猛さを見せる日向が、小動物のように震えたりなついたりするのがたまらなかった。だから忘れていたのだ。先に狩られたのは、自分の方だって。
「え、えっと……た、食べてもいいですよ……?」
「!!!!」
耐えかねてへなへなとカウンターに突っ伏した。もうええ。飯置くとこやけど、閉店時間過ぎとるもんな。めっちゃ拭くから許してくださいって、誰に向けるでもない叫びを脳内で発した。だってもう、腹いっぱいで動けへん。
「煽らんといて……」
「あはは、治さんかわいい」
頭に乗る手が、柔らかく動く。頭触られんのなんて親以来やなあ、なんて思いながら、満腹感に微睡んだ。