◇ 12 ◇
――2日目 15:07
「はい、修理完了! ついでに油さして空気入れといたからね」
「ありがとうございますっ!」
パンクした自転車の修理が終わり、烏養に言われたとおり領収証もしっかりもらってから店を後にする。
自転車は木下が押しているのだが、この形に落ち着くまでひと悶着があった――悶着というより、自分が持つと言って谷地がずっと譲らなかっただけなのだが――。
木下としては、自転車くらい重くもなんともないし、いくらマネージャーとは言え後輩女子が荷物を持っているのに自分が手ぶらというのは落ち着かない。そう告げ、最終的には先輩命令という形で押し切った。そのおかげでしばらく、谷地は顔を下げっぱなしだった。
空は曇天。ここ数日の猛暑に比べれば涼しいが、それでも十分に暑い中、2人はずっとなにかしらの話をしながら歩き続けていた。その内容のほとんどは、バレー初心者である谷地のためのバレー講座だ。本を読んだだけだといまいち内容を理解しきれない項目を中心に、勉強熱心な彼女からの質問は絶えない。
「そういえば、木下さんの用事ってなんなんですか?」
はたと、彼の用事を聞いていなかったことを思い出す。それに彼は笑いかけた。
「お使い。親の」
「おお!」
「店は烏野から近いんだけどさ、部活終わる頃には閉まっちゃうんだよな。急遽いけってメール来たの、昼休憩終わる直前でさー」
ほらあの店だよ、と指さされた先にあったのは、一軒の建物。
白く塗られた外壁に、茜色の屋根。建物自体はそう大きくはないようだったが、その代わり庭が広い。芝生が鮮やかな庭を強い日差しから守るように延びる大木の枝には、艶やかな緑葉が生い茂っている。建物を取り囲む花壇には色とりどりの花が植えられていて、少し前に水やりでもしたのか丸い雫が花弁に乗っていた。
シックな木目調のドアより斜め前には、黒板タイプのメニューボードが置かれている。小さい鳥の人形が羽やすめをするかのように、止まり木に見立てたボードの縁に乗っていた。
『Café Le Ciel』の今日のおすすめは『夏季限定! 白桃タルトのドリンクセット』らしい。
「ここ! 気になってたお店ですよ!」
谷地が少し興奮気味に言うと、木下は小さく笑って店の扉に手をかけ手前に引く。来客を知らせるために付けられているであろうベルは、ウインドチャイムのような軽やかな音を鳴らした。
扉から見て右手側にカウンター、左手側に客席がある。店の奥には階段が見えるが、途中に大きめのコルクボードが置かれている。おそらくは客席ではなく、スタッフたちの休憩室に繋がっているのだろうと予想する。
扉が面している壁の右手の棚にはコーヒー豆や紅茶、焼き菓子、ジャムなどの商品。左手の棚には雑誌や新聞、ブランケットなど店内で利用できる物が揃えられていた。
店内には控えめに、ジャズアレンジされた映画音楽が流されている。今流れているのは、60年代に流行ったミュージカル映画の曲だ。今も時々、テレビコマーシャルで耳にする。
席は殆ど埋まっていて、それぞれが居心地良さそうに利用しているのが分かる。客の年齢層は広いようだが、かしましさはなく落ち着いた雰囲気だ。
(素敵なお店……!)
谷地がこっそり感動していると、カウンターの中で作業をしていた従業員が彼女たちに気付き、顔を上げた。
「いらっしゃいませー……あ」
その人は、こちらを見て来店時の挨拶をしたあと、何かに気づいたように小さく声を発した。瞬間、谷地の視線はその人に釘付けになる。緩やかに波打つ胡桃色の髪に、少しだけ垂れた大きな目が特徴の美女が、微笑んでいた。
(び、びじん……!)
思わず赤面してしまっていないかと両手で顔を抑える。清水に声をかけられたときも、同じような状態になったことを思い出した。
男だけではなく、同じ女でも美人には目を奪われる。清水は艶やかな黒髪と少しつり上がった涼やかな目元が特徴のクールビューティーだ。一方、目の前に立つ女性は最近はやりの“ゆるふわ”という言葉が似合いそうな優しい雰囲気の美人だった。
「久しぶりね、木下君。いらっしゃい。隣の可愛い子は、彼女かしら?」
目の前の彼女がにこやかに話しかけてきたが、その内容に仰天した谷地は全力で手を振り、首を振る。
「そんっ! ちちちちがいます彼女なんて恐れ多い!」
「やっちゃん落ち着けって。お久しぶりです、美羽さん。この子は新しくマネージャーになってくれた後輩ですよ」
「はいっ、そうですマネージャーに恐れ多くもなりましたえっと、谷地仁花です!」
店内に響き渡るほどの大声での自己紹介に、美羽と呼ばれた女性は楽しそうに笑い、隣では木下が、声大きすぎだってと小さく呟いて笑った。
「谷地仁花ちゃんね。初めまして、高橋美羽です。よろしくね。で、木下君は注文してたコーヒー受け取りに来たのかな?」
「そうっす。急遽行けなくなったから代わりに行ってこいってメール来ました」
高橋はそれを聞くと、奥から幾つかの商品が入ったかごを持ってきてカウンターに乗せた。中には、人の名前が入った付箋がつけられた商品が並べられている。その殆どはクラフト袋やアルミパックだった。
その中から3つのクラフト袋を取り出し、付箋を剥がして木下の前に並べた。この店の制服らしい、白い手袋をはめた手で商品を指し示しながら、
「赤いシールが貼ってあるのがいつもと同じ豆ね。青いシールのが、木下さんが試してみたいっておっしゃっていた新商品で、何も張ってないのはおまけなんだけど……」
おもむろに作業台からコーヒーが入ったグラスドリップメーカーを持ってきて、カウンターへと乗せる。続いて後ろの棚からコップを二つ取り出し、中に氷とコーヒーを入れ、木下と谷地へと手渡した。
「飲んでみて。気に入ったらおまけで付けちゃうから。ミルクとかいる?」
「大丈夫ですありがとうございます!」
暑い中歩き続けてきた二人にとっては、まさに命の水ともいえるようなタイミングで差し出されたコーヒー。日差しがきつくなかったとしても、暑いものは暑いのだ。
頂いたコーヒーは、風味は豊かだが重たくなく、どちらかといえばさっぱりとした味わいだった。冬の寒さの中で飲むなら、もう少し強いホットコーヒーがいいかと思うが、今日みたいな暑い日にはちょうどいい口当たりだ。
「おいしいです!」
二人が声をそろえて感想を述べると、高橋は笑顔を浮かべ、他の二つと一緒に作業台の上に乗せた。
「そういえば店長いないんですか今日」
他の商品が入ったままのかごを元の位置に戻してから、店名が印刷された紙袋を取り出す。そこに、木下が受け取る予定の商品を一つひとつ入れていきながら、高橋は困ったように笑う。
「それがねー、店長ったら昨日手を怪我しちゃったのよ。現場見てないんだけど、指を思いっきり挟んだらしいわ」
病院行ってきなさいっていうんだけど全然言う事聞いてくれないのよね、とため息交じりに呟く。彼女の言葉を聞きながら、谷地は先ほど菅原から聞いた話を思い出していた。
日向が犯人の一人に薬を飲まされそうになった時、相手の指をかんだらしい。という話。
(ただの偶然だよね……)
「部活忙しそうね。夏休みなのに毎日のようにやってるんでしょ?」
商品を入れ終えた紙袋に封をして、レジカウンターの隣へ乗せると会計作業に入る。木下もレジ側に回り、財布を取り出した。
「春高近いっすから! 時間どんだけあっても足りないし」
「なんだっけ、烏野は凄い選手がいるんでしょう? 王様とか、小さい子とか」
「影山と日向のことですかそれ。どこで聞いたんですか?」
「うちに来てくれた他校のバレー部の子たちがね、烏野の小さい……何番だったかな。とにかく小さい子が凄い動くし早いし飛ぶし。王様と青城のセッターの対決もすごかった! って」
がたん、と何かが落ちるような音が空間に響いた。驚いて後ろを振り返る。
店の奥の一席に座っていた男が自分の携帯電話を床に落としたようで、慌てた様子で拾っていた。テーブルの上にはクラブハウスサンドとグラスに入れられたアイスコーヒー。サラリーマンのような風貌で、今日のような暑い日にもしっかり背広を着ている。まだ年若いように見えた。
彼は携帯を拾うとすぐにカバンを持って立ち上がり、なぜか谷地たちへと近づいた。
「ごめんね、驚かせて。君たち烏野の子なの?」
「そう、ですけど」
木下が訝しみながら返答すると、男は柔和な笑みを浮かべた。
濃茶の髪と、切れ長の目が特徴の男性。影山と変わらないくらいの背丈に、顔も整っているいわゆるイケメンだ。なのに、記憶に残りにくい雰囲気だと谷地は思う。この場から離れたら半日も経たずに、顔だけが綺麗さっぱり記憶から消えていそうな、そんな印象を受けた。
「日向って言ってるのが聞こえたから。もしかして、日向翔陽のことかなって」
「日向の知り合いなんですか?」
「親戚なんだ。……今日変な噂を耳にしたから心配して、電話したんだけど連絡取れなくてさ。君たちなら何か知ってないかなって思って」
いきなり話しかけてごめんねと再度謝って、返答を待っている。
「えーっと……入院してるらしいですよ、日向」
「えっ、そうなの? どこの病院かは知ってるかい?」
そう問いかけられ、はっとする。どうして今の今まで気付かなかったのか。
「先輩! そういえば私たちまだ日向がどこに入院してるか聞いてません!」
「そういやそうだったな。帰ったら聞こうか。ってことで、病院は知らないんです。すんません」
申し訳なさそうに頭を下げる木下をみやり、谷地は再度目の前に立つ男に視線を移す。
一瞬だけ、柔和な笑みを消しこちらを睨んでいるように見えた。ぞわり、と何かが背中を這い上がったような感覚が谷地を襲う。
しかしそれが見間違いであったかのように、男は変わらず微笑みながら気にしないでいいよ、と口にしてレジへと向かう。精算を済ませて、そのまま店を後にした。
「はーい、お待たせしました」
高橋の明るい声に引っ張られるように意識を戻す。呼吸が止まるかと思うような恐怖を感じた気がしたのだが。
(気のせいかな……?)
カウンターから出て、木下に荷物を手渡している姿を横目に小首をかしげる。臆病者である自覚はあるが、あそこまで恐怖を感じたことは初めてだった。
それからもう一つ、首をかしげたくなることが目の前に。
「高橋さん、背たっかいですね」
そう、高橋の身長についてだ。
カウンターの床は、客席側の床より若干高めに作ってある店舗というのはたくさんあるので、気にしていなかった。だがどうやらこの様子だと、床はすべて同じ高さのようだ。
しかし口に出してから、しまった、と思い後悔する。谷地自身は小柄な部類なので、背の高い女性に憧れを抱くことは多い。しかし当の長身女性たちは、自分の背が高いことにコンプレックスを抱いているケースが少なくないのだ。
もし彼女も気にしていたらどうしようああなんてことを私ってほんと!
「でしょ。結構自慢なのよ。今靴底厚めの履いてるし、木下君より背あるんじゃない?」
「……っすね。身長欲しい……」
身長が欲しいと嘆き大きくため息をつく木下をよそに、谷地は安堵のため息を漏らした。彼女は長身であることを気にしていないどころか、その点に自信を持っているようだ。
「かっこいいです! モデルさんみたい!」
興奮気味に伝えると、きょとんとした顔で首をかしげてしまった。それから顎に右手を当て、なるほどと小さく呟く。
「そういう道もあったか……谷地さんみたいな可愛い子に言われると照れるね」
「か、かわっ?」
急にほめられたことで動転する谷地をよそに、高橋は歩を進める。木下たちが外に出やすいように扉を開けると、入店した時と同じウインドチャイムのような軽やかな音が響いた。
一歩外に出ると、またむっとした熱気が襲ってきて思わず店に戻りそうになる。しかし、そういうわけにもいかないので勇気を出して一歩足を踏み出した。そんな谷地たちの心情を読みでもしたのか、扉を支えていた高橋が小さく笑う。
「引き続き部活頑張って。またのお越しをお待ちしております」
彼女の声を背に、日向の自転車を押して元来た道を歩き出す。
今日は思わぬ収穫があった。ずっと気にしていた可愛いお店に偶然入れて、美人な店員さんと話が出来た。扱っている商品も豊富そうだったし、今度ちゃんとお客として行ってみよう。そのときは日向たちを誘ってみようか。
「そういえばさっきの男の人、テーブルに乗ってるご飯とか飲み物に口つけてませんでしたね」
「そうだった? 全然見てなかったわ」
「美味しそうだったのに……」
もったいない、と内心で独りごちる。手をつけないくらいなら頼まなければいいのに。
「なーんか、気味悪い感じの人だったよな、さっきの男の人」
気をつけたほうがいいかな、と木下が呟く。
……何に気をつければいいんだろう?