# 01 及川徹と銀の国のこと
アルゼンチンの首都ブエノスアイレスは、南米のパリとも呼ばれる美しい港町だ。そのブエノスアイレスのニューベリー空港から国内線に乗ってさらにフライトすること2時間。
その末にようやく辿り着くのがアンデス山脈東麓の町、サン・フアン州だった。
及川徹がこの国に来て、もうすぐ半年が経つ。
***
今日の語学スクールは午前で終わりだ。
建物を出た及川は、降り注ぐ陽射しにぎゅっと眉をひそめて自転車へ駆け寄った。
昼食をスクール内で取っていたこともあり、時刻はそろそろ13時になるので、完全にシエスタの時間帯だ。市街は人気もほとんど無くなっており、強い陽光が白い地面に黒々とした影を描いていた。
シャッターの降りたスーパーや個人商店、門の閉じた教会、閑散とした住宅街。痛いほどの陽射しの中、ゴーストタウンと化したサンフアンの街中を、及川は自転車で駆け抜ける。
現在の住居であるこざっぱりしたアパートまで辿り着くと、昼寝に入っているであろう周りの住民の邪魔をしないよう注意を払いながら自転車を停め、これでようやく帰宅だった。
「……ただいまぁ」
返事が返ってくるはずもないが日本語でそう呟いて、些か乱暴な手つきで身軽になると、ふらふら寝室へ向かう。
遮光カーテンを閉め真っ暗になった室内で、少し硬いベッドに潜り込み、身体中の力を抜きながら目を瞑った。シエスタだ。アルゼンチンの全ては昼過ぎから夕刻まで、ゆるやかな眠りにつくのだ。
元気になりたい、と及川は瞳を閉じたまま思った。
この眠りから目覚めたら、あの頃のような自分に戻ればいいのに。
及川はバレーボールが好きだ。
練習が好きだ。上手くなれば嬉しい。後輩の面倒を見るのも割と得意。友人たちと切磋琢磨するのも楽しかったし、他人の上手いプレーに嫉妬だって沢山して、その分山ほどの努力をした。
そして、そこから更に飛躍するために、師事したいと決めたブランコへ頼み込んで頼み込んで頼み込んで、今こうしてアルゼンチンの大地を踏んでいる。高校卒業後コーディネーターの手を借りてアルゼンチンへ渡り、今は奨学金で語学学校に通う傍らバレーボールをする生活だった。
事前にホセ・ブランコに対し、貴方の指導を受けたいのだと熱烈なラブコールを送っての渡亜なので、彼が監督をしているアトレティコサンフアンの下部育成チームに加入することが許されたのは幸運だった。
多忙な彼と直接会話することはそこまで多くなかったけれど、あのブランコが単身海を渡ってやってきた日本人の若者のために手を回してくれたのは明白なので、それだけでやる気はどこまでも湧いて出た。
けれど、やる気だけでどうにかなるものなら世の中は成功者で溢れ返っているわけで。
勿論及川だって最初から全てが順風満帆に進むなんて思っていなかったけれど、それでもやっぱり上手くいかないことが重なってくれば段々と元気はなくなった。
アルゼンチンの英語普及率はそれ程高いわけではないから、日常生活はスペイン語が出来なければ話にならない。その上アルゼンチンで使われるスペイン語は独自に進化している部分も多く、特にヒアリングが高難易度だった。
なんとか最低限のやりとりはスペイン語でも出来るようになったとは言え、まだまだ英語頼みのコミュニケーションしかとれない。ただ、チームメイトでも英語が堪能な人間は殆ど居らず。
コーチが英語を話せるのは幸運だったが、それだってお互いネイティブとは程遠いのだ。先週の練習で呆れたように彼から言われた『問題はトールの瞳が緑色じゃないことだ』などという謎のダメ出しは最早意味が分からなさすぎて及川の心を折ったばかりだった。人種的なところは努力でどうにかなるものではないし、それを黙らせるために練習しているのに。
中々寝付けない及川は、ひとつ喉を鳴らして寝返りを打つ。
脳裏に過るのは、先日見てしまった大歓声に沸くカナダのアリーナ。
見る者を魅了するプレー。全身でバレーボールを楽しんでいることが伝わる、あの姿。
(……俺、何でこんなに打ちのめされてんのかな)
わからなかった。
***
17時を過ぎた頃から、サンフアンの街は徐々に目を覚まし出す。
及川はそれより少し早く身支度を整えて再び外へ繰り出した。チームの練習は18時からだ。1時間ほど前には体育館に辿り着き、入念にストレッチを始める。
この体育館をホームにしているのはホセ・ブランコが監督をつとめるバレーボールチーム、SAサンフアンだ。そのSAサンフアンの兄弟チームとして、及川の所属している選手育成を目的としたアマチュアの下部チームがあり、同じくこの体育館をホームにしている。
基本的には両チームとも同じような練習をこなすが、ロッカーは当然プロチーム側の分しかないし、トレーニング設備もプロチームメンバーに優先権がある。ただし、日本の中学高校で体育会系の上下関係を叩き込まれた及川にとってこれは別に苦でも何でもなかった。その範囲内で出来ることを全てやればいいだけの話だ。
アップを済ませ、ガラガラのトレーニングルームでレッグプレスに取り組んでいると、ぽつぽつとメンバーがやってくる。スペイン語で挨拶を交わし、その後彼らの会話を聞くともなしに聞く。……わからん。
(めげるな、めげるな)
半ば自分に言い聞かせながら、どうにか笑顔だけは忘れないのが及川の矜持だった。
今日の練習はランがメインだ。ガタイのいい大男の集団にアジア系1人交じり、ひたすらにメニューをこなしていく。腕も脚もリーチが違うが、そんなのは誤差だと言い聞かせ。意地で脚を持っていくが、やはり筋力があと一歩足りない。方向の切り返し、踏ん張りが効かずに1人だけ足を滑らせた。コーチの指示を脳内で翻訳することで、少し初動が出遅れる。脳みそフル回転でメニューをこなすのは、疲労も2倍だった。
ラスト、調整も兼ねたボール練習。メンバー全員にトスを上げ、最後は自分も他のセッターに上げてもらったトスを打つ。打ち込んだモーションで着地しながら(これは今日のチームのなかで中の下くらい)と頭のどこかで分析した。
みんな、デカくて筋肉がある。
日本の高校では恵まれている方だったフィジカルも技術も、こちらではいいとこチームの平均値だ。
出来ることを全てやればいいだけの話。
そうわかっているけれど、やはり、落ち込むものは落ち込むのだ。
練習が終わりクールダウンを行なっていると、今日の練習を見ていたコーチが入口側を見て声を上げた。ブランコがやってきたらしい。
『あれ?ブランコ?今日は来る日でしたっけ?』
『うん、ちょっとね。ああ、気にしないでいいから』
最後にぐうっと背筋を伸ばして及川が立ち上がると、ブランコが『トール!』とこちらに向かって声を上げる。
見れば、ニコニコしたブランコが入口から上半身だけ覗かせて及川を手招きしていた。はて、と思いつつ、タオルを片手に駆け足で近寄る。
『何ですか?』
『紹介するよ!ショーヨーと、トビオ。日本人だ』
及川はびしっと凍りついた。
笑みを浮かべたブランコが示しているのは、2人の若いアジア人。
長身に黒髪の目つきの悪い少年と、幾分か小柄な身体にオレンジ色の髪をした少年。及川は彼らを知っていた。先日画面越しに見たばかりのカナダのアリーナで観衆を沸かせたあのプレーは、今まさに及川を苦しめているのだから。
ブランコが指し示した場所に立っているのは、現在日本バレーボール協会が躍起になって捕まえたがっている高校生、日向翔陽と影山飛雄その人だった。
何故かその日向と影山も及川を見て大きく動揺している。2人はギョッとしたように目を剥き、大きく開いた口をパクパクさせた後、「おっ、おおお、及川さん……!?」と絞り出したような声で大きく叫んだ。
日向が焦ったようにブランコを振り仰ぎ声を上げる。
『……え!? え、待ってブランコさん、チームに日本人はいないって言ってませんでした!?』
『SAサンフアンにはいないよ。トールはサンフアンの選手じゃないからね。この子はトール・オイカワ! 日本からはるばるバレーをしにアルゼンチンまで来てくれたタフガイだよ』
『ま、え、ええ〜〜、そんな事ある……? いや、あったか……!』
『トール、この間のサンダースのチャリティーマッチ見た?この2人出場してたんだよ。僕もあの試合はボランティアで参加してたんだけどその時に知り合ってね。2人共留学が終わったら日本に帰っちゃうって言うからさ、その前に是非アルゼンチンに来てもらおうと思って、招待したんだよ』
トール明日時間ある?練習オフだよね?サンフアンを案内してあげてよと穏やかな笑顔のブランコに言われて、及川は盛大に顔を引き攣らせた。数拍唸った後、絞り出すように『……構いませんよ』と返事をする。
正直、嫌だ。とてつもなく嫌だ。
誰にも、それこそ岩泉にも言ったことはないが、及川徹の初めての挫折は、YouTubeで影山飛雄のセッティングを見た16歳の時だ。それ以来いわゆる910コンビ、とりわけ9番影山は地雷と言ってよかった。
その挫折をバネに成長したつもりだし、だからこそアルゼンチンまで来たりしているのだけれど、結局そこで停滞している自分にとって、影山飛雄だけは心底顔も見たくない相手だった。
一度だけ録画を見て、以降見返す事を拒否したカナダのチャリティマッチを思い出す。あのセッティング。初見殺しのブロード。
はじめまして天才くん、俺を笑いに来たの?それとも憐れみに?
口に出せる筈のないそれを飲み込み、及川は日向と影山に引き攣った笑みを向けた。
***
衝撃の対面翌日、言われた通り渋々とブランコ邸まで日向と影山を迎えに行った及川は、『ここのランチを予約しておいたから』とブランコにメモを渡された。及川も数回ブランコに連れて行かれたことのあるその店は、中心広場近くにある有名なレストランだ。
昼食の後は夕食まで自由に散策してくれとブランコは笑い、ついでに及川の手に小さな鍵を押しつけて小声で耳打ちを寄越す。及川はその内容に唇を尖らせ『……そのつもりはないです』憮然と呟いてから、ブランコ邸の庭先で2人を前に腰に手を当ててふんぞり返った。
ブランコに言われたからこうして面倒を見てやるが、本来ならわざわざ意識しているプレイヤーに親切などしたくはないのだ。及川は決して心が広い人間ではないので。
「言っとくけど、サンフアンなんてめちゃくちゃ田舎なんだからね、観光地とか殆どないよ」
「元々及川さんは今日何する予定だったんですか?」
「今日は学校もバレーもオフだから、いつもなら適当に買い物してその辺のカフェでも行ってるかな」
及川は鼻を鳴らしてつっけんどんにそう言ったが、半分くらいは嘘だ。
学校もバレーもオフなのは本当だが、カフェなんてここ暫く行っていない。結果を出していない自分が余暇を楽しむなど許されない気がして、遊びに行くこともしていなかった。
「す、すげえ……めっちゃ及川さんぽい……!」
「及川さんが普段行くとこでいいんで、サンフアンの街中とか見てみたいっす。いいですか」
「……いいけど」
なんだか調子狂うな、と口の中で呟いて、及川は2人を引き連れて歩き出した。
サンフアンはアンデス山脈の裾野に広がる街だ。大地と空の境目に巨大な山脈が圧倒的な存在感を持って連なり、その端はどこまで行っても見つからない。これは日本では絶対に見られない風景だった。
ここが田舎町だという言葉に嘘偽りはないけれど、少し昔に大地震でこの街は一度壊滅している。街中の建造物はその殆どが地震後の物なので新しく、故に景観はそれなりに整っているのだ。小綺麗な住宅街を抜け、街の中心部へ。一般的な欧州や南米の例に漏れず、ここでも街の中心といえば広場だ。サンフアンの場合、5月25日広場というのがそれにあたる。
歩きながら物珍しげに辺りを見回す2人をちらりと眺め、及川は昨日から気になっていた事を聞いた。
「あのさあ、何で俺の名前知ってたの?」
「え?」
「昨日。お前たち、ブランコが俺のこと紹介するより先に『及川さん』って言ったでしょ。俺のこと知ってたわけ?」
途端、日向が狼狽え瞳を泳がせた。すると、影山が「予選見たので」と真っ直ぐ及川を見てそう言う。
「去年の春高予選、青城対白鳥沢見ました。及川さんめちゃくちゃ凄かったです」
「……普通に負け試合だから全然嬉しくないんだけど」
「え、待て待て待て影山そうなの!? 何なの!? 言えよ!! てかどうやって見たの!? 行ったの宮城!?」
「ちげえよ。春高の地方予選は準決くらいからネット配信サイトに有料アーカイブがある」
「は、はぁ〜!?!? 言えよ、俺も見たい! 及川さん見たい!」
アルゼンチンの道端で、日本語の言い争いは大層目立つ。
ギャンギャン始まったそれに及川は慌てて2人の首根っこを掴み引き離した。少し離れた所を行く老婦人が訝しげにこちらを振り返ったので、渾身の愛想笑いで誤魔化しておく。それから2人に向き直りゲンコツを落とした。
「外国語で大騒ぎしない! 常識でしょ」
「す、すみません……」
『でもこいつが俺に黙って!』
『英語ならいいって問題でもない! てか英語もここじゃ外国語だから!』
日向にもう1発ゲンコツだった。
唸る日向を尻目に、影山が続ける。
「白鳥沢戦は確かに青城が負けましたけど、でも、及川さんのセッティング、本当に凄かったです。3セット目後半の2段トス痺れました」
「俺も見たかった……! 及川さん、サンフアンってどっかバレーできるとこないですか? 及川さんのサーブ見たいです!」
「今日はオフだって言ってんでしょ」
「うぐう、せっかく及川さんと会えたのに〜!」
頭を掻きむしる日向を前に及川は呻いた。初対面のくせに及川さん及川さんと謎にテンションの高いこの2人、背後に揺れる尻尾が見えるようだ。
ただでさえ久々に聴く日本語に不本意ながらも「話すのが楽しい」と感じてしまっている今、この妙な後輩ムーブは容易に及川の頑なな意地を突き崩してくる。元々、慕ってくる相手には弱いのだ。
顔も見たくないと思っていた相手に絆されかけている自分をはっきりと自覚した及川は、悔しげに唇を噛んだ。このやろう、ちょっとかわいいって思っちゃうじゃんか! その感情をごまかすのように、殊更つんとした態度を作って歩き出す。
たどり着いたレストランは広場沿いにある人気店で、及川がブランコの名前を出すと心得たように予約席へ通された。店内は賑やかな喧騒に包まれており、立ち込めるのは肉の匂いだ。
メニューは適当に及川が選んだが、運ばれてきた皿を見て日向と影山が目を丸くする。アルゼンチンに来たばかりの自分も同じ反応をしたことが蘇り、及川は思わず苦笑した。
「肉でっかい……! 皿重てえ!」
「お前の顔くらいあるんじゃねえか、これ」
「いや流石にそれは、ん、んん?」
「アルゼンチンのご飯はマジで肉ばっかりなんだよ。ステーキ! ステーキ! チョリソ! ステーキ! もうねぇ、みんな肉をオカズに肉を食ってるから。まあでも、味は保証するよ」
「ウス! いただきます!」
ぱち、と手を合わせる仕草が揃うことも、及川にとっては久々だった。
アルゼンチンでランチは1日の中で最もボリューミーな食事なので、1時間ほどかけてゆっくりと平らげていく。
きらきらした瞳で尋ねられるアルゼンチンのことやバレーのことに、だんだんと及川も普通に答えられるようになっていた。日向が多少ウェイターの言葉を聞き取れているのにも驚く。聞けば、ポルトガル語が多少わかるのだと言っていたので、似た単語の多いスペイン語もわかるのだろうか。「凄いじゃん」と言ってやれば今度は影山が悔しそうな顔をしたのにも笑ってしまった。
レストランを出ればシエスタの時間で、大概の店は閉まってしまう。
ただ、広場近辺は観光客向けに開店を続けるカフェもあっため、そこで日差しを避けることにした。
昨夜ブランコ邸で歓待を受けた際、マテ茶を振る舞われたのだと言う2人が相当渋い顔をしていたので、及川は爆笑した。なるほど、覚えがある。
アルゼンチンのマテ茶文化は独特で、ホスト役が淹れたお茶を全員が同じコップと銀のストローで回し飲みをするのだった。日本の茶道のように細かな決め事があるし(ストローの位置を変えてはいけない、とか)そもそも味が独特だったりで、初見の外国人にはハードルが高い。
「あはははは! ストロー動かしちゃったの、あはは! 怒られた?」
「怒られなかったですけど、めっちゃ『NO!!』って叫ばれました」
「いや〜そうだよね〜。あれさ、動かしちゃうと茶葉が目詰まりするし、一気にマズくなっちゃうんだよね」
「へえ」
「味はどう? 俺はもう慣れちゃったけど、最初はキツかったんじゃない?」
「俺はブラジル式を飲んだことあったので! でも影山はスゲェ顔してました」
「うるせぇ!」
自分がこちらに来て体験したことを、同じように味わって、それを日本語で共有できること。なんだかものすごく楽しくて及川はケラケラ笑った。久しぶりに大声で笑った気がする。
そんな及川を見てか、影山がふっと笑った。
「及川さん、もうアルゼンチノスって感じっすね」
なぜだかそれがAパスのように胸にすとんと落ちてきて、及川はひとつ瞬きをした。
及川徹がこの国に来て、もうすぐ半年が経つ。
最初から全てが順風満帆に進むなんて思っていなかったけれど、それでもやっぱり上手くいかないことが重なってくれば段々と元気はなくなった。
なかなか思うように話せない言葉。チームメイトとのコミュニケーション。望む成果を出せないバレー。
それでも、影山の言葉で、そう言われる程度にはアルゼンチンに自分は馴染んできたのかと、はじめて及川はそう思い至った。
(なんだ。もしかして俺、結構頑張ってたんじゃない?)
頃合いを見てカフェを出て、近くのサンフアン大聖堂を観光する。続いてサルミエント生誕博物館へ。スーパーに立ち寄り、物珍しげにキョロキョロする2人へおざなりにアルゼンチン特有のラインナップについて説明した後、そのまま近くのアイスクリーム屋でドゥルセデレチェのフレーバーを買って、5月25日広場へと立ち戻った。
時刻はそろそろ18時になるが、サンフアンの午後はまさにこれからだ。ブランコの言っていた夕食は21時頃なので、まだまだ時間がある。アイスクリームを食べながら、及川はひとつため息をついた。
「ま、結局こうなるか」
「及川さん?」
「小さい街だしさあ、もう見る所ないんだよね。……それ食い終わったらアリーナ行こっか」
「アリーナって、もしかして!」
「今日オフだから誰もいないし、軽〜くボール触るくらいなら許されるでしょ」
なにせ、ブランコのお墨付きなので。
及川はポケットの中でブランコに押し付けられた鍵を弄んだ。『使ってもいいけどちょっとだけだよ』と耳打ちしたブランコに『……そんなつもりはないです』と返したけれど、蓋を開けてみればこの通りだ。
全身で『ボールを触りたい』と主張する年下2人組に及川もつられて笑ってしまう。うんバレーって楽しいんだよね、と、当たり前のことを新鮮な気持ちで受け止めた。
30分程歩いていつも使っているアリーナへ辿り着き、手にした鍵で重たい扉を開く。どの国であっても床に引かれたコートラインは大して変わらない。
「ここがSAサンフアンのホーム…!」
「すげー!」
「ほらお前たち、ネット張るからポール立てて」
サーブが見たいという影山に素直に応えるのがなんとなく癪で、オフ日だからという理由をつけて軽いトスワークにした。
実際に球を受けてわかる、この2人の技術。ムカつく、と顔をしかめ、それからその感情が久々であることに気がついた。
(目の前の誰かのプレーに、悔しいとかムカつくとか、最近思ってなかったな。……チームみんな凄いやつばっかりなのに勿体なかった。あーあ、ホントに余裕なかったじゃん、俺)
それだけ必死で追い詰められていたのか、とようやく思う。
青城でプレーしていたころ、特にサーブとセットに関しては、かなり負けず嫌いだった自覚がある。翻ってそれはコンプレックスの証明でもあったが、それこそが及川の原動力でもあった。
サンフアンに来て、順応するのに精一杯。認めたくはないけれど、確かにどこか萎縮していて、チームメイトに悔しいという感情を抱く事すらなくなっていた。
及川が強めに打ったスパイクを影山が綺麗に打ち上げ、日向が大きく「くっそ、影山め! ぜってー負けねえ!」と叫ぶ。
中学でも高校でもバレーチームに所属せず、かと思えば突如カナダで国際舞台に躍り出てきた奇妙な2人組だ。少なくとも及川にとって間違いなく目の前の2人は天才というやつだった。
悔しい。ムカつく。嫉妬心で焼け死にそうだ。
でも、それが原動力になる。
なんだか急に視界が開けたような心地がして、その思考のまま、ふと及川はコーチの言葉を思い出した。『問題は、トールの瞳が緑色じゃないことだ』。人種的なことを揶揄されたのかと思っていたけれど、そもそもあれは慣用句ではなかったか。
「待って、俺、相当バカになってたかも……」
「え?」
「及川さん、何か言いました?」
シェイクスピアは嫉妬のことをこう言ったはずだ。
It is the green-eye’d monster 、嫉妬心とは緑の瞳の怪物。
スポーツは仲良しこよしの世界ではない。仲間であろうと、その技術への称賛と羨望を忘れてルーチンだけしか見えなくなっては、上手くなるものだって上達しない。
あれは、いつの間にか目の前の事でいっぱいいっぱいになった及川に対する正しい指摘だったのだ。緑の瞳を、嫉妬心を取り戻しなさいと。
「あーあ、はぁ。俺って全然まだまだだ」
及川は汗を拭って、大きく笑った。
全然まだまだ、上手くなれる。
アルゼンチンでの生活は、始まったばかりなのだから。