菊田部長の場合
02
飲み会の翌日。痛む頭を押さえながら、私は会社のエレベーターに乗り込んだ。フロアにたどり着いて自席へ向かえば、ちょうど同じ時間に出勤したらしい有古くんがそこには立っていた。
「……おはよう」
「おはよう……大丈夫か?」
「ううん……多分、ある程度は」
流石に昨日は飲みすぎたらしい。私は今朝買ってきた栄養ドリンクを開け、一気にあおってから深くため息を吐いた。
「……そんなに悪いなら少し休んだ方が良くないか?」
「いや……二日酔いで潰れてるなんて尾形先輩に知られたら、また何言われるか……」
「ああ……」
私ほどではないが彼を苦手としているのは有古くんも同じ。嫌味さと優秀さが比例する厄介な先輩の名前を出せば彼も納得したように息を吐いた。つられて私ももう一度ため息を吐きそうになったところで、背後から「おはよう」と気の良い挨拶が聞こえてくる。
「部長! おはようございます!」
「おう、朝から仲良いな〜お前ら」
そこにいたのはもちろん愛しの菊田部長その人で。私は体調不良などおくびにも出さず、自慢の愛嬌スマイルで彼を振り返った。
……その分、隣にいる有古くんが余計に気まずそうな顔をしてしまうのだが。
「おはようございます、珍しいですね俺たちより後に来るのは」
「まぁな……今日は尾形が先に来て鍵開けしてくれるっていうからよ」
「え」
あの人が、先に……? ということはもしや先ほどの会話も聞かれていたのではと背中に冷たいものを感じる。慌てて周囲を伺うも人の気配は無し、良かったような、しかしまだ油断できず恐ろしいような……。
そんな私たちの心中など知ってか知らずか、菊田さんはなおも上機嫌なまま、そうだ、と何か良いことでも思いついたかのように声を弾ませた。
「この前いい店見つけたんだよなぁ、とにかくトリ肉が美味い! ……ってことで、お前ら今日空いてるか?」
にっこり。悪意なんて一ミクロンもない。しかし私の頭は酷く痛み「それだけはまずい」と追加のアルコールに対して警鐘を鳴らしており、恐らくそんな私の様子に気が付いている有古くんは心配そうな表情で私の顔を覗き込み、そして――
「――もちろんでぇす……!」
私は、目の前の幸福のために死を覚悟した。
彼のいう通り、その店の焼き鳥は絶品だった。
柔らかくて大ぶりで……それでいてかつ、リーズナブル。
うん、すごく美味しいのだ、それは。本当に。
「遠慮せずじゃんじゃん食えよー」
「……はぁい!」
頭に響く居酒屋の喧騒、弱った胃にもたれる油アンド脂……。正直何度「帰ろうか」と正気に戻ったことか。それでもその度に彼の楽しそうな横顔を見て「いや、まだもう少し」と私は浮かせた腰を下ろすのだ。
「なんだ、もう飲まないのか〜?」
「今日はお酒はちょっと……ウーロン茶でも充分楽しいので!」
「そうかぁ?」
決してお酒は弱くないはずなのに、頬を赤く染め上げながら首を傾げる彼。その可愛らしさたるや――そう、これのために、この彼の姿を見るために……私は何もかもを耐えて堪えてここに来ているわけで……!
その頬の赤色もさることながら、いつもよりさらに優しく弧を描く瞳、緩んだ口元。少し呂律が甘くなる話し方も、伸ばされる語尾も全部全部、全部が――そう、こんなにも愛おしい……!
これは無理をおしてでも来た甲斐があるというもの。例えそれで優しい有古くんに心配をかけ、こんなにも不安そうな顔をさせてしまっていても。許せ有古くん。
(それに、このペースならたぶんそろそろ――)
淡く邪な期待に胸を高鳴らせていると、ふいに、彼が私のほうへと手を伸ばす。
――来た。
「神崎」
「は、はい」
「お前は……――本当にかわいいやつだなぁ〜!」
「!」
私の邪な期待通り、その手は無遠慮に私の頭を撫でまわし私の髪を乱していく。私は上ずる声で「ありがとうございます」なんて当たり障りのない返事をしながらそれを止めるわけもなく甘受していた。
「有古ぉ、お前もかわいいやつだよ、仕事もできるし……優秀な部下を持って嬉しいよ俺は!」
「うわっ……! き、菊田さん、危ないですよ……」
今度は有古くんに腕を伸ばし肩を抱く。テーブル越しにそんなことをされたものだから、少しバランスを崩し焦るようなそぶりをしているが、その実彼も満更ではないことは伏し目がちにうつむく彼の頬を見ればすぐにわかることだった。
「お前らは本当にいい子だよなぁ〜、誘えばついてきてくれるし、俺のこと邪険にしないし……尾形もお前らの何分の一かくらいはかわいげがあればなぁ……」
「それは無理じゃないですか、ねぇ有古くん」
「えっ……いや……まぁ……」
そうかぁ、と少しだけまゆ尻を下げながら、空いた腕で私の肩も抱く菊田さん。……私が待っていたのは、まさしくこの状況だった。
酒が進むと彼はいつもこうだ。普段は「セクハラにならねぇかな」なんて心配をしている(と有古くんが言っていた)癖に、そんなことお構いなしとでもいうように頭を撫でたり、肩を抱いたり。
もちろんそれ以上のいやらしい接触なんて一切ない。だから私だって全然嫌じゃなくて、むしろ嬉しいくらいで――さっきまで頭が痛かったことなんて、忘れてしまえるくらい。
(……けどもし、私が一言でも嫌だと言えば、きっともう二度とこんな風にはしてもらえないんだろうな)
たった一言、「やめてください」、と。そう言ってしまえば終わってしまうくらいの、脆く儚い幸福だ。
それが当然であることは私も良く理解している。……だって、私と彼はただの上司と部下であって、それ以上もそれ以下もないのだから。
(…………わかってます、わかってるつもりです、でも……)
それ以上をと望んでしまうのは――私の、わがまま、なんだろうか。