菊田部長の場合



01


「好きだーーーーッ!!!!!!」

 居酒屋に響き渡る私の声、これがオフィス街ならなんと迷惑な行為であろうか。しかし決して小さくはないこの声も騒がしい店内では数人がちらりとこちらを振り返るのみで特に問題はない……と、アルコールに侵された脳みそがそう判断しての行動。そしてその誤判断に気が付けないほどに酔っているのが、そう、私である。
 しかし目の前の男はその生真面目さからか、せわしなく周囲を見渡した後、小さく咳払いをして私の愚行を諌めるのだった。

「……神崎、声が大きいぞ」
「うわーん! 有古くん……! ごめんねぇ〜〜〜……!」

 先ほどよりかはボリュームを落とし、それでも私は騒がしいままにテーブルへと突っ伏した。情緒不安定な私の様子にも有古くんはもう慣れてしまったのか、静かに息を吐きながらその広い肩を落とす。

「それで、今日はどうした」
「ううっ……! 聞いてくれるのかい有古くんッ!」
「そのために呼んだんだろ」
「そうなの! 聞いてよう有古くん――菊田さんがさぁ……!」

 何杯目かわからないビールのジョッキをテーブルに打ち付けながら、私は私の想い人である――菊田部長について、有古くんへ話し始めたのだった。

 菊田杢太郎部長。私と、私の同期である有古くんの上司であり、何を隠そう(隠してもいないが)私が絶賛片想いをしている超超大好きな人なのである。
 なぜこんなにも彼に惹かれているのか? もちろん顔が好きなのもあるがそれだけではない。

 まずはその話をしたいと思う。

 私がこの会社に入社して一年……いや、一年と半年? くらいは経ったであろうその日、私は初めて自分の担当した仕事で大ポカをやらかした。
 とはいえ二年目の社員に任せられている仕事などたかが知れている、部長や先輩に頼れば挽回くらいできなくもない、のだが、その肝心の先輩であるところの尾形百之助が――

「こんなことも一人でできねぇのか……随分とぬるい仕事してんな」

 ――なんて、嫌味な一言を寄越すものだから。落ち込んで……と、いうよりかは――意地になって?
 絶対に見返してやる、と休憩時間も返上して仕事をし続ける私を見かねて、菊田さんが声をかけてくれたのだ。

「一緒に飯食いに行かねぇか?」

 仕事が、と断ろうとする私を「上司の顔を立てるのも仕事のうちだと思えよ」なんて言葉巧みに丸め込み、彼は社外の食堂へと私を連れ出した。

「あの、せめて社内で……」
「まぁまぁ」

 時間がないのに、と焦る私をよそに、彼は「なんでも頼んでいいぞ」とメニューを広げる。これは何を言っても無駄か、と、私はメニューの中から一番早くできそうな蕎麦を頼むことにした。

「それで足りるか?」
「……おなか、あんまり空いてないので」
「そっか」

 彼が店員を呼び二人分の注文を伝える。その間も私はなんだかソワソワして落ち着かない気分で、店の天井や壁なんかを見渡していた。

「……落ち着けって、ほれ、灰皿。お前も吸うだろ?」
「いえ、今は……そういう気分でもないので」
「そう? じゃ、俺は失礼するぜ」

 かち、とライターの音がする。タバコを出して、火をつけて、煙を吐く。ただそれだけの動作がやけに似合ってしまう人だなぁと微かにそんなことを思いながら、それでも私の心は残してきた仕事のことばかりを考えてしまうのだ。
 ああ、あそこはどうしようか。そこを直したら次は別の箇所が。
 そんなことばかり考えて視線を落とすと――突然、あたたかなものが私の頭にやさしく触れた。それが彼の手だと気づくまでに、私は数度の瞬きをしたと思う。

「こんを詰めすぎだ」

 え。と顔を上げれば、困ったように笑う彼と目があった。その視線があまりにも優しかったものだから、私の心臓は、思いがけず、大きく飛び跳ねて、

「……お前はできるやつだから、大丈夫――心配してねぇよ」
「……!」

 温かな言葉、指から伝わる彼の体温。
 私を見つめる、彼の、瞳。

 ――その日、その時、私はたしかに恋に落ちたのだ。

「……何度目だろうな、その話」
「なんどめだろう……」

 そんな恋の始まりの日のことを有古くんにひとしきり話してから、彼の苦笑に首を捻る。
 自分でも、毎回毎回同じ話ばかりしている自覚はあった。けれどそれが何度目かは数えていない。というか、数えられないくらいしている自覚もある。
 それでも毎回聞いてくれる有古くんに甘えて、私は何度もこの話を繰り返していた。

「……とにかくね! 私ね、それでね、菊田さんのこと好きになってね、それで……それで……」
「ああ」
「しゅき…………」
「うん」

 有古くんは優しい。語彙力も中身もない私のこんな話を、よくもまぁ毎度聞いてくれるものだ。
 素面の時に謝罪と感謝を伝えたところ、「俺もいつも助けられてる、俺にできることなら協力しよう」なんてことまで言われてしまった。こんなにいい奴、そうそういない。ほんとに。感謝永遠。

「…………あっ、思い出した……! そういえば有古くん! あれどうだった!?」
「あれ?」
「菊田さんの! 好きなタイプぅ!」
「ああ……好きな異性のタイプは聞けなかったが」
「が!?」
「犬派だとは言ってたな」
「え〜!? ねぇどう? 私犬っぽいかな!? 猫っぽいかなぁ!?」
「……うーん……懐いた猫、だろうか……?」
「え〜……ねこかぁ……!」

 そんな話をして笑い合い。ひとしきりはしゃいだ後は今度は彼の話を聞く。そんな感じで私たちはちょっと上手くやっていた。そんな日々だった。

 これは、そんな日々と私の片想いの話である。