その日目覚めた宮侑は、寮の古びた天井を眺めながらひとつ大きく深呼吸をした。胸を満たす冷え切った春の空気。いよいよだ。
朝、MSBYの選手寮から佐久早、木兎と共にキャリーケースの車輪を元気に鳴らしつつ出発。新大阪駅まで鈍行で30分、そこから新幹線2時間半で東京駅。山手線の巣鴨で乗り換え、本蓮沼駅。3人が味の素ナショナルトレーニングセンターへたどり着いたのは、指定された集合時刻の10分ほど前だった。
自動ドアを抜けすぐに設けられたバレー選手用のフロントで受付を行う。既にそこで数人が手続きをしていたが、その集団の中からいち早くこちらに気付いたのはEJP雷神のリベロ、古森だった。次いで、同じくEJPの角名も顔を上げる。
「あっ聖臣ー! やっほー!」
「やっぱ侑来るか。MSBYからはこの3人?」
「おー角名やん」
喋りながらスタッフに促されて手早く身分証明を行い、そのまま会場へ誘導される。大きな研修室に通され、MSBYの3人で連れ立って適当な席を確保しながら辺りを見回した。
(まあ、順当ちゅうか、予想通りちゅうか。あっ、アラン君おるやん。セッターは……アー、ファルコンズの鬼頭さんおるわ。あっ、えっ、あれ中央大セッターの鳴砂くんやんか〜!)
侑だけではなく、席についている大抵の人間が興味深そうに室内を見回しては小声で話をしている。そう、この集団のメンバー構成を事前に知ってる選手は誰もいないのだ。
侑とて、同チームの木兎や佐久早がこの集団に加わることは勿論わかっていたけれど、他のチームから誰が参加してきているのかは聞いていない。
ただ、大抵はVリーグで見知った顔だし、例えよく知らない顔でもそれはバレー雑誌でたまに見る大学生選手や高校生選手なので、全く未知の相手ということはない。
ひとしきり面子を確認し、それから侑は唇を尖らせて椅子に体重を預けた。あーあ。
ここに来るまでの道すがら、侑は、もしかして、と考えていたのだ。もしかして、ありえるんちゃうか。来るんちゃうか。わからんけど、でも。
そのほのかな期待は、この部屋に集められたメンバーを見て泡の様に消えていた。順当なメンバーだったからだ。順当すぎて、期待外れだった。
(あーあ、アイツらおらんやん。おもんな)
定刻になり、室内前方に姿を現したのは、雲雀田監督だ。彼が今年の日本代表監督であることは既に発表されていた。
髭面に柔和な笑みをたたえた雲雀田がマイクを手にし、「皆さんこんにちは」と発する。途端、室内は「ァーッス」という選手たちの野太い返答で埋まった。この場合はコンニチワッスというような意味であった。
「まずは皆さん、それぞれ自チームの練習等もある中で日本代表合宿の召集に応えてくれてありがとうございます。今年の代表召集メンバーについてはこのあと午後に協会の方で記者会見を予定していて、そこで公式発表されますので、事前注意の通り、各自SNS等での発信はその後にしてください」
ぱちっと雲雀田と侑の目線があう。 勿論理解してますよぉ、と侑は笑い返した。何を隠そう、宮侑のインスタアカウントのフォロワー数はVリーガー中トップクラスなのだ。
「皆さんわかっているように、天照JAPAN、今年はオリンピックの年です。金メダルを狙える人材を揃えられたと確信しています。一部この合宿に参加していないメンバーもいますので、まずは、改めて今回の召集メンバーを発表していきましょうか。……立花レッドファルコンズ、鬼頭有貫。立花レッドファルコンズ、尾白アラン。立花レッドファルコンズ、白馬芽生。MSBYブラックジャッカル、宮侑。MSBYブラックジャッカル、木兎光太郎」
つらつらと読み上げられていく所属と名前。呼ばれた選手がその場で小さく頭を下げていく。名前を呼ばれた侑もひとつ会釈をした。
やはり先期のリーグで活躍した選手が中心だ。大学から召集されているのは鳴砂と丸尾で、唯一高校生で召集されている鈴木が恐らく1番若いだろう。
侑はこの合宿で、同ポジションの鳴砂と鬼頭をライバルとして五輪代表を勝ち取るためのアピールをしなければならない。読み上げを聞きながら、ぼちぼち頭の中で攻撃パターンを組み立てていく。
と、雲雀田の読み上げた名前に一瞬呼吸が止まった。
「最後に、ここにはいないメンバーです。アーザスサンパウロから影山飛雄。アリローマから日向翔陽。チーグルエカチェリンブルグから夜久衛輔。彼らはそれぞれの国でのリーグがまだ終わっていないので、合宿中盤から参加することになります」
呆気に取られた侑は、丸くした目をそのままに小さく「マジでか」と呟く。抱いていた"もしかして"が現実のものとなったことを理解し、みるみる口元が笑みを描いた。
前言撤回、期待通りや!誰やおもんな〜とか言うた奴!俺や!
一気にざわついた室内を満足そうに眺め、雲雀田は「さて、」と笑った。
「世界に、バレーボールは面白いと証明しよう。君たちとそれができることを私はずっと楽しみにしていました」
バレーボール日本代表合宿。
ここに召集された選手が今年の日本代表メンバーである。
そしてこれに『アイツら』が呼ばれるのも、初めてのことだった。
日向翔陽と影山飛雄という選手の特異性は、今に至るまで日本バレー界での活動経歴がゼロな点にある。クラブカップ、中高大学バレー、実業団、その殆どにおいて、彼らは選手登録すらしていない。
だと言うのに、ある日突然カナダでかの名監督ニコラス・サンダースの肝煎り高校生としてバレー界に躍り出てきたかと思えば、海外で大学進学し、そこでも大学選手権で活躍。そのままイタリアとブラジルのプロチームと契約し、現在トップリーグでプレイ中というとんでもない経歴なのだ。両親のどちらかが海外に縁があるというのならこの流れに納得できないこともないが、月バリの特集によれば、特にそういったことはないのだという。つまり、完全に日本生まれ日本育ちでありながら、日本のバレーボール界に一切足跡を残すことなく、海外でのみ華やかな活躍をしているということだ。
日本バレーボール協会的には、当然面白くない。
元々日本のバレー界では高校や大学の部活動で成功するのが唯一と言っていいプロへの道で、国内偏重という向きが強かった。最近でこそ海外リーグへの挑戦も応援されるようになったが、かつてはそんな挑戦をすれば代表選考の候補にすらなれない時代があったのである。
流石に今はそんな風潮は表向きなりを潜めているものの、日本バレーボール協会が日向と影山にメンツを潰され続けていることは確かだ。
だから、協会としてはこの2人を素直に容認はしていないだろうし、今年の代表選考にも呼ばないだろう。事実去年も、その前のリオ五輪でも呼ばれていなかったし。というのが、国内の選手たちやファン、スタッフたちの推測だったのだ。それは今回見事にひっくり返された訳だが。
(ま、協会も、こーいう実力ある選手をくっだらん理由で干すドアホばっかりやなかったっちゅうことやな)
侑は宿泊棟のベッドでウンウンと1人頷き、インスタをいじった。公式発表後すぐに投げた自分の投稿についているコメントをざっと眺める。
可能なら写真も一枚二枚上げたいのだが、ナショナルトレーニングセンターの規則は非常に厳格なことで有名で、動画は勿論写真撮影も内部についての発信も原則禁止なのだった。
『召集おめでとうございます』
『ミャツム〜! 怪我に気をつけて』
『牛島選手と宮選手のタッグ楽しみです!』
コメントに反応したり返事をしたりはしないものの、いくつかはフフッと笑えるようなものもあって、いい気分転換だった。その気分のままエゴサーチもかける。
『うわああ影山くん呼ばれるの待ってた!! 正直ミヤツムと並んで本物の天才だと思うわ。今回日本チーム、少なくともセッターの実力はアメリカブラジルに並ぶかもしれん』
『とうとう日向と影山! 日の丸つけてバレーする姿がやっと……!』
『日向影山は実力的には申し分ないし、どんなチームでも地力を発揮できる強さがあると思うけど。気になるのは、宮と鬼頭が日向を使いこなせるかかな。日向といえばブロードが得意だけど、海外リーグやってる今でも真の意味であれを生かし切ってるのはまだ影山だけなんだよね』
「好き勝手言いよって。俺が? 日向翔陽を使いこなせるか? ハァーン?」
侑は盛大に顔を顰めてスマホをベッドに放り投げた。それから舌打ちをしてスマホを充電器に繋ぎ、部屋の照明も落とす。
「……」
まあ、実際、そこがレギュラー入りの重要なポイントにはなるだろう。
日向や影山、夜久の名が呼ばれた時のざわめきを思い出す。高校時代、東京代表で春高に出場していたという夜久のことを知っている選手はそれなりに多い。だから夜久は別として、日本で一度も大会に出場したことがない日向と影山の両名を、ざわめきが起こるくらい多くの選手が認知していた。
生憎と侑は興味がなかったが、日向と影山が中高時代、本名を隠してインターネットでバレーボール動画を投稿していたというのは知っている。侑がVリーグに入りたての頃、月バリで特集が組まれていたのだ。
侑の世代はちょうどそれがリアルタイムだったので、見ていた人間もいるのだろう。角名などが移動中のバスでよく動画を見ていた記憶もある。
ファルコンズの鬼頭は彼らの動画とやらを見ていただろうか。中央大の鳴砂にとっては少し古いコンテンツになると思うが、研究熱心なら知っていてもおかしくない。動画とやらを見ていない侑は、そういう意味では日向と影山についてよく知らない。
けれどまあ、そんなのは瑣末なことだ。
腐ってもプロなら侑のセットで打てないなんてことはあり得ないし、そして侑には日向に気持ちよく打たせる自信があった。それが出来るのが自分だった。
影山よりも上手く日向を扱えるか、という点については努力するとしか言えないものの、その逆はどうだ?という話でもある。
今現在日本で活躍している選手たちは、誰も日向や影山とバレーをした事がない。そのプレーを生で見た事がない。同じように、日向も影山も、こちらの選手とプレーをした事はないのだ。
果たして影山は、牛島や木兎、星海を打たせる事ができるのか。癖の強すぎるアタッカー達だ。1ヶ月の合宿でどうにかできるとも思えないが、雲雀田はその辺りも織り込んだ上で影山を招集したのだろうか。今年はただ経験させるための召集で、来年への布石が本当の目的か。
(何にしても、勝負やなあ。天才セッターくん)
侑は掛け布団をしっかり握って目を閉じる。
最後に大きく吸い込んだ空気が、肺を冷たく満たす心地。
やがて、意識は微睡の淵に沈んでいった。
日向と影山、夜久が代表合宿へ合流したのはそれから約1週間後のことだ。
午後に到着した彼らは夕食の際に食堂の前方で3人揃ってハキハキと挨拶をした。それを眺める侑の視線が検分するようなものになってしまったのは許されたい。
笑顔で話す日向翔陽は思ったよりも身長が低かった。飛べる選手だというが、星海レベルでなければ色々と厳しそうである。夜久も身長が高い方ではないが、リベロということでそこまで気にはならない。やはり問題は日向だろう。侑にとって、星海含めここまで低身長のアタッカーと組むのは初めてのことだ。
そして、影山。打って変わって随分背が高いな、と侑は思った。これは結構厄介かもしれない。
拍手で挨拶が終わった後、いただきます、の声と共に食器の鳴る音が響く。ガヤガヤとあちこちで会話が交わされる中、ハンバーグを嚥下した星海が影山へ話しかけた。
「影山は今ブラジルのクラブだったか? なんでブラジルなんだ?」
「ッス。ブラジル、行ったことなかったんで」
「んぁ? まあ、行ったことないってのは、確かにそうだろうが……なんだ、イタリアは行ったことがあるってことか?」
「……カナダの大学にいる時に、イタリアとブラジルから声かけてもらって、俺は今回はブラジルにしようかなって」
「へえ! すげーな。そんで日向がイタリアか。2人とも同じ大学だっけ」
「ッス」
「いいな! 正直、お前らがこの代表合宿に呼ばれるのかは半々てとこかと思ってたが……俺はずっとお前らとバレーがしてみたかったから嬉しいぞ」
星海がそう言って豪快に笑う。
星海の隣に座っている牛島が無言で頷き、その隣の侑は苦笑いした。
周囲には食事に集中しているメンバーもいるが、結構な人数が今の会話に耳を傾けているのは場の雰囲気でよくわかる。「海外リーグからってんなら夜久もそうだが、俺らはあいつと全くの初対面て訳じゃないからな」と星海が笑うと、自分の名前が聞こえたらしい夜久が少し離れた席から「呼んだか?」と声を投げてきた。
「夜久は高校時代に春高出てたって話を影山にしてたんだよ。夜久と影山達も今回が初対面だろ?」
「あー! イタリアとブラジルな! 俺いまロシアでやってんだ、よろしく。……あ! 待って、俺全員にロシア土産買ってきたんだわ! ちょい待ち、すぐ取ってくる」
「ん!? やべ! 俺もイタリア土産あります!ちょっ、取ってきます!」
「あっ! 俺もブラジル土産あります!」
ガタン、と3箇所で海外組が慌てた様に立ち上がり、小走りに食堂を出て行く。日向と影山が何やら罵り合っている声が聞こえたが、それもすぐに遠くなった。
「……俺、日向と影山ってウシワカみたいなの想像してたけど、なんか全然違ったなー」
「俺みたいなというのはどう言う意味だ、木兎」
「だーってさあ、日本での下地?とかそういうのなしにゼロから海外で挑戦続けてるっていうからさあ、なんかこう、孤高のサムライというか、さすらいの武士みたいな感じなのかと思ってたんだよね。渋〜い感じの。『俺は強さのみを求める……』みたいなの」
「すまないが、よくわからない。強さを求めているのは間違いないんじゃないのか? あいつらは別に弱くないだろう」
「弱いなんて思ってねーよ! そうじゃなくて、思ったより普通? あっ、いい意味で! なんだろ、うーん、ツムツム俺の言いたいことわかる?」
急に会話を振られた侑は、鼻を鳴らした。
「…まあ、言わんとすることはわかるで。思ったよりも親しみやすいっちゅう話やろ。でもなぼっくん、アイツら全然普通ではないからな? 普通の人間は中高帰宅部からいきなり大学選手権優勝でイタリアリーグ契約とかせんから。騙されたらあかん、変人やであれは。変人コンビや」
「ツムツムそれ悪口じゃん?」
「客観的事実ですぅ」
侑が口を尖らせた所で、息を弾ませた影山が食堂に走り込んでくる。数秒遅れて日向が現れ、「負けた……!」と顔を歪めた。
「これブラジルのお土産です。好きな柄選んでもらえれば」
「は!? 影山と被った!? うっそ……あの、俺もイタリア土産でTシャツです。スンマセン。好きな柄選んでください」
「えー! 食いもんじゃないの?」
「あーっと、皆さん国際大会に出られるので、食べ物はチェック厳しいかなって」
木兎が声を上げると、日向がちょっぴり恐縮したように返した。
その後ろから現れた夜久が「そうだぞ木兎」と言う。夜久と木兎が高校時代から仲がよいということを、侑はこの少し後に知った。
「お前だって散々ドーピング対策のこと言われてるだろ。本格的に意識しとかないと泣くのは自分だぞ」
「ングゥ……! はい!」
日向と影山がTシャツをお土産で持参したのは、2人のいる地が日本よりも大きなサイズの洋服展開が豊富、というのも理由の一つであるようだ。
確かに服のサイズは高身長が多いバレーボーラーにとって永遠の課題である。日本のLサイズは大抵の場合横幅が大いに余るので。
結局侑は影山からブラジル土産として蛍光イエローにキリスト像が描かれたTシャツを、日向からイタリア土産として黒地に白字で何やらイタリア語が書かれたTシャツをもらった。(なんて書いてあんの?と聞くと、元気よく読めません!と返された)夜久からはロシア土産として国旗カラーのタオルが配られた。
「あっ、そういえば2人とも、さっき侑が君らのこと変人コンビって言ってたよ」
「え?」
「おい角名ァ!」
「変人コンビ! そう呼ばれるの久々です!」
「はぁ〜!?」
心底嬉しそうに笑う日向に、角名が「ウワ、これは変人だ」と呟く。
侑もそう思ったが、とりあえず裏切り者の角名をどつく事で終わりにした。
尚、侑にとってこの日最後の衝撃は、侑の同室に日向が入るということだった。確かに侑は2人部屋を1人で使っていたが。
意外だというのが正直な気持ちで、てっきり日向は影山と同室だと思っていた。侑がなんとなく2人をニコイチのように思っていたからかもしれない。
気が合わなかったら面倒だなという思考が一瞬よぎるが、すぐに木兎や佐久早より断然マシだと思い直す。悲しいかな、同チームで親しい間柄であっても同部屋でリラックスできない相手というのは普通にいるのだ。
夕食後、2人並んで部屋へ戻る。戻ればすぐに入浴の時間だった。
「よろしくお願いします、宮侑さん」
「侑でええよ。日向さんていくつ?」
「ひなたさん!?」
「え?」
「いやっ、俺は侑さんの一個下なんで! 普通に名前で読んでください!」
(ああ、一個下やっけ。ちゅーかそこは呼び捨てしてくださいちゃうんか。名前で呼んでください、て!)
なんだか面白くなったので、侑は彼を希望通り名前で呼んでやることにする。
「翔陽くん」と口にすれば、彼は物凄く嬉しそうな顔をした。
「翔陽くん、イタリアリーグおるんやろ。あとで色々聞かせてな」
「ハイ! 俺も、MSBYの事とか聞きたいです! こないだのシーズン調子良かったですね。侑さんのサーブめっちゃやばかったです」
「え! 翔陽くんVリーグ見てるん!? イタリアで!?」
「見てます! ネット配信始まったの助かってます。あ、部屋ここですね」
部屋でくつろぐ暇もなく、着替えを持って大浴場へ向かう。
明日からは日向達海外組も入っての練習だ。
侑の思考を読んだかのように、日向が「楽しみですね」と呟いた。
「え?」
「俺、めっちゃ楽しみです! 今日寝れないかも」
「……ふっふ、子供か」
「沢山トスくださいね!」
「んー、それは、翔陽くん次第」
「ハイ! 頑張ります」
口角を上げて日向を眺めながら、さあ、と侑は考えた。
さあ、明日、何をしようか。
海外組が加入して数日、いくつかわかった事がある。
日向は明らかに「打ちたがり」で、これはもう明確にスパイカーだった。身長が低かろうとレシーブが上手かろうと、根底から点取屋なのだ。
対照的なのが夜久で、これは「拾いたがり」だった。猫のような身のこなしで難しい球もきっちり追いつく。多少無理な体勢からでも綺麗なAパスで返球し、自身もくるりとコートへ戻ってくるのだ。
そして、それ以上に影山の特性は際立っていた。こんなセッター見たことない、というのが大勢の感想だっただろう。空間把握能力、状況分析力、それら全てへの対応力。まるごとずば抜けていた。
何日かドリルをこなしそれぞれの特徴を大まかに掴んだところで、今度は適当な組分けの紅白戦をぐるぐる回す練習に切り替わる。
日向と影山という変人コンビの異質性は、ここではっきりと表れた。
シューズが床を擦る音。ボールを呼ぶ声、注意を促す声。「ライトライト!」「クイック!」打球音と、床の鳴る音。
日向は縦横無尽にコートを駆け回る。視線誘導が驚く程に上手かった。ディグに入ると見せかけて、ブロックアウトフォロー。ブロードフォームからの、1人時間差。
何よりレセプションが桁違いに上手い。リベロでも飯が食えるのは恐らく間違いない。
そして影山は誰よりも冷静に無慈悲に盤面を操作するセッターだった。高さと速さ。アタッカーが欲しいレベルと、アタッカーに求めるレベルを、しっかり両方認識した上で、その差すらも戦術に組み込める力がある。何よりトスが機械のように正確で、ここまでのセッターは確かに世界的にもそういないだろう。座標で軌道を制御しているような確実性がある。ミスなどありえないと確信させるセッティング。
多くの人間にとって意外だったのは、影山が、Vリーガー達に難なくセットを合わせた事だった。合わせたという言葉すら誤りかもしれない。まるで昔からそれぞれの癖を知っているかのように、何でもない顔をして打たせてみせる。
雲雀田は驚きと満足に目を輝かせていたし、コーチ陣もあんぐり口を開けて紅白戦を眺めた。
そして。
日向が床を蹴って飛び上がる。飛び上がるというより、打ち上がる。踏み切りの時点で影山のトスは間に合っておらず、合わないと誰もが一瞬そう考えて、そこからの高速セット。
「ォッシ!」
反応出来なかった百沢の足元にボールが叩きつけられ、日向と影山はそれぞれガッツポーズをする。
あまりにも完成されたコンビネーションに、コート内の選手も、コート外で待機の選手もスタッフも、その瞬間は誰もが2人を見ていた。
コート外で水分補給をしていたアランが苦笑する。
「いっそえげつないなぁ。なんやあれ、……うわ!?」
喋りながら侑を見たアランは途端にギョッとし、それから咄嗟にタオルを侑の顔に押し付けた。
そのまま焦ったように肩を抱き、さりげなく体育館端に下がらせる。
「……ちょお、何。やめえや」
「いやいや、侑、お前なんちゅー顔してんねん」
「ハァ? いきなり何や。ちゅーかホンマに邪魔やねんけど」
「すまん、けどちょっと落ち着け。その顔あんま監督に見られん方がええで」
「……何が」
「侑お前、治見とる時の顔になっとる」
***
北信介の、少しだけゆるんだ眦と静かな声を思い出す。あれは高校2年の頃だ。
何かの雑誌にあった星座の話をしていた。牡羊座は積極的だとか、乙女座は駆け引きが苦手だとか。その中の「天秤座はバランス重視の理性的な星座。相手に対して自分だけが強い気持ちを持つことを何より嫌い、嫉妬などの感情を抱くことがないタイプ」という記述に角名が大爆笑し、部活後の着替えの時間はその話題で持ちきりだった。
「角名いつまで笑とんねん! うっさいわ!」
「だって、だって治はわかるけど侑はないでしょ〜! 顔がもう嫉妬深そうじゃん」
「あぁ!? どこがや! 同じ顔やし同じ星座やっちゅうねん、俺が嫉妬深いんならサムのがもっと深いわ、ドロッドロや」
その返答にまたも吹き出す角名へ、今度こそ侑はタオルを投げつけた。
ワイシャツのボタンを止めながら、銀島が笑う。
「けど俺はなんとなくわかるで。侑、女の子にヤキモチとかあんま焼かんとこあるわ。普通ならヤキモチ焼くとこで、あれや、こう、一気に興味なくすねん」
「ただ人間性がゴミなだけやないか」
「あ〜バランス重視ってそういうこと? 浮気されたら涼しい顔して浮気し返す感じ? それなら納得。侑、そういうツーアタック好きじゃん」
「関係ないやろが!!」
ギャンギャン続く言い合いに呆れたのか、大耳が「お前らいい加減手ぇ動かせよ」と声をかける。そこへ体育館の鍵を返しに行っていた北がジャージ姿で戻って来たので、侑達は飛び上がって着替えを再開した。流石に北より先に着替え終わらなければまずい。
慌てて服を着たりロッカーを片付けたりしている後輩を眺めながら、大耳が小さく笑った。
「今の話やけど、俺は結構侑に感心してんねん。お前、後輩が何やうまいことプレーしたり小技身につけたりした時、素直に『ええなあ』『上手いなあ』て言うてやるやろ。あれ、俺は感心すんねん」
「おっ、えっ、ハイ!」
「大耳さん、それバレーに関してだけツムの精神年齢がメチャ退行するからですわ。こいつあんま難しいこと考えてないです」
「サム黙っとれ!」
「はは! でも、中々出来ることやないで。誰かが上手いことやった時、嫉妬いうんはやっぱり、出るねん。それをな、少なくとも表に出さんのは凄いことや」
侑は満面の笑みで「アザス!」と返したが、それを聞いていた治は何やら大いに不満そうだった。
着替え終わった角名が、「つまりさあ」と首を傾げる。
「もしかして侑は嫉妬を感じる心が欠落してるんじゃない?」
「ハァー!?」
「だって普通、自分が持ってないものを持ってる誰かがいたら嫉妬するじゃん。ちなみに俺は普通にする」
「嫉妬って、別に俺は、つかもう嫉妬て何や! どう言う感情やっけ!? わからんくなってきた!」
「確かに、侑のあれは嫉妬とはちゃうなあ」
北の声が静かに割って入り、ぎょっとしたように侑や角名、治が声の方を見た。
北はブレザーを着込みながら、いつものような顔で、それでも少し柔らかな眼差しで侑を見ている。
「侑のあれは、嫉妬やなくて軽い憧憬やと俺は思うで」
「ショウケイ……?」
「すごいなあ、カッコええなあ、あれやってみたい、ああなりたいなあて思うやろ。言うなれば、憧れや。相手が敵でも味方でも、例え年下相手でも、そういうんを感じて、かつ素直に表現できるのは侑の真摯な姿勢の表れやと思うで。すごいことや」
北はそう言ってから、「鍵閉めるで」と続けた。途端、バタバタと部員達が立ち上がる。その中で治だけは未だ納得のいかないような顔をしていた。
「……おい、ツム」
「なんやサム」
「お前、昨日俺が先にジャンフロのドリルクリアした時、どう思った?」
「『ふっざけんな何でサムが俺より早いねんクソ腹立つ下痢しろボケ』」
「オイぶっ殺すぞ」
「アァ!? こっちのセリフや! いっつも涼しい顔してサラッとこなしよってムカつくねん。俺差し置いて月バリの高校生アタッカー特集に載ったからて調子こいてんちゃうぞ」
「俺にも憧れろや!! ショウケイの念を抱け!」
お互い肩パンを繰り返しながら部室から出る。
鍵を持って扉の側で待ち構えていた北が、侑の顔を見てひとつ瞬きをした後、呆れたように小さく笑った。
「なんや。侑は治にだけは嫉妬するんか。ま、それも大事なことやなあ」
***
(…めっちゃ久々に北さんの声思い出した気ぃするわ)
大浴場のお湯につかりながら、侑はそう考えて虚空を見つめた。
今日の紅白戦の後、自分でもよくわからない感情の処理で精一杯だった。与えられたメニューは難なくこなす事が出来たものの、実りある内容になったかと言えばそうではない。
やらかしたな、と侑はお湯を掬って勢いよく顔を濡らした。
(嫉妬なあ)
侑はことバレーにおいて、妬ましいとか羨ましいとか、そういう感情はあまり抱いた事がなかった。
誰のものであれ凄いプレーは賞賛できる。自分より早く何かをクリアした人間がいたのなら、勿論多少は悔しさも感じるけれど、それはそのまま「俺もあれがやりたい」に変化して、自身の研鑽のエンジンに昇華する。
誰かの凄いプレーの後ろには必ずその人の積み重ねた努力があるということを、侑自身が身をもって知っている。憧憬を抱きこそすれ、嫉妬の念など持つはずがなかった。付け加えて言うのなら、その憧憬に突き動かされて始まる「俺もあれがやりたい」という研鑽は、侑の才能故にか今のところ必ず結実するので、侑は未だかつて報われない努力というものに覚えがない。
努力ではどうにもならないようなこと、例えば体格やメンタルといったものは、語弊を恐れず言うのであれば、侑は最初から恵まれていたので、誰かを羨むということは殆ど経験がなかった。
けれど、まあ。
『なんや。侑は治にだけは嫉妬するんか』
悔しい。妬ましい。
そういう気持ちを侑が全く知らないのかといえばそれはNOだ。
片割れである治に対してだけは、明確に嫉妬心があった。
遺伝子から同じ。能力も等しく、努力だって、お互い競い合って積み重ねた。
だから、侑が打てない球を治が打てれば心底悔しかったし、治が先にレギュラーメンバーになればどす黒い妬みが身体中を埋め尽くす。
それは対抗心なんて綺麗なものではなく、明確に、嫉妬の炎だった。
「……長湯しすぎた」
ざば、と湯を波立たせて湯船から立ち上がる。
片割れがバレーコートから姿を消して5年。
侑の胸の中から嫉妬の炎が消えて5年だ。
もうずっと、うっすら寒いこの胸中にも慣れ切ったつもりだったのに。今日の紅白戦、ガッツポーズを決めた日向と影山を思い出す。
「……妬ましいなぁ」
こぼれ落ちた自身の声が思ったよりもドロリとしていたことに自嘲する。久々に灯った嫉妬の炎が、臓腑を焼くように痛かった。
大浴場から出て部屋に戻ると、既にシャワーを浴び終えた日向がベッドでスマホを弄っているところだった。
無言でその脇を通り過ぎ、ドカッとベッドに座り込む。
ここ数日で気付いた事といえば、この日向という男は初対面であるにも関わらず、侑の些か乱暴な口調や動作に少しも怯む様子がないのだった。
侑自身にそんなつもりが毛頭なくても「ツムツムおこってんの?」と木兎に首を傾げられる事数知れず。標準語に比べて怒っているように捉えられやすい言葉尻や、男兄弟と荒っぽく育ってきた環境のせいか、自身の言動が丁寧なものでないことは侑とて自覚している。(故に、ファンサービスやメディア露出の際は精一杯の笑顔と優しさを意識しているのだが、それが返って「胡散臭い」という評価になっていることには気付かぬ振りをしているところだった)
しかし日向は侑が佐久早にキレ散らかしている中でも楽しげに笑って絡んでくるし、ドカドカ歩く侑に向けて気安くスポドリを投げ渡してくる。
そしてそれが全く不快ではなく、むしろずっと自然なことのように思えるのも、考えてみれば不思議な事だった。
「翔陽くんさぁ」
「はい?」
「飛雄くんと付き合い長いん? いつから一緒にバレーしとんの?」
大きな瞳をぱちくりと瞬かせた日向は、スマホを枕元に放るとベッドの上に座り直した。
「えっと、中学からですね。バレーもまあ、その辺からです」
「ふうん。飛雄くんと仲ええんやなぁ。今日のゲーム見とってもわかるわ、コンビネーションすごいもん」
「仲いいか……って言われると、まあ、うーん。付き合いは長いですしね」
「えっ何? 実は不仲なん……!?」
「いや別に仲悪いわけじゃないですよ!そうじゃなくて、あいつとは何て言うか、仲がいい敵みたいなもんです。チームメイトになったとしても、俺はあいつに勝ちたいって思ってバレーやってるので」
日向の瞳がギラギラと光っているような気がする。
その瞳につられてか、黙り込んだ侑の胸の中で、またも黒い炎が臓腑を焦がした。仲がいい敵。ああ、そんなん、
「ええなあ」
「侑さん?」
「……ええなあ。あーあ、はあ。腹立つ」
「えっ!? んん? は、腹立つ?」
バレーの技術どうこうよりも、彼らの『敵』は今尚コートの上にいることが、どうしようもなく妬ましい。侑はコートから去った片割れを思い出した。もうずっと、思い出すこともなかったのに。
仲の良い兄弟だなんて寒い事は思ったこともない。
ただ治は、侑にとって、仲の良い敵ではあった。そのバレーに嫉妬する唯一の。
「俺の敵はもうバレー辞めとんねん。……ええなあ、まだ敵がコートにおって」
羨ましくて妬ましかった。
この感情をそのまま日向にぶつけるのは、半分嫌がらせの意味もある。なにせこれは嫉妬なのだ。日向も影山も、今自分たちがどれほど恵まれているのか自覚すらしていないに違いない。多少の八つ当たりくらいしたってバチは当たらないだろう。
戸惑いを見せるかと思われた日向は、侑の予想に反し小さく笑みをこぼした。それがなんだか小さな子供を見るような表情だったので、侑は微妙に居心地悪くなる。ガキ臭い事を言った自覚はあった。
日向がわざとらしく難しい顔をして、腕を組み、言う。
「……例えばですけど。俺が明日大怪我して、バレーが出来なくなったとするじゃないですか」
「エ!?」
「例えばですって! そんで、その俺が、トレーナーか何かになってどっかのチームについて影山を倒す訳です。これってつまり俺の勝ちですよね」
「あ? え? う、ウン?」
「誰か子供が俺に憧れてバレーを始めてくれたら俺の勝ちだし、影山に憧れたらあいつの勝ちです。俺が投稿した動画の再生数の方が多かったら俺の勝ち。あいつの作ったカレーの方が美味かったらあいつの勝ち。……まあ要は、コートの上にいなくても俺たちはこんななので、ずっと敵同士なんです。侑さんもそうなんじゃないですか?」
「……俺は、」
言葉に詰まる侑を見て、日向はニンマリと笑う。その顔なんだかサムに似てて嫌やな、と侑は思ったが、実のところ侑が知らないだけで、日向のその笑みは侑に似ているのだった。
「明日も紅白戦ですよね。同じチームになったらブロードやりませんか! できそうな攻撃パターンがいくつかあるんで、今サイン組んじゃいましょう」
「ブロードぉ!?」
「あと俺の到達点なんですけど、MAX350くらいです」
「ごっ……、エ!? ホンマに!? 俺より高いん!?」
「だからもうちょい高く早くでも大丈夫です。俺、打ちますよ」
アイツぶちのめしましょう、日向はそう言って瞳を眇めニヤッとする。
その顔が今度こそ治に似ていて、侑はとうとう声を上げて笑った。
翌日。午前は昨日同様に紅白戦、午後はポジション別のドリルだ。
日向と影山の海外土産のTシャツは、既に大抵の選手が練習着のローテに組み込んでいる。侑も例に漏れず、今日身につけているのは日向のイタリア土産Tシャツだった。黒地に白文字のイタリア語。何となく稲荷崎高校の横断幕を想起させる。
アップの時点で日向は既にテンションが高い。木兎と波長が合うのか、楽しげに何やら盛り上がっている。つくづくコミュ力の高い選手だな、と侑は苦笑した。
「あははは! 日向その影山のモノマネめっちゃ上手い! なあ他は? ツムツムとかどう?同室じゃん」
「侑さんですか? できますよ」
日向は髪の分け目を整えると、少しだけ眠そうな目つきをした。タレ目を表現しているらしい。そのままぐっと顎を上げ、悪役のような笑みで一言。
『俺のセットで打てへんやつはただのポンコツや……』
「ダハハハハハハ!!!!」
「ストーップ! 何やねんそれ! ぜんっぜん似てへんし、てか、え!? 何で翔陽くんそれ知って、え!?」
「似てる! めっちゃ似てる!」
『俺下手くそと試合すんのほんま嫌いやねん…』
「言いそう! ダハハハ、ツムツム言いそう〜!」
「コラーっ!」
『コートの全員手玉に取って、俺が! 1番楽しく遊んだんねん!』
「え、」
その時、近くにやってきたコーチがひとつ大きな咳払いをした。
3人は慌てて口をつぐみ散開する。少々騒ぎすぎだった。
(さっきの翔陽くんの最後のやつ、何やあれ。あんなん、言ったことも思ったこともあらへんし)
けれど何故か、本当はずっと長いことそう思い続けていたような気がした。
ゲーム開始の笛が鳴る。
相手チーム、影山のサーブだ。ビッと放られたボールは、角名の手を弾いてコート外へ吹き飛ぶ。サービスエースだった。
侑は思わず苦笑する。ローテ対角、日向の気配がぶわっと大きくなったような気がしたからだ。
点の取り合いは拮抗する。打って打たれて、拾い、繋いで。
(怖いわぁ)
ボールを繋ぐ拮抗の中、日向から伝わるのは要求や伺いなどではない。ただ「俺にトス上げるでしょ」と本気でそう思っている、それだけが痛いほど刺さる。この感覚には覚えがあった。治。
……いやお前ら、もっと他人を慮れ!
侑がセットのフォームに入るより早く、日向がぐっと両足に力を込めて飛び上がる。最高到達点350は、侑の342より8センチ高い。
高い所から高い所へ、弾くようなセットアップ。
桐生のブロックをすり抜け、日向のスパイクが床を打つ。一拍遅れて古森が床を転がるのがわかった。
「ッェーイ!」
点が決まった瞬間、思わず日向と肩を組んで雄叫びを上げる。
周囲の選手達が一斉にどよめき、コート脇で雲雀田が興奮したように快哉を上げた。「おっほ!いいねえ!」 ネットの向こうで影山が獰猛に笑う。
影山と日向でしか出来ないのではと思われていたコンビネーションだ。侑にとってそれは、憧憬の対象であり、だからこそ、「俺もあれがやりたい」のだ。そして結実する。
日向がギラギラした瞳で「もう一本!」と言うので、「任しとき」とその背中を叩きながら、頭の中で次を組み立てる。次のサーバー、向こうのローテ。……パイプで佐久早に打たせよう。
フッフ、と侑は楽しげに笑った。そう、コート上の全員手玉に取って、俺が1番楽しく遊んだんねん。
5年前にコートから去った自身の敵に向け、侑は胸中でそう宣言した。
「あ、宮選手。さっきのゲーム見てましたよ。完璧なコンビネーションでしたね」
15分休憩にて、トイレから出たところで長身の男が侑を見つけにこやかに声をかけてきた。侑よりひとつ年上の、バレーボール協会の男だ。黒尾という名前の彼は、高校時代から木兎とかなり親しいらしい。侑も歳が近いので話す機会はたまにあった。
「あの2人の召集に黒尾さん一枚噛んどるやろ」
「アララ、バレてる」
飄々としたこの男が、バレーボールの普及に誰より熱心であることはよく知っていた。プロ選手への、ひいては代表選手への不条理な関門を取り除くことへも同じく熱意があっただろう。
人を食ったような笑みを浮かべた黒尾が、侑の着ているTシャツを見て「ん?」と首を捻った。
「イタリア語? 何だっけそれ、知ってるな……。superbia, invidia e avarizia sono le tre faville c' hanno i cuori accesi……?」
「え、コワっ」
「俺が知ってるってことは大学の授業でやったってことだから……うーん、le tre faville c' hanno i cuori accesi……、あっ」
黒尾はポンと手を叩いた。
「『自負と嫉妬と貧欲は、人の心に火を灯す三つの火花なり』」
「は?」
「ダンテ! 『神曲』だ。俺大学で第二外国語イタリア語にしちゃったからさ、課題でめちゃめちゃ読まされたわけ」
「ほーん」
自負と嫉妬と貪欲さ。
心の中でそう繰り返し、侑はもう一度「ほーん」と言った。
「さすが翔陽くんセンス抜群やな。次のインタビュー、座右の銘は何ですかて聞かれたら答えこれにしよ」
「エッ、でもそれあんまいい文脈では使われてないっていうか、自負も嫉妬も人を焚き付けるからよくないよねっていうやつで」
「ええやん。自負も嫉妬も貪欲さも、バレーには絶対必要や」
きっぱりそう言い切った侑に、黒尾は目を丸くして、それから面白そうに笑った。
「天照ジャパンの公式Twitterでそのインタビュー載せる? オホン、では宮選手、座右の銘を教えて下さい」
「えー、スペラビア、インビディア、……何やっけ?カッコええしイタリア語で言いたいんやけど」
「言えてませんけど」
2人揃ってゲラゲラ笑う。
侑は笑いながら、この5年のあいだ何となく感じていた胸中の寒さが消え去った事に気づいていた。5年前に消えた妬心の炎が、幾分か温度を変えて、今度は柔らかく灯っているのを感じる。
自負も嫉妬も貪欲さも、全部バレーに必要だ。そして多分同じように、治のメシにもこれは必要なのだろう。
全部日向が持ってきたなあ、と何となしに思う。
日向翔陽がいることで、欠けたパーツが戻ったような、そんな不思議な感覚があった。足りないものが補完されたような。
ずっと敵同士なんです、と言った日向の顔を思い出した。その通りだ。ボールを置いてコートを去っても、隣で人生を爆走している治が敵であることに変わりはない。
侑はぐっと前を向いた。
くたばるまでの残り時間、1秒だって無駄にできないのだから。