키타


「北、ちょっといいか」

北信介が監督に呼ばれたのは3月の頭のことだった。部活後に呼び出された北は監督からとある資料を手渡された。

「今年の新入生の中に俺が呼んだ奴がいてな。そいつのことで少しお前に話しておきたいことがある」

手渡された資料に目を通すと、『烏野高校3年日向翔陽』とあった。鮮やかなオレンジが目に飛び込んでくる。

「北はその日向って選手を知っているんじゃないかと思ってな。昔戦ったことがあるだろう?」
「はい。春高で一度」

思い返すのはあの『バケモン達の宴』。そこに混ざることが出来たラッキーな自分。目を奪われたのは小さなオレンジだった。バケモンの一人であった日向が春には同じ大学へと進学してくるという。あの、心が沸き立つ瞬間をまた見ることが出来るのかと、自然と笑みが零れた。だが、日向には相棒がいたはずだった。あの正確無比なトスを上げる影山という男が。

「監督、日向にはとんでもない速攻を使えるセッターがいたはずでは?彼と同じ大学に行くんと違うんですか」
「ああ、やっぱりそう思うよなあ。俺もそう思っていたし。まあ何と言っていいのか…」

言葉を濁して曖昧な言い方をする監督に、北もなんと返していいか分からずに口を閉ざす。監督も唸って頭を掻いたが、「お前を呼んだのはそのことについてなんだよ」と話し始めた。

「実は彼、大分進学で悩んでいたみたいでな。影山と一緒にウチに来てくれるならそれも面白いとは思ったが、ウチには侑がいる。どちらかというと、俺は日向に興味があったから彼だけスカウトしに行ったんだ。その時はすぐに返事が貰えなくてなあ、彼は随分迷っていたみたいで。これはダメかなと思っていたが、その後返事が貰えたんだ。ただその時、『侑さんと組んだら影山を倒せますか』って鬼気迫る様子で聞かれたもんでね。きっと最強のコンビになれると思うって答えたらウチに来たいって言ったんだ。…きっと色々あったのだと思う。親元を離れての進学になるし、一人暮らしだ。少し危うい感じがして心配でな。北が知っているなら、あの双子も日向のことを知ってるんだろう?」
「ええ、おそらくは」
「そこがまた心配なんだ。あの二人にオモチャにされないかってな」
「ああ、それは確かに」
「だから、北も少し気にかけてやってくれ。お前になら任せられる」
「分かりました」

少し面倒な仕事を任されたなと思いながらも、日向に再び会えることを楽しみにしている自分がいたのは事実だった。



「北信介や。俺は選手やないけど、よろしくな日向」
「よ、よろしくお願いしますっ!あのっ!北さんって稲荷崎のキャプテンだった人ですよね!?」
「ああ。よう憶えてるな」
「すごい丁寧なプレーする人で、レシーブがめちゃくちゃキレイでした!北さんがコートにいるとすっごい緊張するって言うか、ピンとするっていうか」

春に日向に対面すると、日向は北のことを憶えていた。そのまま北を称賛する言葉を並べていく日向に、北も驚きに固まってしまう。双子のような華のある選手ではない自覚がある分、褒められることには慣れていなかった。

「北さんってスッゲーカッコイイですっ!これからよろしくお願いしますっ!!」

輝く様な笑顔に知らず目を細めた。思わず目が眩んだような気がしたのだ。日向の邪気の無い賛辞に胸が暖かくなった。日向の頭を優しく撫で、手を差し出す。握手を交わしながら改めてよろしく頼むと伝えれば、お日様のような笑顔が返って来た。
北はまだこの時、日向の事を真っ直ぐな子だな、としか思っていなかった。





北の朝は早い。
選手を引退した北はスポーツトレーナーとしてバレー部に所属している。バレーボールで将来生きていくわけではないと考えていた自分に、高校の恩師は様々な選択肢を提示してくれた。その一つを選んだ結果、北はこうして選手を支える側として立っている。
朝練が始まる前に誰よりも早く体育館に来て準備を始めるのだ。現役時代からの反復・継続・丁寧は北の基盤である。誰よりも近くでチームメイトを見ることによって、チームの最善を導き出すことが北の仕事の一つだ。
ランニングを一緒にこなし、マネージャーの手伝いをして、それぞれの選手のデータをまとめてトレーニングの仕方や練習内容を検討。極力苦手を克服させて得意を伸ばしていく。手が足りなければ練習にも付き合い、ボール磨きなども行う。体育館の掃除をして北の一日は過ぎていった。


そんなルーチンワークのような生活に、新しい色が加わった。
ある朝、北が朝練の準備のために体育館に着くと、体育館前には鮮やかなオレンジの姿があった。

「日向?」
「北さん!お早うございます」
「お早う。えらい早いな。何かあったか?」
「いえ、道を覚えようと思ってランニングしてたら、思ったより早く着いちゃって」

真面目なことだと感心しながら、北は体育館の鍵を開けて日向を促す。そのまま二人で朝練の準備をしながら、言葉を交わし始めた。

「毎日走ってるんか?」
「はいっ!おれ高校の時は通学に自転車で山越えしてたんです。身体が鈍らないようにランニング始めたんですけど、まだ道がよく分かんなくて。今まではちょっと遅刻気味だったんです」
「そんなら、俺と一緒にランニングするか?」
「えっ?」
「これでもこの辺の道には詳しいで。ランニングするならそれに適したルートも知っとる。もちろん日向が嫌じゃなければの話やけど」
「嫌だなんて!むしろありがたいです!よろしくお願います!」

北からの提案に飛びついた日向は喜色満面の笑みを浮かべる。これほど素直に感情表現する後輩を見たことが無かった北は、日向のためになるならもっと手を貸してやりたいと感じていた。

「決まりや。まずは日向の住んどるとこを知らんとな。今日の帰りに教えてくれるか」

それから、朝は二人でランニングをしてから朝練に参加することが日課となっていった。




日向は北が今までに見たことがない程、素直な良い子であった。よく言えば真っ直ぐ、悪く言えば単純ともとれる子だ。プレーの粗を指摘すれば修正しようと必死に努力するし、分からないことや疑問に思うことがあればすぐに質問をしてきた。北の周りにいる問題児達と比べれば、なんと愛らしい存在だろうかと感動したほどだ。
コミュニケーション能力も高く、すぐに部員達に溶け込んで笑顔を振りまいていた。あのクセの強い双子達とも仲良くやっているようで、よく一緒にいる所を見かけている。一緒にバカをやっては北が正論パンチを放っての説教をすることも、最早お約束になりつつあった。今の所オモチャにはされていないようだが、北は注意を払うようにしている。
そして、日向はやはり『バレーを愛するバケモン』であった。ボールに対する執着は外から見ている北ですら、恐ろしいと感じる程だった。いつかその執着が、その熱が、日向の身を滅ぼすのではないかと、不透明な未来が過ぎる。
だが北の心配を余所に、日向は意外にも冷静な面を持ち合わせている男だった。コートで得られる情報を分析し、身体を動かしている。日向の選択肢をもっと増やせるようにするのが自分の役目だと、北は日向のサポートを惜しまなかった。日向のクセ、行動パターン、試合中の動き、フォームの修正などなど。日向は素直に与えられるものを吸収し、もっともっとと自ら求めて更なる成長を見せ始めた。



そんなある日、日向が怪我をした。
ブロックをした際に強打が当たり、右手の指の付け根を切ってしまったのだ。体育館の床に滴る赤い雫に、一時は騒然となったが、北が傷口をタオルで強く押さえてそのまま日向を治療のために更衣室へと移動させたことによって練習は再開された。
日向を椅子に座らせ、北は応急処置のために救急箱を急いで運ぶ。

「日向、そのまま強く押さえとけ。とにかく血を止めなアカン。痛みは…あるに決まっとるな。指の感覚はあるか?痺れたりは」

北の問いかけに、日向は顔を歪めながらも指先を動かして具合を見ている。その動きから、骨には異常は無さそうだと判断した。

「痛いですけど、痺れはないです。指もちゃんと動きます」
「せやな。多分骨には異常は無さそうや。痛みが悪化するようなら病院に行った方がええ。けど、珍しいな。日向が怪我するなんて」

救急箱を床に置き、北は跪いて日向の右手をとった。日向が押さえているタオルを静かに外し、傷の状態を看る。出血の割に傷は浅く、これなら大丈夫だろうと重ねたガーゼを当て、強く固定して止血を試みる。テーピングの要領で日向の右手をグルグルと巻いていると、ポタポタと透明な滴が落ちてきた。何かと思って視線を上げると、日向の両目から、止めどなく涙が零れ落ちていた。
北はギョッと目を剥いた。

「っ!?ひ、日向どないした?泣く程痛むんか。やっぱ病院行くか?骨か、骨折しとるかもしれん。ああ、剥離の可能性も…」

あの元気いっぱいの日向が泣くなんて。あまりにも衝撃的な出来事に、普段冷静な北も混乱してどうしたものかと慌てふためくと、日向が小さく笑った気配がした。

「北さんでも、慌てることがあるんですね。すみません、泣いたりして。でもなんか、止まんなくて」
「日向…」
「おれが怪我して、北さんの仕事増やしてることとか、折角北さんがトレーニングや練習を見てくれてるのにこんな怪我しちゃったこととか。北さん優しくて頼りがいあるから、なんか、烏野の先輩たち思い出しちゃって…。なんて言っていいか分かんないんですけど、色んなことがグワッてあふれて、泣いちゃって。本当に、すみ、ません」

泣き続ける日向の言葉を聞きながら、北は静かに手当てを続ける。包帯を巻き終わっても、日向の涙は止まらなかった。
日向は悪くないと、安心させたくて、北は優しく日向の頭を撫でた。

「謝らんでええ。日向のサポートするんが俺の役目や。この程度の怪我でお前は弱なったりしないし、泣くことは悪いことやない。お前が頑張っとるとこ、俺はちゃんと見とる。日向は焦る必要なんてない。家族から離れて、きっと日向は寂しい思てるだろうけど、ここには新しい仲間がぎょうさんおる」
「きた、さん」

顔を上げた日向の瞳は、涙で濡れても輝いていた。瞬きした拍子にポロリと涙が頬を伝う。この瞳を曇らせないことも、自分の大切な役割だと認識していた。泣き顔だって可愛いが、日向はやはり、笑顔が一番似合う。

「バレーは一人では出来ひん。コートの中にも外にも仲間はおる。中には侑と治がおるし、外には俺もおる。日向が一人で抱えるようなことなんて、何もないんやで」
「うえ、っ、北、さんっ…!!」

しゃくり上げて泣き始めた日向だったが、その雰囲気はさきほどまでの緊張に張り詰めた雰囲気から一変して安心したような柔らかなものになっていた。緊張の糸が切れて、溜め込んでいたものが一気に噴き出しているのだろう。思い切り泣いて、心が軽くなれば、日向は自分で羽ばたける子だ。

「俺は先に戻る。日向も落ち着いたら戻って来い。泣くとこ見られるんは嫌やろうからな」
「あ、ま、って」

立ち上がり、席を外そうと日向に背を向けようとすれば、日向が手を伸ばして北を引き留めた。北の腰に手を回して、腹に顔を突っ込む。

「…っ!」
「少しだけ、このままで。お願い出来ますか」
「ええよ。これやったら俺も日向の泣くところは見えへんからな。思いっきり泣いたらええ」

着ているTシャツが湿ってくるのを感じながら、タオルを渡してやれば良かったと少し後悔した。だが自分に縋る日向の姿に、今まで感じたことの無い感情が湧いてくるのを自覚していた。この太陽のような子が、愛おしいと。この手で守りたいと。
北は日向が泣きやむまで、ずっとその小さな背を優しく撫でていた。




「大変、お見苦しいものをお見せしました」
「俺は別に構わんかったけどな。珍しいもんが見れたし役得や。それよりほら、これで冷やしとけ。真っ赤に腫れとる」
「ううぅ、北さん用意が良すぎます。その優しさでまた泣きそう」

日向が落ち着いた頃、北は冷やしタオルを用意して日向に渡した。泣き腫らした目元が真っ赤になって痛々しいが、その表情は晴れやかだった。
目元にタオルを当てている手には、幾重にも包帯が巻かれ、しばらくは無理が出来ない状態だなと北は今後の予定を考えていた。

「日向、その手じゃ料理やら風呂やら生活が不便やろ。今日は俺んとこ泊まっていけ」
「え、でも」
「迷惑なら最初から誘わんからな。なんならしばらく俺のとこおってもええし。そもそも手当ては自分じゃ出来んやろ」
「そ、それもそうだ。なら、お言葉に甘えますっ!」
「よし、決まりや」

そろそろ練習に戻ろうかと思い始めた頃、なにやら廊下が騒がしい。嫌な予感がすると思っていたら、壊れそうな勢いで更衣室のドアが開いた。

「翔陽くん大丈夫か!?」
「翔陽、手は無事なんか!?」
「侑さんと治さん!?なんでここに」
「「そんなんお前が心配だからに決まっとるやろ!!」」

飛び込んできたのは日向を気に入る宮兄弟だった。長身の二人が日向を左右から挟んで手の怪我を心配している。怪我は問題ないと話す日向だが、泣き腫らして真っ赤になってしまった目元に気付かない双子ではなかった。本当に大丈夫なのかとギャアギャアと騒ぐ。
双子は失念していた。日向の怪我を手当てしていたのは誰だったのかを。

「侑、治。お前等練習はどうした…?」
「「ヒイィッ!北、さん」」
「まさか、抜け出したりなんてしてへんやろうな。なあ?」

北の正論パンチが双子に炸裂した。





そしてまたあくる日、治が日向に悪戯をした。寝ていた日向の額に、油性マジックで“治”と書いたのだ。他愛もない悪戯だと流すことも出来たが、北はモヤモヤとした不快感を拭うことが出来なかった。
あれは、治が日向を自分のモノだと主張している。周りへの、特に侑への牽制だということは瞬時に悟った。そして双子の間に走る妙な緊張感。それがチームにとっての不協和音を奏でる要素になり得るか否か。今の段階では北にも判断出来ないことだ。
だが、不安要素は消しておくに限る。チームにとっても、自分にとっても。
一度きちんと話しておかねばならないことだと、北は自分の為すべきことをするために歩を進めた。

「くうぅ〜っ、洗ってもあんま落ちなかった…!!」
「日向。それ油性ペンで書いてあるから落ちにくいと思うで。気が散るんやったら救急箱に大きめの絆創膏が入っとるから、それ使い」
「あざッス!ちょっと行ってきまーす」

日向が体育館を後にするのを確認してから、北は未だに火花を散らしている双子へ向き合う。

「侑、治。お前等日向にちょっかいかけるつもりなんやったら、俺はそれを見過ごすことは出来ん」
「「っ!!北さん」」
「日向に生半可な気持ちで手え出したら、俺がぶっ飛ばしたるからな」
「「……」」

双子の間で散っていたはずの火花は、北も含んで三角を成した。北の鋭い視線を受けても、双子は怯むことなく不敵に笑んだ。

「…あ〜あ、北さんまで参戦てどないなん?あの子ホンマおっかないわ」
「ホンマ、翔陽は罪作りな子やなあ。まあそこが良えとこでもあるけど」

北さん相手でも、俺等は引きませんよ。
双子に手を引かせるつもりでの忠告だったが、余計に闘争心を煽ってしまったようだ。この判断が吉と出るか凶と出るか。例えどんな結果になったとしても、自分は日向を守るだけだ。




(気付いた時にはあの子の隣で支えたいと思った)